6 最悪の出会い
アリシアは固まった。
目を見てはいけない、地面を見ろと言われた、宮廷魔術師バルトロメウスの目を直視した上に、手首を掴まれて間近にいるのだ。しかも何だか高貴ないい匂いがするので、アリシアは気が遠くなった。
「あ、これは……魔力酔い?」
思わず口に出すが、バルトロメウスはそれを完全に無視したまま、まだ右手のハタキを凝視している。
異変に気づいたエマがこちらにやって来たが、ガタッと棚を揺らして、そのまま倉庫の外に走って逃げて行った。
孤立無援となったアリシアは涙目となって、いい加減に痛くなってきた右手首を離してもらおうと、バルトロメウスの顔を伺った。
眼球だけを動かしてこちらを見下ろしたバルトロメウスの、深い宙色の瞳とアリシアの瞳がバッチリと合って、アリシアは全身の力が抜けるような、宙に浮くような、奇妙な感覚に陥った。
「何をしている?」
低く男性的な声は見た目の美麗さからは少し予想外で、アリシアは滑稽なほど身体がビクッと跳ねてしまった。
「えっ、な、何をって、お掃除を……その、ネネネ、ネズミが出て」
血迷った会話だ。アリシアは極度の緊張で、滑舌がおかしくなっていた。
バルトロメウスはアリシアの答えを無視して、掴んでいた右手首からハタキに指を移動し、アリシアからハタキを取り上げた。
「え? え……ええ?」
存在の尊大さと行動の一致がせず、アリシアは困惑した。
しかも、バルトロメウスはまたハタキを凝視している。さらには左手でハタキの布の束の部分を掴むと……。
ブッチィ!
「えええー!?」
なんと、アリシアの目前でハタキを破壊したのだった。バルトロメウスはハタキの重要部分である布の束をポイ、と床に捨てると、ただの棒っきれとなった柄をまた見つめている。
ドッ、ドッ、とアリシアの心臓は早鐘を打っていた。
意味がまったくわからなかった。見るのも憚れるような宮廷魔術師様が倉庫にやって来て、メイドのハタキをブッチと破壊したのである。
永遠とも思えるような緊張の沈黙の後、それは突然に終わった。
「フン」
と言ったような、言わないような。
とにかくそんな顔つきで、バルトロメウスは壊れたハタキをアリシアに押し付けると、まるで急に興味を失ったように、倉庫を出て行ったのだった。
「……まぼろし……?」
呆然と立ちすくんでアリシアは呟いたが、高貴な残り香が嘘ではなかった現実を示していた。
しばらしくするとエマが恐る恐る倉庫に戻ってきて、真っ青な顔で駄目押しをした。
「ちょっと……あんたいったい、何をしたのよ? 不吉すぎるし不興だし、これは絶対にヤバイわ」
アリシアは明日の朝礼で吊し上げられる未来を予感して、小鹿のように震えた。
夜のメイド用個室で。
アリシアは壊されたハタキの修復をした。
明日の朝礼で解雇になるんじゃないかという不安はあるが、脳裏には最悪な出会いだった倉庫のバルトロメウスが何度も浮かんでいた。というより、殆ど一日中、心を支配されていた。
まるで肉食獣に睨まれた小動物のように。もしくは突然、妖美な悪魔に出会ってしまったかのように。鼓動はいつまでも跳ねていた。
「エーレンフリート様と少し似ていたな。髪色も目の色も。兄弟ではなく師弟のはずだけど……っていうか、ほんとに何だったの?」
継母や義妹から散々、理不尽な虐めや嫌がらせを受けてきたが、今日の宮廷魔術師による意味不明な破壊行為には、それらを超越した恐ろしさがあった。
何よりも、まるで別の生命体のような、話が通じ無さそうなあのミステリアスな空気が、アリシアの理解を超えていた。
「巨大な魔物をぶっ飛ばす人だもんね……もしかしたら規格外の魔力を持ちすぎて、すごく変人なのかもしれない」
アリシアは失礼な結論を導き出して、ベッドに寝転がった。
ハタキを宙に掲げて、今日の掃除を思い出した。
「それにしても、気持ち良かったなあ……黒い煤がサッと消えて、キラッと光って。宮廷の埃は凄いなあ。明日はもっといっぱい、お掃除したいなあ」
倉庫で黒い煤が消滅する絵を回想して、ウズウズとしていた。
♢ ♢ ♢
翌日の昼食後に。
アリシアとエマ達メイドチームは大量のシーツを抱えて、宮廷の渡り廊下を歩いていた。
前が見えないほど抱えているので、アリシアは顔を横に向けながら歩いた。すると階下の外廊下に、妙な雰囲気の人が三人、歩いているのが見えた。
先頭に大人が。すぐ後ろに子供が。さらにその後ろには、もっと小さな子供が。
三人とも刺繍の入ったローブを着ていて、頭もフードを被っていた。顔はまったく見えないのに、アリシアはそれが宮廷魔術師のバルトロメウスと、その弟子のエーレンフリート少年であるとわかった。おそらくその後ろには、さらに小さなお弟子さんがいるのだろう。
「ゲッ!」
アリシアは思わず反射的に屈み込み、その背中にエマがぶつかった。
「ちょっと! シーツ落としちゃうじゃない!」
「あ、あれあれ!」
アリシアが小声で目配せすると、エマは階下を見下ろして顔を引きつらせた。
「ちょっと。魔法宮の方々に「あれ」とか言うのやめてよ! 連帯責任で私まで解雇されるじゃない!」
今朝の朝礼で名前は呼ばれなかったが、エマもアリシアが解雇されると思っていたようだ。
前を歩いていた先輩メイドが振り返って、アリシアを見下ろした。
「うちらが仕事してる時に宮廷魔術師様が直々に来た事なんて、一度も無いのにさ……何かを嗅ぎとって倉庫に来たんじゃないの?」
「え?」
アリシアが意味がわからず顔を上げると、その隣の先輩メイドが意味ありげにニヤニヤとした。
「あ~……魔物を呼ぶってやつ?」
「そうそう。迷信っていうか、経典に書いてあるらしいし」
アリシアは心臓が凍るようなショックを受けた。
この二人は、あの破滅の夜に義妹と継母に言われた「不吉な紫の目」を指しているのだ。
エマは先輩メイドの嫌味の意味がわからないようで、キョトンとしている。
「え? 何? 経典て何?」
先輩メイドは噴き出した。
「エマは文字が読めないもんね。教会の経典には、紫色の目をした奴が魔物を呼ぶって、ハッキリ書いてあんだよ」
「えっ、マジで?」
エマはギョッとしてアリシアの目の色を確かめると、怯えて大きく飛び退いた。
アリシアは伯爵家から外に出ても、同じ理由で責められるのかと悲しくなった。
「あはは……魔物って……見た事ないけどなぁ」
アリシアのおとぼけに、先輩メイドは即答した。
「当たり前じゃん。王国は宮廷魔術師の防御壁の魔法で守られてるんだから。でもそれでも不吉、って事よ」
まるで烙印を押されたように、メイドチームの温度が波を引くように下がっていくのがわかった。不吉とは便利な言葉で、実態がなくても「なんとなく」嫌なイメージが付くのだ。
(だったら、宮廷魔術師達の目の色が紫なのはどうなの?)
とアリシアは問いたい気持ちだったが、だからこそ目を合わせるなとか、会話に出すのも憚れるような恐ろしい存在となっているのだろう。王国を守っている人達なのに、理不尽が過ぎる。
それからの午後は、アリシアのメイド暮らしに暗雲が垂れ込めるような、最悪な一日となった。