2 破滅の夜
「アリシアお姉さま~!」
倉庫のように狭くて暗いアリシアの個室に、甘ったるい声が近づいて来た。
夜になって、義妹のキャロルが夜会から帰ってきたのだ。
わざわざこんな辺鄙な部屋を訪れるのは珍しい上に、やたらに上機嫌な様子にアリシアは嫌な予感がしていた。
「キャロル。お帰りなさい。夜会はどうだった?」
アリシアは平静を装って、ドアを全開にしたキャロルに話しかけた。
「ふふん。流石、侯爵家の夜会だったわ。お料理が豪華で美味しくって! お姉さまは今日、何を食べたの?」
それは勿論、パサパサのパンに具の無いスープであるとわかっていて、キャロルは聞いている。アリシアが苦笑いで誤魔化すと、キャロルは興奮のまま続けた。
「それにね、名家のご子息が沢山いらしたの! ほんとに素敵な会だったわ! みんなが私のドレスと髪型を羨ましがって、注目の的だったんだから。流行りのドレスを新調して正解ね」
キャロルはキャラメル色の髪に赤褐色の瞳が可愛らしい子だ。ただ、喋り出すと自慢と嫌味だらけで困ってしまう。性格や行動が継母とよく似ているのだ。
キャロルは「そんなことより」と目を爛々とさせて、本題に切り替えた。
背中に隠していたのは、どうやら教会の書物のようだった。
「お昼間に教会に礼拝に行ったら、司祭様が難しい教典をお読みくださったの。それでほら、この一節!」
キャロルはより高揚して、書の一部を朗読した。
「不吉な葡萄色の目が魔物を呼んだ。この地は穢され、魔物は延々とやって来た。憂いた神は、葡萄色の者達を罰した!」
書から顔を上げると、キャロルは愉悦で歪んだ笑顔でアリシアを指した。
「葡萄色の目だって! 紫色の目はやっぱり穢れで不吉なのよ! ママが言ってた通りだわ!」
アリシアはまるで呪いの言葉を浴びせられたように目眩がした。アリシアの母譲りの菫色の瞳は、アリシアにとって大切な色だったから。何より自分だけでなく、母まで蔑まれるのは到底許せなかった。
さらにアリシアは、キャロルがゴテゴテと着飾っているので気づかなかったが、幾重にも巻いたネックレスの中に、母の形見である宝石のブローチがあるのを見つけてしまった。
「それはお母様の……!」
言葉より先に、アリシアはキャロルに飛びついた。継母に取り上げられた大切な形見は、キャロルに与えられていたのだ。紫色を不吉と嘲りながら、紫の宝石を身に着けるキャロルの傲慢さに我慢がならなかった。
ブローチを掴み取ろうとするアリシアとキャロルは取っ組み合いとなり、キャロルは爪を立て、髪を掴んで抵抗した。アリシアが同じように髪を掴むと、キャロルは絶叫した。
「キィヤーーー!!」
超音波のような奇声が響いて、間も無く継母が飛び込んで来た。
「なっ、キャロルちゃんに何を!?」
いつも怒った顔の継母はより一層、鬼のような形相となって、アリシアの顔を引っ叩いた。衝撃でアリシアが尻餅を着いた床には大量の髪が散らばっている。それは殆どアリシアの金色の髪だったが、継母は逆上した。
「よくもキャロルちゃんの大切なお髪を! 暴力を振るうだなんて、やっぱりお前は不吉な子だよ!」
「ち、違います! 私は……」
「この穢れた血が!!」
継母は凄まじい怒りと力でアリシアの身体を掴むと、大声でメイド長を呼びながら玄関に向かって引き摺った。
とっくに泣き止んでいるばずのキャロルは延々と悲劇の奇声を上げ続けて、屋敷は異様な空気になっていた。
「待って、お願いです! 母の形見を」
アリシアは玄関の外に放り出された。
外は真っ暗な空から激しい雨が降っていて、水溜りに転んだアリシアはあっという間にびしょ濡れになった。
継母は屋内の灯りを背に仁王立ちしている。
「大人しくしていれば置いてやったものを。今日という今日は許さないよ」
「ち、父に無断でこんな事……」
継母は口の端を吊り上げて笑った。
「お前に味方がいるとでも? あの人が出張から帰ったら、お前が暴力を振るって暴れたと報告する。すんなりと受け入れるだろうよ」
アリシアは唇を噛み締めた。父がまた自分を見ないふりをするのは、想像ができたからだ。継母の言う通り、この屋敷にはアリシアの味方はいないし、誰も愛情など与えてくれないのだ。
土砂降りの雨の中、屋敷の中から大量の物がアリシアに向かって投げつけられた。メイド長がキャロルの指示に従って、木箱の中身をぶちまけたのだ。続けて木箱も放り投げてきた。
水溜りに散らばるのは壊れた鏡、木片、破れた布……母の遺品から貴重品を抜き取った残骸だ。
「ほら。形見なんでしょ? 返してあげるわよ」
キャロルは腰に手を当てて見下している。
残骸のガラクタでも大切な母の形見には違わず、アリシアはすべての物を掻き集めて、木箱に入れた。
継母は惨めな光景に顔を顰めている。
「ふん。お似合いだよ。お前のような穢れた血には。魔物を呼ぶなんて縁起の悪い奴を家に置いておけるもんかい!」
継母は思い切り玄関のドアを閉めて、雨が降り頻る庭は真っ暗になった。
紫の目は魔物を呼ぶ、とは教会の経典の一節だ。迷信と言われつつも信じる者は少なく無い。敬虔な信者である父はきっと、愛人であった継母から長年に渡り摺り込まれてきたのだろう。
アリシアは呆然としたまま木箱を抱えて立ち上がった。
継母は自分を追い出すきっかけが欲しかったのだ。厄介払いができて、随分とすっきりした顔をしていた。
豪雨の夜道を木箱を抱えて歩きながら、アリシアは何の感情も湧いてこなかった。いつかこうなると諦めていたからだろうか。理不尽な虐待の理由に、抗いようがないからだろうか。
「両手が塞がって、優雅なポーズもとれないや」
アリシアは無感情のまま、涙を流していた。あの屋敷こそが、母との思い出が詰まった大切な場所だったから。
虚な心のまま宛てもなく歩き続けて、人気の無い街の中を彷徨った。
せめて雨を凌げる場所を見つけようと道路に足を踏み入れたその時、目前に馬車が踊り出た。豪雨の音で気づかなかったアリシアは、衝突寸前の馬を見上げて硬直した。
(あ。これは、死……?)
衝撃の直後に、アリシアの意識は真っ暗になって途絶えた。