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冬の埠頭、一度だけのキス

作者: マサキ

あなたの記憶の中に、今もふとした瞬間に蘇る、特別な人はいますか。


それは、共に長い時間を過ごした親友や、大恋愛の相手ではないのかもしれない。

ただ、同じ教室の空気を吸い、ほんの短い間だけ、秘密を分け合った人。

不器用な優しさに救われ、その人のために、ほんの少しだけ勇気を出したくなった人。


この物語は、そんな「特別な誰か」と出会ってしまった、ある少年の記憶の物語です。


舞台は、三十年近く前の、どこにでもあったありふれた高校。

成績優秀で、誰も寄せ付けないほど凛としていた少女。

平凡で、どこか冷めた目で世の中を見ていた少年。


交わるはずのなかった二人の世界が、職員室での小さな事件をきっかけに、静かに重なり始めます。

少年だけが知る、少女の固い決意。

少女だけが気づく、少年の不器用な献身。


これは、二人が大人になる少し前の、夏の陽射しと冬の潮風に彩られた、短い季節の記録です。


三十年近く前の、あの夏。じりじりと肌を焼くアスファルトの熱も、耳鳴りのように響いていた蝉の声も、まるで昨日のことのようだ。そして、冬の港で僕の唇に触れた、彼女の唇の、ほんの一瞬の感触も。


高三の夏休み。僕は学校からの呼び出し状を握りしめ、うんざりしながら電車に乗っていた。隣県の海辺の民宿でのアルバイトが、学校にバレたのだ。僕の学校ではアルバイトは禁止されていた。


職員室の扉を開けると、ランニングシャツ姿の生活指導の教師が、生ぬるい風を送り出す扇風機の前で手招きをしていた。

「もう一人来る。そこに座って待っとれ」

もう一人、誰だろう。そう思っていると、扉が静かに開いた。

入ってきたのは、相川海咲あいかわ みさきだった。


同じクラスだが、僕は彼女と話したことがなかった。海咲は、教室という名の小さな水槽の中を、一匹だけ違う法則で泳いでいる魚のようだった。誰にも媚びず、群れることもない。休み時間はいつも窓の外を眺めているか、文庫本を読んでいるか。その凛とした横顔に、クラスの誰もが一種の気後れを感じていた。

僕の隣に静かに腰掛けた海咲が、ぺこりと小さく頭を下げた。彼女の髪の一房が、窓からの光を吸い込んで淡く光ったのを、なぜか鮮明に覚えている。


説教は、予想通り退屈なものだった。

「来年は受験だろうが。バイトなんぞしとる場合か」

教師の矛先は、もっぱら海咲に向いていた。彼女が、全国模試で総合一位を叩き出した、学校の「期待の星」だったからだ。

「相川は、もちろん国立の、それも一番上を目指すんやろ?」

教師の目がぎらついている。教師の関心がすべて彼女へと注がれる中で、僕は自分の存在が急に色褪せていくような、不思議な疎外感に包まれた。

その時だった。


「大学には、行きません」


海咲の静かな声が、蝉の鳴き声と扇風機のノイズを切り裂いた。

僕と教師は、同時に「えっ?」と声を上げた。

「卒業したら、アメリカへ行きます。その費用を稼ぐために、アルバイトは辞めません」

淀みなく、しかし強い意志を宿した声だった。教師は言葉を失い、ただ口をパクパクさせている。僕は、隣に座る彼女の横顔を盗み見た。窓の外を見つめる、いつもと同じ涼しげな横顔。だがその奥に、僕の知らない固い決意が燃えているのが分かった。

結局、海咲は特別な「アルバイト許可申請書」を、僕は原稿用紙十枚の反省文を書く罰を、それぞれ渡された。

期待の星と、ただの凡人。分かりやすい結末だった。


その帰り道、僕たちは初めて、並んで駅までの道を歩いた。

「今日のこと、まだみんなには内緒にしててくれる?」

先に口を開いたのは海咲だった。僕が頷くと、彼女は少しだけ俯いて、言葉を探すように続けた。


「なんて言うのかな…。事が大きくなると、ちょっと面倒だから...それに、ね」


最後の「それに、ね」という言葉に、彼女が職員室で語らなかった、もっと深い理由が隠されている気がした。

「わかった」

僕が短く答えると、海咲は顔を上げて、安心したようにふわりと笑った。僕は、彼女が笑うのを初めて見た。それは、夏の太陽の光をぜんぶ集めたみたいに、眩しい笑顔だった。

彼女は、自分のアルバイト先である海辺のレストランの話を、楽しそうに語ってくれた。料理を運ぶこと、お客さんと話すこと、忙しく立ち働くこと。そのすべてが、彼女を輝かせているらしかった。


その日を境に、僕と海咲の世界は、ほんの少しだけ交わった。

夏休みの間、僕は何度か彼女の働くレストランを訪れた。海咲は、教室で見る姿とは別人だった。きびきびと動き、客と自然に笑い合い、生き生きと輝いている。働くことが好きなんだ、と僕は思った。そして、そんな彼女をもっと見ていたい、と思った。


二学期が始まると、僕と海咲が親しくなったことは、クラスの恰好の噂になった。冷やかされても、僕は気にならなかった。授業の合間や昼休みに交わす、他愛ない会話。それだけで、灰色の学校生活が、少しだけ色づいて見えた。


秋が深まり、文化祭や体育祭の準備が始まっても、海咲は一切参加しなかった。渡米の準備と、アルバイト、英会話レッスン。彼女が自分の未来のために戦っていることを知っているのは、クラスで僕だけだった。

「相川って自分勝手だよな」

「クラスの和を乱してる」

そんな陰口が、僕の耳にも届くようになった。そして、当の本人がいないせいか、その非難の矛先は、なぜか僕に向けられた。

「お前、相川と仲良いんだろ。なんとか言えよ」

僕を囲んだ男子生徒の一人が、嘲るように言った。

その瞬間、僕の中で何かがぷつりと切れた。僕が守りたかったのは、彼女の名誉だったのか、それとも、僕だけが知る彼女の笑顔だったのか。わからない。ただ、カッとなって、目の前の男の肩を、力任せに突き飛ばしていた。


ガシャン!という、耳をつんざく音。

男はよろめいて窓に手をつき、窓ガラスが蜘蛛の巣状に割れ、床に砕け散った。一瞬の静寂。僕の心臓は、氷水に浸されたように冷たくなった。

幸い、男はブレザーの袖が破れただけで怪我はなかった。だが僕は、その年二度目の反省文を書くことになった。


数日後、久しぶりに登校してきた海咲が、僕の席にやってきた。

「聞いたよ。窓ガラスのこと」

彼女は、少し困ったように眉を下げていた。

「ごめん。私のせいで」

「いや、俺が勝手にやったことだから」

僕はぶっきらぼうに答えるしかなかった。

「…ありがとう」

海咲は、消え入りそうな声でそう言うと、自分の席に戻っていった。ありがとう、という言葉が、砕けたガラスの破片みたいに、僕の胸にちくりと刺さった。それはなぜだったろう。彼女を守りたかったはずの自分の行動が、結局はただの暴力でしかなかったことへの情けなさか。あるいは、大きな世界へ旅立とうとしている彼女の前で、窓ガラスを割ることしかできない自分の子供っぽさを、その一言が浮き彫りにしたからか。たぶん、その両方だった。彼女からの感謝は、誇らしいというより、少しだけ痛かったのだ。


やがてクラスは受験一色になった。そんなある日のホームルーム終わり、やたらと仕切りたがりで、いつも少し空回りしているクラス委員長が、突然声を張り上げた。

「なあみんな!このクラスの団結を示すためにも、受験壮行会っていうのをやらないか!一人一人、将来の夢を語って、士気を高めるんだ!」

拳を突き上げて熱弁する委員長を、クラスの何人かが「おー!」と囃し立てる。よくもまあ、そんなくだらないことを思いつくなと僕は内心うんざりしていたが、その時、はっとした。

(まさか、海咲も話すのか…?)

僕は、斜め後ろの席に座る海咲の方を、思わず振り返った。海咲は、机に両肘をついて、両手の上にちょこんと顎を乗せていた。彼女はこちらの視線に気づくと、顔の向きは変えずに、目だけを僕の方へ向けた。その目は、困っているようでも、焦っているようでもなく、ただ静かに「もう、しょうがないね」と語っていた。まるで、僕と彼女だけに通じる合言葉のように。

僕たちの秘密が、もうすぐ終わる。その静かな覚悟が、彼女の瞳には宿っていた。


やがて、名簿順で一番手の相川海咲が、壇上に立った。

彼女は、あの日、職員室で語ったのと同じように、自分の夢を、静かに、しかしはっきりと語った。そして最後に、「準備に追われ、皆との時間を疎かにしてごめんなさい」と、深く頭を下げた。


その日を境に、クラスの空気は一変した。それまで彼らが海咲に抱いていた「自分勝手で協調性がない」という印象は、見当違いの、恥ずべき誤解だったと誰もが悟ったのだ。彼女は、僕たちのように決められたレールの上を歩いていたわけではなかった。たった一人で、自分の未来を切り拓くために、見えない場所で戦っていた。そのひたむきな姿、そして自分の言葉で未来を語る強い眼差しは、ただ漫然と「受験」というゴールに向かっていた僕たちの胸を強く打った。そこにあったのは、もはや単なる尊敬や同情ではなかった。自分たちの世界のあまりの狭さと、彼女の見つめる世界の広さ。その圧倒的な差を前にした、一種の憧憬しょうけいだったのかもしれない。だから、その後、海咲の周りには、いつも人が集まるようになった。

僕は、皆に彼女を取られたような寂しさと、彼女がもう誤解されずに済むという安堵の、複雑な感情に浸っていた。


年末、海咲から僕の家に電話があった。

「年末年始、アルバイトもレッスンがないの。…デート、しない?」

それは、あまりに不意打ちの、嬉しい誘いだった。


僕たちは神戸に向かった。日本を離れる前に、中学まで過ごしたこの街をもう一度見たかった、と彼女は言った。

三宮の埠頭。僕たちは、海に向いたベンチに並んで座った。冬の海は少し霞んでいて、船がゆっくりと通り過ぎていく。

「私の両親、離婚してるの。でも、一緒に暮らしてる。…おかしいでしょ?」

海を見つめたまま、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

「私が大学入学でもなんでも、家を出るまで、っていう約束だったみたい。だから、私のせいなんだって、ずっと思ってた。早く、この家からいなくならなきゃって」

アメリカ行きは、両親を解放するための、彼女なりの優しさでもあったのだ。

「私がいなくなれば、二人とも、やっと自由になれるから」

大きなタンカーが通り過ぎ、その波に驚いたカモメが一斉に飛び立った。

海咲は、そのカモメたちを見ながら、小さな声で歌い始めた。


「カモメが、飛んだ…」


その横顔は、少しだけ笑っているように見えた。私は、もうすぐ自由に飛び立てるんだ、と。そんな彼女の姿を、僕はただ、黙って見ていた。


「そうだ、窓ガラス」

彼女は突然、僕の方を振り返った。

「あの時、私のために怒ってくれて、ありがとう」

「…うん」

僕は照れくさくて、まだ空を舞っているカモメに視線を逃がした。

「…うん」

僕たちは、それからしばらく、ただ黙って海を見ていた。東の空が、淡い紫色に染まり始めている。


「そろそろ、行こっか」

海咲が立ち上がった、その時だった。

彼女は不意に僕の方へ顔を寄せ、僕の唇に、そっと自分の唇を重ねた。

ほんの一瞬。冬の乾いた空気と、彼女の体温。驚いて固まる僕をよそに、彼女は何事もなかったかのように歩き始めた。


「行こう。お腹すかない?」


悪戯っぽく笑う彼女の背中を、僕は呆然としながら追いかけた。

唇に残る、柔らかく、儚い感触。

それは、彼女からの「ありがとう」であり、「さよなら」であり、そして、僕たちの短くも眩しかった季節の、甘酸っぱい終わり方だった。


カモメの鳴き声を聞くと、今でも思い出す。あの冬の日の、切ないキスを。遠い空の向こうへ飛び立っていった、カモメたちのことを。そして、彼女のことを。

この物語は、ある方が実際に体験された、とても個人的で、大切な記憶の断片から生まれました。その話に触れた時、私は、まるで埃をかぶったアルバムを開いた時のような、懐かしくも胸が締め付けられるような感覚に襲われました。本作を執筆するにあたり、その記憶が持つ「甘酸っぱい」という感情の核を、何よりも大切に守りたいと思いました。


読み終えた方の中には、「二人は、その後どうなったのだろう?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。海咲は無事にアメリカへ渡ったのか、そして、主人公の彼は、どんな大人になったのか。


しかし、この物語は、あえてそこで幕を閉じます。

なぜなら、これは「人生」の物語ではなく、ある一瞬の輝きを閉じ込めた「記憶」の物語だからです。


青春とは、もしかしたら、後から振り返るためにあるのかもしれません。不器用な行動も、伝えられなかった言葉も、報われなかった想いも、時間のフィルターを通すことで、切なくも美しい、かけがえのない宝物に変わっていく。

あの冬の埠頭での一度きりのキスは、二人の未来を約束するものではなく、その「記憶」を永遠にするための、完璧な最後のワンシーンだったのだと、私は信じています。

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