あれが過ぎると申します 橋
橋だの坂だのというところは、しばしば、こちらの世界と向うの世界との境になるべき場所だという。
ただ、境界であるにしても、二つの世界を隔て断絶せしむる作用を担うというものではなく、むしろ両者の脈絡を細々と保つべく、彼岸と此岸との牆にわずかに穿たれた抜道であるらしい。端的な例としては、銀河に架かるという鵲の橋だとか、或いは、黄泉平坂なんぞが思い浮かぶ。
そうして、思えばそのとき、私は橋を渡っていたのである。
何でも石造りの立派な橋であった。
欄干の親柱と中柱には、背の高い瓦斯燈が設えてあり、その瓦斯燈の脇に青銅の獅子やら麒麟やらが控えている。
獅子は親柱の上で瓦斯燈を背に橋の外側を睨めていた。左右に一頭ずつ、それぞれ阿形と吽形を為し片足で輪宝のようなものを押さえながら座っている。親柱は橋の四隅にあるため、獅子も合せて四頭になる。
一方、麒麟は橋の恰度真中にある中柱の上で、瓦斯燈の両脇に二頭が背中合せに燈柱を挟むような恰好で腰を下している。獅子と同様に麒麟にも阿形と吽形とがある。また、麒麟の数も同じく四頭。すなわち、左右の中柱に二頭ずつとなるので都合四頭という勘定である。
獅子の方は方々《ほうぼう》の神社で見掛ける狛犬と大差は無く、至って尋常な造形をしているのに比べ、麒麟については、私はこれまで絵にしても彫像にしてもその姿をあまり目にしたことが無かったため物珍しく、奇矯なる佇まいに甚だ瞠目せしめられた。
頭に鹿のような角を頂いて、耳は筒状に丸まりつつも先が尖り、鯰のような鬚を靡かせる面構は、さながら龍のようであり、首の様子も龍や大蛇と同様で表側と背側で異なる形状の鱗を有している。そうして、肩や胸の筋肉の隆起、蝙蝠のような翼、二股に割れた蹄、逆巻く焰と化した尻尾―― なるほど、麒麟の姿形とはこのようなものであったかと、しばらくその場にとどまり、表から裏から、精巧に鋳込まれた像を矯めつ眇めつ眺めたのだが、全体的な印象からすると、東洋の神獣というよりも、むしろ西洋のドラゴンを髣髴するようにも思われた。
実に立派な橋だとしきりに感心しながら渡り終えると、向う岸には西洋風の石造りの立派な建物が並んでいた。そのうちの一軒がこれから私の下宿先となる家である。
番地と名札とを頼りに玄関の表で案内を乞うと、扉が内側に引かれて七つ八つばかりの男の子が顔を出した。くりくりした目で私を見詰め、はにかむように笑っている。日本の子供とはまた異質の、ちょっと見ると西洋の子を思わせるような可愛らしさがあるが、それにしては色が浅黒い。日本語で一言二言尋ねかけたが、どうも言葉を解さぬ様子で、額に八の字を寄せ困った表情となり一旦奥に引込んだと思ったら、今度は背の高い紳士と一緒に再び現れた。紳士の腕に捲付くようにして甘えた様子である。二人ともよく似た顔付をしているので、年恰好から判ずるに親子であろう。二人の容姿からはアーリア系とドラヴィダ系と両方の特色が窺われる。
日本語で来意を告げたが、この紳士も息子同様、八の字眉を示してちょっと首をかしげ、その後すぐに笑顔を見せつつ、
「残念ながら自分には日本の言葉が皆目分らない、それでも貴君の来訪については認識していたのでご心配なく」と英語で返された。
私にしても、下宿の主人が印度の人だというのはもともと聞いていたので、玄関に現れたのが東洋風の扁平な顔立ちでなくとも別に驚くことは無かったが、日本語がどうにも通じないのには少しく閉口した。相手は日本語を解さぬと言うが、こちらにしたところで、印度の言葉はもとより、英語にしても大分怪しいのである。剰え、紳士の話す印度訛の英語は殊更に聞取りにくい。
ともかく、ぎこちない笑顔を作って、西洋流に握手を交わし挨拶をすると、
「さあ、這入り給え」と客間のような所に通された。
丸い卓子にある四つの椅子のうち、明るい窓を正面にした一脚が勧められる。
言われるがままに腰掛けて、主人がせわしなく部屋を出入りしながら、茶器やら菓子やらを準備してくれるのを眺めていると、あの男の子が隣の椅子にやって来た。物珍しそうに私の顔をじろじろ観察しつつ、にこにこ片言の英語で話し掛けてくる。
実に可愛らしいものである。こちらも笑顔になって応対していると、暖炉脇の扉の向うから突然に大きなしわがれ声が聞こえた。
男の子がびっくり目を丸くする。
途端に扉が激しく開いて、早足に出て来た人がある。見遣ると、頭に被った布から何から、真赤に派手な著物に納まった婆さんであった。人並みよりも大分背が低く少しく肥えた風体。右手に杖を突いているが腰は曲っておらずしゃんとしている。肌の色は紳士や子供より大分濃く、鼻の形などにドラヴィダ系の特徴が強く見受けられる。また、その片側の小鼻には穴が穿たれ、真鍮のような色の小さな鼻輪が通っている。この家の使用人ででもあろうか。
老人は愛想も何もない顔付で眉間に皺を寄せながら口をへの字に結んで、テーブル越しにぎょろりと鷹のような目を私に据えた。
すぐに別の入口から主人が跳出て来る。
婆さんと私とを心配そうに見比べながら、
「これは僕の母でね、こちらに出て来て昨日着いたんです。申し訳ありませんが、母もこの家に同居することになります……」
その言葉が終らないうちに、老婦人は鋭い目つきを今度は息子の顔にしゃくりあげ、何やら激しい剣幕で捲立てた。
恐らくは印度の言葉なのであろう。自分には何を言っているのか毫も解らない。息子の方も母親と類似した発音の言語で何かを言い返し、しばらくは二人の間で問答が続いた。意味は解らぬながらも、婆さんの舌鋒は殊の外鋭く、息子の形勢が悪そうに見えた。非常に困惑した表情で、何とか言訳を捻出しているような按配である。鋭い言葉が飛交う中、小さな孫が居たたまれない素振でべそをかき、そっと奧の部屋へと隠れてしまった。可哀そうに――
こんなに怖そうな婆さんと一緒に住むことになるとは、随分と厄介な仕儀になったものである。あの孫にしても自分のお祖母さんながらさぞや恐ろしかろう――そんなことを考えているうちに、到頭息子の方が根負けしたような顔付になり、頭を横に振るとこちらを向いてこう切出した。
「僕は貴君に謝らなければなりません。実は、母が言うのですが、貴君はここに住むべき人ではないと――」
「それはどういうことですか?」
「母が言うには、貴君と僕らは一緒に住むべき間柄にはない。貴君は橋を渡って向う側に帰るべき人だという訳なんです……」
「何ですか、それは?」
「どうも…… 大変申し訳ないが、どうやら貴君を住まわせるのは難しい。約束を取消すことはできまいか?」
「――はあ……、そうですか……」
何やら言いたいことや確かめたいことが諸々あったが、自分の英語の力ではそれらを旨く表すことが難しく、仕方無しに諦めた。
それに、住むと決まっていた場所を突然に失ってしまったのは困るが、この気難しく狷介そうな老人と同じ屋根の下で暮らさずに済む結果になったのには、ほっとするような気分もあった。まあ、一旦戻って新しいところを探すしかなかろう。
「本当に、申し訳ない」
「仕方ありません」
「こんなことになってしまったが、ともかく、お茶だけでも一杯……」
主人が紅茶の碗を勧めようとすると、母親が大きな声を挙げた。どうも片言の英語らしい。
「おまえ! 飲むなかれ! 飲むなかれ! おまえ! 行け! 行け!」
杖でどんどんと床板を鳴らし、人差指を私に突きつけながら、ずんずん近付いてくる。
「行け! 行け! 行け!」
凄まじい形相である。これは堪らない。
挨拶もそこそこに、慌ただしくその家を辞した。
こんな婆さんがあるものだろうか。
何とも怖ろしげで、又訳が分らず、思い返してみると随分と腹も立つ。
暗澹とした割切れぬ思いを幾度も幾度も反芻しながら、もと来た石の橋を反対の方向に戻って行った。
あんな婆さんがあったものだろうか? 一体何がどうしたというのだ?
しばらく歩いていると、釈然としない気持ちの他に、何やら妙な感覚が加わってきた。橋板を蹠で踏まえる心持ちが何だかどうも覚束ない。
どうしたことだろう?
足許の覚束なさは次第次第に甚だしくなり、遂には足場がゆらゆらと揺くようになった。どうにも踏まえどころが無く、定まりがつかない。これでは一歩も先に進まれない。
改めて橋の様子を確かめて、唖然となった。
立派な石橋だった筈が、どうしたことだろう、とんでもないことになっている。
何と、蔓と木で出来た粗末な吊橋に変わっているのである。
無論、当り前に考えれば、そんなことはあり得べからざる、頗るおかしな話である。ただ、私の心持としては、なぜだかそれほど妙だとも思われなかった。
むしろ蔓を何本も何本も編み込んだ、その橋の造りが非常に珍しく、一頻感心して眺めていた。
そうして覚束ない足許を見下ろすと、これを橋板と呼ぶべきだろうか、要するに、並べた横木を蔓で編んで繋いであるのみ。木と木の間には二、三寸ほどの隙間が出来ているのだが、そこから下を流れるせせらぎがありありと覗かれる。
遥かに下の方で、水が、或いは逆巻き、或いは泡を引きつつ、左から右へと尽きず流れて行く。
あそこまで百尺ばかりもあるだろうか――ふと、その高さを推察するや、はっとなった。
何やら股の間がすうすうする。恐怖心がわくわく胃の腑を突き上げ、膝ががくがく震えて来る。
慌てて、右脇の蔓に縋りついたのだが、視線を挙げて眺めてみるとこの橋は随分長いもののようで、行く手には霞が掛かり何やら煙っている。何度も目を凝らしたのだが向うがよく見えない。反対の向きに頭を巡らし、これまで来た方角を振返ってみても、やはり同様に煙っている。そうして橋の上には私の他に誰も人の姿が見えない。
何ということだろうか? 途方に暮れるように感じられた。
いずれにしても、このまま先に進むしか術は無いのだが、この足場では今までのようにさっさと無防備に歩いて行くことはとても出来かねる。用心しなければ木と木の隙間に足を取られたり、踏外したりしかねない。そこで手では蔓の檻を伝いつつ、足を乗せるべき横木をよくよく目で確かめながら、恐る恐る一歩、又一歩と歩みを進めた。
そのうちに大分慣れてきたのだろう、足の運びが少しずつ軽やかになってきたのだが、今度は後ろの方から予期せぬ大きな揺れが伝わってきて再び身を竦めた。見遣ると黒い人影がこちらに向かって来る。それも吊橋を渡って来るというのに、普通の地面を歩くのと違わぬ足取りですたすたと遣って来る。それでいて、橋の方は大いに揺くのである。
近付いたところを見ると、饅頭笠に詰襟姿の、明治の頃の郵便脚夫見たような恰好をした男であった。
「もうし、あなたは私と同じ方向に向かわるるか?」
男が足を止めて訊いてきた。
「はい、どうもそのようです」
「して、あちらの岸から来られたのかな」と後ろを振り返って指さす。
「はい……」
「それは珍しい…… いや、尋常であれば、あちらの岸に向かって渡るのが本当なのだが、あべこべに渡っておらるるとな?」
「はい、実はもともとは、向うの岸から石橋を渡ってあちら側に行ったのですが、どうやらあちらには居たたまれぬ仕儀と成りまして、又向う側に戻るところです。いつの間にかに橋は蔓の吊橋にすり替わってしまいましたが、どうにも仕方がありません……」
我ながら何だか要領を得ないような返答をしてしまったのだが、案に違って男の方では実に得心が行った風で、
「なるほど、なるほど。で、あちら側では何も口にはされなんだか? 食べ物飲み物はお召しにならなかったかな?」
「はい、お茶を飲もうとしたのですが、どうにも飲みそびれました」
「そうですか。重畳重畳、それは何より。黄泉竈食を為さらなかったは上出来です。まあ、お気を付けてお戻りなされ」
そう言うが早いか、男は又橋を大いに揺らしつつ、ずんずんと去って行った。
私は揺れが収まるのを待ちながら、そう言えば来たときのあの立派な石橋は、橋の様子も銅像のさまも、いつも仕事の行き帰りに通っている日本橋にそっくりなのだが、あのとき、そんなことは思いもよらなんだものだな――そんな、今更気付いても詮無いようなことをつくづくと考えていた。
もうよかろう。私は再び足を動かし始めた。
時に、辺りは日が大分翳ってきている。暗くなる前に橋を渡り切れればよいのだが――
<了>