26 酸欠のアリシア
アリシアが蒼白の顔で後ろを振り返ったのと同時に、甲高い声ではしゃいでいたその人物はアリシアの存在に気づいて、より大きな声を上げた。
「アリシア!? アリシアじゃない!!」
ゴテゴテと沢山の宝飾を身に付けて、フリルの塊のようなドレスで着飾った義妹のキャロルが、そこに立っていた。
「ねぇお母様! お姉さまがメイドの格好であそこにいるわよ!!」
アリシアは地面が歪むのを感じた。
いや、自分の体が目眩を起こして揺らいでいたのだ。
床に足が張り付いたまま見なかった振りをしたかったが、大騒ぎしているキャロルとその隣にいるらしき継母がこちらに来るかもしれないと考えると、酷く動悸がした。
(あの母娘に屈服する惨めな自分を、誰にも見られたくない。エレン君とベル君と、バルトロメウス様に……大切な人達にそんな姿を見られるのは耐えられない……)
急に酸素が薄くなったように視界が狭まり、アリシアの呼吸は浅くなった。ベルがエレンと一緒に舞踏の輪を眺めているうちに、アリシアは繋いでいたベルの手をそっと離して、後ろの人の波を掻き分けた。さらにその後ろにいる、キャロルと継母の元へ向かって。
派手な化粧をして大口を開けてこちらを見ているキャロルの目の前に来ると、隣にはやはり、仰々しく結った髪に大振りの宝石を身に付けた継母が、扇で半分顔を隠しながらこちらを見下げていた。
アリシアは自分が想像以上に、心も体も強いショックを受けているのが分かった。何年も毎日虐げられて見慣れていたはずの二人の顔を、宮廷での生活が忘れさせていたのだろうか。まるで悪夢が蘇ったように、アリシアは絶望的な気持ちになっていた。
震える体を精一杯動かして、カーテシーをした。
「お久しぶりです……お義母様。キャロル」
自分で口にした「おかあ様」という言葉に動揺した。
(そうだ。私はそんなふうに、この継母に呼ばされていたのだ)
目線を床に落としながら、アリシアの体は恐怖で冷えきっていった。
そんなアリシアの怯えた姿に気づかないのか、キャロルは好奇心に満ちた顔で、アリシアを上から下まで眺めた。
「へ~、本当にメイドとして働いているのね! でも、随分と肌艶が良くなったみたいじゃない?」
隣にいる継母の顔は扇で隠されて本心が見えないが、今までのヒステリックな振る舞いとは違って貴族の婦人らしく、悠々とこちらを見定めた。
「良い生活をさせてもらっているみたいね。これも全て、この職場を紹介してくれたこの方のおかげよ。デズモンド・ガースン子爵様にお礼を言いなさい、アリシア」
継母の隣には見た事の無い、恰幅の良い貴族の男が立っていた。
成金らしく悪趣味に着飾って、髭面に笑顔を作っているが、目が笑っていない。妙な緊張感の中で、アリシアは頭を下げた。
「このたびは良い職場をご紹介いただきまして、ありがとうございました」
「ほう。君がアリシアさんか。よく働いていると、お母様からお話を聞いてるよ」
ガースン子爵は舐めるような目付きで、いやらしく上から下まで眺めてくるので、アリシアは背中がゾッとした。
キャロルは待ちきれず、アリシアの前に割り込んで喋り出した。
「ガースン子爵様はね、今日のこの夜会に私達をご招待くださったの! お仕事の関係で宮廷と懇意になさっている、すごい方なんだから!」
継母は「ホホホ」と笑って、蛇のように目を光らせた。
「きっと近々、貴方にも良い知らせが来るわ。アリシア」
アリシアはどんな風に罵倒されるよりも、叩かれるよりも、継母の気味の悪い笑顔に恐怖した。
その時。
人の波の向こうの舞踏の輪に「わっ」とどよめきが上がった。と同時に、「消えたぞ!」「魔法だわ!」と喜ぶ声も次々と上がった。
キャロルは人垣の向こうを覗こうと、「何、何!?」と背伸びをしたが、先ほどよりも人が過密していて、何が起こったのかまったく見えなかった。
アリシアはその横で、緊張が走っていた。
「魔法で消えた」とは、きっとバルトロメウスの事だ。
ならばその理由は一つしか無かった。
「……シア~、アリシア~!」
半泣きの声が群集の中から小さく聞こえて、アリシアは踵を返して、人の波を押し避けた。
「ベル君! どこ!?」
自分が手を離したばかりに、あの小さな体が群集に潰されてしまうと、アリシアはパニックになった。
「アリシア!」
他人のドレスとドレスの合間から小さな手が見えて、アリシアは無理矢理に捻じ入り、ベルの体を捕まえた。
「ベル君!!」
強く抱きしめると、ベルは安堵で「うわーん」と泣いた。
「ごめんね、ごめんね! 手を離したりして!」
「アリシア~! せんせいも、エレンもきえたの!」
思っていた通りの事が起きていた。会場の来賓達はバルトロメウスが消えた現象をサプライズだと思って喜んでいるが、そうでは無い。
「魔物が……現れたのね!?」
想定する最悪の事態が起きていた。
ベルを抱き上げて振り向くと、目前にキャロルが追いかけて来ていた。
「ねえ、何が消えたの!? ねえ!」
好奇心が爛々のキャロルの顔の真下に、ジャラジャラと付けたネックレスに紛れて、紫色の輝きが見えた。
「お母様のブローチ!」
アリシアはベルを抱えたまま、思わず叫んでいた。
あの豪雨の夜に奪い合いになった母の形見のブローチは、あの時と同じように、義妹の胸に飾られていた。
「はあ? これはもう私の物なの! お母様から貰ったんだから!」
「それは私のお母様の形見だと、言ったでしょう?」
「あんた、しつこいわね!!」
言い合いの最中に、ドン! と大きな音が、屋外の空で響いた。宮廷が揺れるほどの重低音に、会場は一気に大騒ぎになった。
「今の音は何だ!?」
「花火??」
「爆発よ!!」
彼方此方で金切り声が上がって、庭園に近い群集の中から男性の叫び声が上がった。
「魔物だーー!!」
その瞬間に、人が集中していた中央は一斉に四方八方に走り出して、将棋倒しが起こりそうなほどのパニックになった。
「キャーッ! 押さないで!!」
「逃げろ! 早く!!」
人々は我先にと会場の出口や庭園を目指して駆け出して、アリシアはベルを抱えたまま、揉みくちゃになった。キャロルも絶叫しながらアリシアにしがみ付いた。
「嫌、何なの!? お母様はどこ!? お母様ーー!!」
狂ったように掴んで来るキャロルを引き剥がし、アリシアはベルを体全体で守るように抱えながら、人波から抜けて駆け出した。
「アリシア、おにわにでて!」
ベルの言う通り、ドン、ドン、と爆発音が続く空の下に向かって、アリシアは全力で走った。周囲の貴族達は恐怖とパニックと、それから大きな好奇心を抱えて同じ方向に走っていた。
アリシアの頭の中には、あの恐ろしい図鑑の化け物がグルグルと回っていた。不安で涙が溢れて、ベルの体を強く抱きしめた。
「お願い、無事でいて……エレン君、バルトロメウス様!」




