37 寂しい部屋
その部屋は、清潔に保たれていた。
大きなクローゼットと窓。立派なシャンデリア。
ベッドはあるが寝具が無く、家具も殆ど置かれていない。
まるで住人と一緒に生活品が無くなってしまったような、抜け殻のように寂しい部屋だった。
執事が礼をして部屋から退出し、ドアが閉まると、しんとした部屋にはアリシアとバルトロメウスが残された。
アリシアはバルトロメウスを見上げた。
「あの……ここはどなたのお部屋なんですか?」
「グレンヴィル公爵の奥様だった方のお部屋だよ」
バルトロメウスの口ぶりといい、この何もない寂しい部屋の状態といい、アリシアはこの部屋の主が既に亡くなられているのだと分かった。
寂しい気持ちで肩を落としていると、バルトロメウスが室内を指した。
「アリシア。この部屋の「魔」を見てくれ」
アリシアは言われた通り、室内を見回した。
だがそこには広々とした空間があるだけで、黒い煤は一つも見当たらなかった。
「何も……いませんね」
アリシアはあの黒い煤のような「魔」はバルトロメウスにも見えているはずなのにと思い、隣を見上げた。そんな疑問顔のアリシアに、バルトロメウスは微笑んだ。
「俺やエレンの目が捉える「魔」は、実はそんなにハッキリと見えていないんだよ」
「え?」
「ぼやけた物が宙に浮いているような、なんとなく自分に纏わり付いているような……それくらいの感覚だ。アリシアのように、色や形まではわからない」
「そ、そうだったんですか!? 皆さんにも自分と同じように見えているのかと思っていました」
「だからきっと、君にしか見えない僅かな痕跡がこの部屋にあるはずなんだ」
アリシアは自分の見る世界が、他者とはまるで違うとのだと知って驚いた。
バルトロメウスの言う通り、今度は痕跡を探すつもりで慎重に室内を見回した。パッと見で黒い煤が見当たらなくても、跡が薄く残っているかもしれない。
室内を歩き回り、窓の淵やクローゼットの中、ベッドの下まで隅々と探して回った。
「バルトロメウス様……これを見てください」
ベッドの脇で四つん這いになっているアリシアは、バルトロメウスを呼んだ。バルトロメウスはアリシアと同じ場所に跪き、アリシアが指す床を確認した。
間近で凝視したり、遠く離れたりして、バルトロメウスは首をかしげた。
「俺には何も見えない」
「え!?」
アリシアの目からは、黒い物質が床を擦ったような痕が見えていた。まるで古い泥や塗料が付着した後に劣化して、染みになったような汚れだ。
それからさらに慎重に探してみると、この染みのような汚れは室内のいたるところに、沢山ある事が分かった。よくよく目を凝らせば、その染みは床、壁、天井やクローゼットの中まで異常な数があり、まるで何かが爆発して部屋全体に飛び散った痕のようにも見える。
不気味な染み痕に怖気付くアリシアに、バルトはさらにお願いをした。
「その染み痕を、ハタキを使って祓ってみてくれないか」
アリシアは言われた通り、黒い染みの上でハタキを振ってみた。
だがその染みは輝いて消える事はなく、ほんの少し、じわりと薄くなっただけだった。
アリシアは困惑してバルトロメウスに伝えた。
「これは私にしか見えない汚れなので、確かに魔力に集る魔だと思うのですが……何故か祓う事ができません」
アリシアは壁にある染みを見つめながら続けた。
「それに、いつも祓っている魔とは、質が違う感じがするんです。溶けているというか、生きていないというか……」
「生きていない?」
バルトロメウスの質問にアリシアは頷いた。
「いつも、黒い煤はまるで生きてるみたいに、こう、自由に宙を泳いでいるんです。床とか壁にくっついてる子達もまん丸の形で、ふわふわって」
アリシアは両手の指で円形を作って、くっついたり離れたりして見せた。下手な説明とジェスチャーだが、バルトロメウスは真顔になった。
「まん丸で生きてるって……そんなふうに見えているのか?」
「はい……わりと元気に動いてます……」
「生きている煤が魔力に集まって来て、そこに漂い続けるとは……まるでカビのようだな」
バルトロメウスは長年悩まされた「魔」の嫌な正体にゲッソリとした。
アリシアは感覚的に浮かんだ言葉を、バルトロメウスに慎重に伝えた。
「この染みは、魔の死骸ではないでしょうか。魔力を食べようとして湧いて来たけど、殺人魔道具の破壊力で爆死したとか……死骸だから、私には祓えないのかと」
「爆死か……室内全体に飛び散っているなら有り得るな」
アリシアはさらに考え込んで無言になり、だんだんと顔色を悪くした。
「アリシア? 大丈夫か?」
「はい……あの。私はこの奇妙な染みを知っているんです」
「知っている?」
「魔法宮でも宮廷でもこんな染みは見た事が無いのに……別の場所で、これを沢山見た覚えがあるのです。」
「それはどこで?」
アリシアは真っ青な顔でバルトロメウスを見上げた。
「伯爵家です。私が生まれ育った、あの屋敷の中で」




