第一話 聖女の座を奪われた日 前編
「リーノ=エレディア。あなたを、神に背いた罪で裁きます」
聖堂に響き渡る宣告の声は、まるで別人のもののように遠く、冷たかった。
十字に縛られた手足は痛みに震え、床に広がる聖水は、私の足元で鈍く光を反射している。
目の前に立つのは――クラリッサ。
金の巻き毛。聖なる装束。誰よりも清らかだった、私の親友。
「どうして……?」
声は、かすれていた。
「あなたが、私のすべてを壊したのよ。だから、代償を払ってもらうわ」
目を伏せて微笑む彼女の顔に、あの日の優しさはどこにもなかった。
私は、神に仕える聖女だった。
それなのに、今、焼かれようとしている。
裏切り、嫉妬、誤解、そして――炎。
焼け爛れた皮膚の奥で、何かが崩れ落ちていく。
祈りも、希望も、もういらない。
「……誰でもいい……この世界を……壊して」
その瞬間だった。
闇の奥から、男の声が響いた。
「その願い、聞き届けたぞ。少女よ――おまえの魂を、闇に預けよ」
そして私は、再び目を開ける。
血のように赤い空。黒い城。私の前に跪く、魔族たち。
名を呼ばれた。
「我らが姫君、リーノ=アズラ様――」
ああ、これは、私の復讐の物語。
私を焼いたこの世界に、必ず罰を与えてやる。
聖女リーノ・エルグレアは、神殿の最奥、光の間にひざまずいていた。
長く伸びた白金の髪が大理石の床に広がり、淡く光を受けて揺れている。
祈りの言葉を口にしながら、彼女は心の奥で、不穏な違和感を抱えていた。
「神よ、我に光を。世界に癒やしを……」
それは、毎朝の祈りの言葉。しかし今日は、何かが違っていた。
いつもなら温かな光がリーノの手のひらに宿るはずだった。
けれど今朝、彼女の指先は冷たく、ただ沈黙していた。
(……まさか、力が……?)
その瞬間、扉が開いた。
赤い絨毯の上を、音を立ててブーツが鳴る。
入ってきたのは、一人の少女だった。
「リーノ様、もう結構ですわ」
艶やかな黒髪を揺らしながら、少女は微笑んだ。
聖女候補の一人、クラリッサ・ロゼリア。
平民の出自ながら、その奇跡的な癒やしの力で聖女候補となった少女だった。
「……どういう意味かしら、クラリッサ?」
「神託がありましたの。新たな聖女は、私だと」
その言葉を聞いた瞬間、光の間の空気が変わった。
天井に浮かぶ聖なる紋章が、静かに光を放つ。
それは、確かに神託が下った証だった。
「そんな……私は……ずっと……」
「神の選びに逆らうおつもり?」
クラリッサは可憐に笑う。だがその眼差しは、獣のように鋭かった。
それが、リーノのすべてを奪う告知だった。
その日を境に、リーノは聖女の座を追われた。
神殿は彼女を冷たく突き放し、王都の誰もが手のひらを返した。
かつて「聖女様」と呼ばれ、敬われ、頼られていた日々。
それらは、たった一つの神託で瓦解した。
リーノは、王都から遠く離れた辺境の地へと追放された。
わずかな衣と、一人分の食料だけを持たされて。
護衛もなく、道案内もなく。
(これは……ただの追放じゃないわ。処分よ)
草木の茂る獣道を進みながら、リーノは噛みしめるように思った。
裏切り。屈辱。喪失。そして、怒り。
(私は何も悪いことをしていない。なのに――)
その瞬間、何かがリーノの足元を掴んだ。
鋭い痛みが足首を貫き、視界がぐるりと回る。
気づけば、彼女は地面に倒れ込んでいた。
周囲は、漆黒の闇だった。
……いや、ただの闇ではない。
そこには、異様な空気が漂っていた。
「よく来たな、人間の聖女よ」
声がした。
それは、甘く、低く、そして底知れぬ威圧を孕んだ声。
リーノは顔を上げた。
そこに立っていたのは――
漆黒の翼を持つ、紅い瞳の少女だった。
「我は、魔王の娘。ルシフィア・ノクス。お前を歓迎しよう、人間」
――その出会いが、すべての運命を変える。
リーノは人として捨てられた。
ならば、人であることをやめよう。
(なら……私は、魔族として生きてやる)
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一ノ瀬和葉