第56話 悪魔の誘惑
練習スタジオでは退出時刻の5分前に片付けを始めるのがマナー。というかバンドマンの鉄の掟だ。
私はアンプの電源を手順通りに切る。この手順を間違えるとアンプが爆発することになる。ドカンと爆音が出るのだ。
ライブハウスでうっかりやろうものなら当然スタッフさんにしこたま怒られる。経験者が言うんだから間違いない。
「あっちー!」
凛子さんがそんな声を上げながら汗だくのTシャツを脱いだ。
白い背中にいくつも玉の汗が光っている。着替えるのはいつもドラマーの彼女だけだ。
女子しかいないから問題ないはずなんだけど、平気で下着姿になるから、ちょっとだけ目のやり場に困る。
リュックから乾いたTシャツを引っ張り出しながら、凛子さんは「くそー。明日朝からバイトなけりゃこの後酒飲むのにな」と愚痴っていた。
「1杯ぐらいええやん。飲みに行こーや」
葵さんが悪魔の誘惑を繰り出す。お酒を飲むジェスチャーが必要以上にリアルで上手い。
「カリッカリに焼いた塩の鶏皮でこう、ビールを大ジョッキでな」
凛子さんはゴクリと唾を飲んだあと、数秒ほど欲望と格闘する苦しげな顔をした。葛藤の呻き声をあげながら服に頭を突っ込む。
「まだこの前の2万返してもらってないからな!忘れてないぞ!」とRUSHのTシャツから頭を出す凛子さん。
なんとか悪魔の誘惑に打ち勝ったようだ。
「ええやんそれは」葵さんは爽やかな笑顔でベースの入ったケースを背中に担ぐ。
「よくねーよ!」
「勝利の前祝いやんか〜」
葵さんが本気か冗談か分からない声を出す。
「行かねぇ。絶対おごらされるに決まってんだから」
凛子さんは上着を着ると腹立たしそうにそう言い捨てて、先にスタジオの部屋のドアを開けて外に出た。
その様子を横目に見てた私に、葵さんが素敵な笑顔を向けてくる。
「春香ちゃんもはよ合法的に酒飲める歳になりな」
「それそんな笑顔で言うことですか…?」
スタジオ代を払って建物の外に出る。
まだ夕方の6時だけどあと数日で11月だから、もうすっかり夜の景色だった。




