38 凶行の痕跡
エアリー伯爵家のメイド長は大雑把だ。
アリシアが床や壁に黒い汚れがあると言っても、汚れていないと言い張る。仕方なく、アリシアは一人で掃除をした。
「この汚れが目に入らないの?」
こすっても落ちないその染みは、よくよく見れば屋敷の中に無数にあって、アリシアはいつの間にか、染みだらけの壁に囲まれて立っていた。天井も、階段も、家具も。伯爵家の内部はやがて真っ黒に染まった。
「アリシア。大丈夫か?」
掛けられた声に、アリシアは我に返った。
伯爵家にいた頃を思い出して、回想と妄想に頭が支配されていた。
アリシアは魔法宮の自分の部屋のベッドの上に座っていて、血の気の引いた自分の白い手を見下ろしていた。
隣にはバルトロメウスがいて、自分の肩を優しく抱いている。
グレンヴィル公爵家から魔法宮に帰るまでの記憶は曖昧だが、多分、自失呆然とした自分をバルトロメウスが抱えて魔法宮に戻り、そのまま部屋のベッドに座らせて介抱してくれているのだろう。
「すみません」と謝るつもりが、アリシアは急るように昔の記憶を口にしていた。
「母は亡くなるほんの数日前まで、元気だったんです。だけど急に体調を崩して寝込んで……流行病かもしれないと、私は母に会わせてもらえませんでした。母が急逝すると、父は感染予防と称して寝具も服も焼却し、療養していた部屋は封じられたのです」
俯いたまま話していたアリシアはバルトロメウスを見上げた。
「私の母はきっと、殺人魔道具で殺されました。あれは流行病なんかじゃない。殺人だったんです」
悲しみと憎しみで涙を溢れさすアリシアを、バルトロメウスは苦しい顔で抱き締めた。エリィと違う、大きくて逞しい抱擁にアリシアは体がすっぽりと収まって、胸に縋り付いてわんわんと泣いた。これだけ大きな声で思い切り泣いたのは、生まれて初めてだった。
病床の母の近くにいられなかった事や、最後のお別れも棺の外からだった事、そして父や継母の顔が浮かんで激しい憎悪が湧き上がったが、アリシアが泣きながら言葉にしたのは思い出ばかりだった。
「母は明るくて優しくて。劇やバレエが好きだったんです。いつも楽しい物語を聞かせて私を笑わせてくれて……それから……」
自分の宝物を誰かに知ってほしくて、涙声で必死にバルトロメウスに伝えた。バルトロメウスはアリシアを抱き締めながら頭を撫で、背中を撫でた。
「アリシアを見ていればわかるよ。素敵なお母さんだね」
バルトロメウスがアリシアの頭にキスをしたので、アリシアは懐かしい感覚に目を閉じて頷いた。母もいつもそうしてくれた。転んでも失敗しても温かく抱擁してキスしてくれて。アリシアが元気になるまで抱き締めてくれた。
アリシアは久しく得られなかった愛情を噛み締めるように、バルトロメウスに包まれたまま長い時間を過ごした。
ようやくアリシアに冷静さが戻る頃には、外は夕方になっていた。
魔法宮が静かなのは、きっと自分の泣き喚く声を聞いて、エレンとベルが気遣ってくれたのだろう。
ずっと埋めていたバルトロメウスの胸から顔を離すと、バルトロメウスの服はビショビショになっていた。さらに自分は泣きながら這い上がったようで、バルトロメウスの膝の上に完全に乗っかって、赤ちゃん状態となっていた。
「あの……すみません。こんなんなってしまって……」
「いいよ。悲しい思いをさせてしまったのは俺だ」
アリシアは慌てて首を振った。
「ち、違います! 今日、バルトロメウス様が公爵家に連れて行ってくださらなかったら、私はずっと真相を知らないままだったんです。母の無念も知らず……そんなの、絶対に嫌です!」
アリシアは憎しみと怒りが蘇り、力強くバルトロメウスの服を掴んだ。
「あの部屋の奥様も、誰かに殺されたのですよね?」
バルトロメウスは頷いた。
「資料にあった魔道具のイヤリングは、八年前に急逝した奥様が着けていた物だ。誰から貰ったのか、そして本当に殺人だったのか。証拠も掴めないまま、未だに公爵は犯人を探している」
アリシアは唇を噛みしめた。
「母は病で倒れる直前に、髪飾りを貰って髪に付けていたんです。透明な宝石が付いた飾り……父からのプレゼントでした。父と愛人だった継母が共謀して、殺人魔道具を母に贈ったに違いありません!」
「その髪飾りはどこへ?」
「わかりません……母の物は殆ど処分されて……きっと証拠は全て消されてしまったと思います」
「いや。証拠は他にもある」
アリシアは不可思議な顔でバルトロメウスを見上げた。
「文官のオーガストに調査をしてもらった。伯爵家の金の流れと子爵との繋がり。殺人魔道具を流通しているルートもね」
お茶会の時には既に、あの借金の調査がなされていた事にアリシアは驚いた。
「デズモンド・ガースン子爵が何件もの殺人事件に関わったという容疑は、裏付けさえ取れれば決定的な証拠になる」
「裏付け?」
「アリシアに見える、殺人魔道具を使用したあの痕跡だ。他の事件の現場と一致すれば、それを魔法宮による捜査の結果として裁判に提出できる」
アリシアは伯爵家と公爵家の部屋で見た染みを、改めて思い出した。黒い煤が爆散した、独特な死骸の跡。事件が起きた場所すべてに、きっと同じ痕跡があるのだ。
それらを立証するにはアリシア自身が殺人現場を巡るしかないと考えると、思わず体が強張った。
バルトロメウスはアリシアを再び優しく抱擁した。
「無理をしなくていい。アリシアの気持ち次第だよ」
「……嫌です」
アリシアは毅然とバルトロメウスを見上げた。
「私の母と公爵夫人と、そして殺されたその他大勢の無念を晴らせるなら、私は捜査に協力します。見ないふりをするのは、絶対に嫌です!」
燃え上がる菫色の瞳を見つめて、バルトロメウスは頷いた。
アリシアはバルトロメウスの膝の上に乗ったまま、宣言をした。
「私の手で、犯罪者達を断罪します」
赤ちゃん抱っこの格好だが、アリシアの言葉と顔にはこれまでになく、確固とした意志が込められていた。




