第23話 BLUE NOTE その3
「大丈夫か春香?」
キッチンから戻って来た凛子さんがマグカップを差し出しながら聞いてくる。
見る前に優しい甘い香りでわかる。ホットミルクだ。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
葵さんと並んでベッドの縁に座り、ちょっと頭を下げてそのカップを両手で受け取る。
「ウチのは?」と首を傾げる葵さん。
「お前のはナシ」
「そういうところがモテない原因なんよ。女は顔がいいだけじゃダメなんやから」
「う、る、せ、え」
凛子さんが吐き捨てる口調で突っぱねた。
いつもはこういうとき、悪ノリを始める葵さんを蘭子さんがたしなめる。
おっとりしている蘭子さんには挑発や皮肉がまったく効かないから、そのときは葵さんも素直に大人しくなる。
蘭子さんがいなくなると、かえってその存在を強く感じるのは不思議だった。
「あ、あの!」
蘭子さんがいないから、本当に2人が喧嘩をはじめる前に私があいだに入るしかない。
それに聞きたいことも山ほど出来てしまった。
「何?」
凛子さんと葵さんが同時に聞いてくる。
私はマグカップを両手に持ったまま、2人の顔を交互に見た。
「あ…えーっと」
何から聞くか迷って言葉に詰まる。
すると葵さんが先に口を開いた。
「あの音楽のこと?」
「は、はい」
そうだ。まずはあの不思議な音楽のことから聞くべきだ。
「何なんですか…あれ。私もう途中から自分の中がぐちゃぐちゃに掻き回されてるみたいになって…。ジャズってああいう音楽なんですか?」
ホットミルクの表面に張った薄い膜をじっと見つめながらそう尋ねた。
すると葵さんがため息なのか、ふーっと息を吐いてから答えた。
「ウチにもあれが何かわからん。あんな音楽はじめて聴いたわ。少なくともウチが知ってるジャズとは全然ちがう」
「凛子さんもですか?」
「ああ。生まれてはじめて聴くタイプの音楽だった」
私はごくりと息を飲む。
この2人が知らないってことは…もしかしたら本当の本当に蘭子さんが言う通り伝説の作品なのかもしれない。
「プログレも…ああいう不思議な感じですよね?」
凛子さん葵さんのどちらにともなく尋ねる。
プログレは今から50年以上も昔に流行った前衛的な音楽性のロック、プログレッシヴ・ロックの略称だ。
確か、シンセサイザーやオルガンの幻想的なサウンドが特徴のひとつとされてたはず。
凛子さんが敬愛するRUSHはハードロックだけど、プログレの影響も受けてると教えてもらった。
「その可能性もある」と凛子さん。
でも、と葵さんがすぐに後を続ける。
「ジャンルがなんであれ、あのレコードが問答無用で聴いたひとの心をぐちゃぐちゃにするってことはなーんも変わらん。そんな音楽他にあらへん」
そうだ。
仮にジャンルが分かったところで、あの不思議な音楽の謎を解明した事にはならない。
その音楽が属するジャンルが分かる事と、その音楽を理解する事は、きっと本質的に別の事だ。
「あっ。ひょっとしたらグーグルの音声検索で誰の曲か分かるんじゃ」
ふと閃いてそう言うと即座に凛子さんが首を振った。
「それはもうとっくに試した。shazamってiPhoneのアプリがあってな、グーグルの音声検索より遥かに精度が高いんだ。でも何も引っかからなかった」
「あ…そうなんですか」
そりゃそうか。ネット検索くらい私たちが試す前に蘭子さんだってしたはずだ。
「ジャケットには何も情報ないんですか?」
「あれな、表も裏も中も、ぜんぶ真っ白」
「そんなことあります?」
葵さんがお手上げという感じで肩をすくめる。
その時凛子さんがおもむろに部屋のコレクション棚から1枚のレコードを抜き出した。
「春香、これが本来のブルーノートのレコードなんだけど」
凛子さんはそう言いながら、正方形のジャケットの中から半透明の保護袋に包まれたレコードを取り出す。
保護袋もはずすと、私によく見えるように持ち変えて、レコードの中央に貼られた青と白のラベルを指さした。
「ここの名前をレーベルっていうんだ。意味はラベルと同じ。本当ならこうしてレコードの本体にちゃんと『BLUE NOTE』って青と白で印刷された紙のラベルが貼られてる」
「さっきのにはラベル…無かったですよね?」
「ああ。だから結局どんだけ本体を調べても検索にかけても、あれが本当にブルーノートの作品なのか分かんないんだよ」
「せっかく蘭子さんを見つける手がかりになると思ったのに…」
私が肩を落とすと凛子さんは視線をそらした。黙って頭を掻く。
そしておもむろに背を向けて移動し、そのレコードをプレイヤーにセットした。