5 宮廷の汚れ事情
「ふああ~っ」
アリシアは盛大な溜息を吐いて、錆びれたベッドに倒れた。
宮廷のメイド業は初日からヘビーな染料の洗浄で、しかもまったく落ちないものだから、メイド達の奮闘は徒労に終わったのだった。
アリシアは黒い染料で染まった自分の指先を眺めた。
「うわあ、酷い色。これはしばらく落ちないだろうな」
伯爵家でも有り得なかった類の汚れぶりに、アリシアは消沈した。
しかも、その後のメイドチームから聞かされた、これまで宮廷で経験した仕事の愚痴は、とんでもない内容のオンパレードだった。
「染料だなんてまだマシよ! 広間がアブノーマルなプレイに使われた日なんてそりゃあ……ねえ?」
「え? アブノ? え?」
アリシアの目が点になった反応に、先輩のメイドは一頻り笑った後、嘔吐く真似をした。
「ほんと、最悪よね! あの大広間の○○騒動! 忘れられないわ~」
「天井まで噴き上げるなんて、どんだけよ!」
爆笑が起きて、アリシアは血の気が引いた。
宮廷のお貴族様方の中には、とんでもない汚し方をする者もいるらしい。競い合うように酷い汚れワーストを言い合うメイド達の間に、アリシアはもっと別のことが気になって、割って入った。
「あの、そんな時も魔法宮の方が調査するんですか?」
場が一瞬、シンとした。
どうやら魔法宮については、話題にするのも憚れるような空気がある。
「そりゃあ、来ないわよ。魔術師は魔法が使われると察知して来るんだから。今日みたいに商人が魔道具を使うなんて、稀だからね」
「あの、私は魔法が使えるのは魔術師って知っていたけど、まさか子供だなんて驚いてしまって」
アリシアはまた「子供」と言ってしまって、慌てて自分の口を塞いだ。
新人の不敬ぶりにエマは苦笑いして、教えてくれた。
「エーレンフリート様はね、宮廷魔術師であるバルトロメウス・エーデル様のお弟子様よ。次世代の宮廷魔術師とも言われているわ」
「バルトロ……メウス様……ですか」
「バルトロメウス様をお見かけしても、目を直視してはダメよ? お通りになる時は顔を伏せて、地面を見るのよ?」
規則に書いていない注意事項に、アリシアは緊張して頷いた。
「直視は無礼に当たるんですね?」
「いいえ。魔術師の魔力は目に篭るんですって。常人が目の当たりにすれば、魔力酔いを起こして気絶するらしいわ」
驚いて目を見開くアリシアを、エマは呆れて横目で見た。
「宮廷魔術師様は、王国を襲撃してくる巨大な魔物を撃破するような、強烈な魔力を持つのよ? 人間にだって毒に決まってるじゃない」
「はあ……」
アリシアは昼間のメイド達との会話を反芻して、ベッドの上で改めて身震いした。知らなかったとはいえ、軽率な行動は宮廷で御法度であると、改めて身に染みた。
「それにしてもあの子……エーレンフリート様の瞳の色は綺麗だったな。私と同じ紫色でも、青みがかった宝石のような輝きで」
アリシアはベッドから身を起こして、曇った鏡を覗き込んだ。菫色の瞳、とは言っても、アリシアの瞳はほんのりとピンクがかった、淡い紫色だ。
アリシアはふと、義妹のキャロルに揶揄された経典の一節を思い出した。
「ふーんだ。何が、紫色の瞳は不吉よ。むしろ、次世代の宮廷魔術師だなんて凄い子も、私と同じ紫色だったじゃない」
キャロルと継母に蔑まされたアリシアの瞳の色は、エーレンフリート少年のおかげで自尊心を取り戻していた。
そしてアリシアは、鏡の横にぶら下がっているハタキを手に取った。
「それにしても、今日の客室で見た黒い煤は何だったのかしら? ハタキで叩いたら光って消えて見えたけど……幻?」
叩いただけで簡単に消えたので、あれはきっと染料とは別の汚れだったのだろう。エマに「雑巾を使って!」と怒られたのでそれ以上は試せなかったが、アリシアは気持ちよく働いてくれたこのハタキを気に入った。
「指は真っ黒になっちゃったし、お給料は継母に取られちゃうけど……私、お掃除が好きだから、がんばれる気がするよ」
大事にハタキを壁に掛けると、アリシアは今日一日の疲労から、あっという間に寝落ちした。
♢ ♢ ♢
「いけない、いけない、遅刻厳禁!」
疲れすぎて熟睡してしまい、翌朝はメイドチームの集合にギリギリで到着となった。
早朝から集会室で朝礼があり、面接の時に会ったグレタメイド長が前に立ち、メイド達が整然と並んだ。
「おはようございます!」
一斉の挨拶の後、グレタメイド長は冷たい目でメイド達を一瞥した後に、淡々と名前を呼んだ。
「マリ。デボラ。ミラ。三人は前へ」
まるでこの世の終わりのような顔をした三人が、全員の前に立たされた。
「応接間の壺を破損させた罰として、マリは解雇。デボラとミラは連帯責任で減給」
わっ、とマリが泣き出して、他二人は頭を垂れた。
列に並んで傍観していたアリシアは、思わぬ展開に「ゲッ」と声が出そうになった。ミスをすると衆目に晒された挙句、罰を下されるのだ。気の毒だし、人ごととは思えず胃が重くなった。
「エマ。アリシア」
「はいっ!」
アリシアは反射的に返事をしてしまったが、まさか呼ばれるとは思わず、冷や汗をかいた。
「二人は本日、倉庫でネズミ対策を。クレームが出ています」
チラリとエマの顔を見ると「ゲッ」という顔をしているので、おそらくキツい業務なのだろう。だが解雇よりはマシだと、アリシアは胸を撫で下ろした。
「うへ~っ!」
倉庫にて。エマはげんなりと声を上げた。
普段は使わない、特殊な掃除道具が詰め込まれた倉庫は煌びやかな宮廷内にあるが、扉を開ければ酷い有様だった。確かにネズミが出そうなほど内部は荒れていて、埃だらけの煤だらけだ。
「うわあ、真っ黒ですね」
アリシアの感想に、エマは腑に落ちない顔で振り返った。
「真っ黒っていうか……どっちかというと、埃で白いけど」
アリシアは昨日、客室で見た丸くてふわふわの黒い煤が、倉庫内にいっぱいある状態に注目した。
棚にくっついたり、宙に浮いたりしているそれは、掌大から塵のように小さなものまである。
(この黒い煤は、宮廷特有の汚れなのかな?)
伯爵家でも染みのような黒い汚れはあったが、こんなに沢山密集してまん丸で、しかも元気に動いているのは見た事が無かった。
「宮廷って、埃も特殊なんですね。黒いし、消える時に光るし」
エマは「はあ?」と生返事をした。掃除に集中している様子なので、アリシアも反対側を清掃しようと、ハタキを手に倉庫内を移動した。
「それっ」
ハタキで黒い煤を払うと、キラリと輝いた後に消えた。
アリシアは「やっぱり!」と独り言を呟いて、右、左、と勢い良く煤を払っていった。
「えい、えい、えいっ!」
気持ちいいほど綺麗になっていくものだから、アリシアは上機嫌でハタキを振り回した。
が、さらに叩こうと右手を高く上げた瞬間に、誰かに力強く手首を掴まれていた。
「えっ?」
エマに止められたのかと思ってアリシアは振り返ったが、そこにはうんと背の高い人物が、自分を覆うように立っていた。
麗しく長い黒髪を胸より長く伸ばして、部分的に編み込んでいるが、男性だ。その顔は恐ろしいほどに冷たく美しい。一際印象が深いのは瞳の色で、まるで宙のように深い濃紫色がミステリアスな煌きを宿していた。
その宙色の瞳はアリシアを見ずに、ハタキを真っ直ぐに見ている。
アリシアは息を飲んで、直感した名を口にしていた。
「バルトロメウス……様?」