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二十一日目、花火が消えるまで(1)

 夏の夕暮れは透きとおるような色をしていた。

 残照に白く霞む空は薄明るく、しかし花火大会の会場である河川敷には夕闇が濃い影を落としていた。肌を撫でる風はねっとりと絡みつくように重い。人混みの熱気と相俟ってむせ返りそうなほどだ。

 自分から言い出したにも関わらず、澪はすでに帰りたくて仕方がなかった。礫のような石がごろごろ転がる河原に、踵の細いサンダルを履いてきたのは間違いだった。歩きにくいうえに、ごった返す見物客の隙間を縫うようにしか進めず、何度も人にぶつかりそうになった。

「澪、大丈夫?」

 先を行く白羽が心配そうに振り返る。澪はうんざりして答えた。

「ぜんぜん大丈夫じゃないわよ……なんなのよ、この混雑ぶりは。こんなに混むようなイベントだった?」

 幼い頃、幾度か白羽とともに叔母に連れてきてもらったときは、これほどの賑わいではなかった気がする。川沿いの土手道どころか橋の上にまで見物客が溢れ返り、河川敷に至る道路では局地的な渋滞が発生していた。

「ここ二、三年で、ずいぶん盛大になったんだよ。ローカルだけど、テレビでも取り上げられたしね。このあたりでやる夏のイベントだと、一番大きいんじゃないかな」

「……道理で」

 澪はため息をついた。どうやら決着の舞台を選び間違えたようだ。こんな場所では、落ち着いて話などできそうにない。

「澪」

 彼女のため息を拾い上げるように、白羽が呼んだ。

「ちょっと遠いけど、静かに花火を見れるところがあるんだ。そこに行く?」

「……あんた、そういうことはもっと早く言いなさいよ」

 思わず睨むと、白羽は困ったように笑った。

「僕も久しぶりに来たから、さっき思い出したんだ。ごめんね」

 その表情がひどく儚く映り、澪は口をつぐんだ。

 暗い水色の闇に、少年の姿は仄白く浮かび上がるようだった。青いボーダー柄のポロシャツにゆったりとしたジーンズ、履きこんだスニーカーというありふれた出立ちだが、どこまでも整った横顔にすれ違うだれもが目を奪われる。一緒に歩く澪以上に視線を感じているだろうに、気にもしていない様子だった。

 人の多い場所に出かければ、こんなことは当たり前なのだろう。慣れてしまったのではなく、慣れるしかなかったのだ。

 優しく背に庇ってくれたひとは、もういないから。

「……白羽」

「なぁに?」

 澪は手を伸ばし、華奢なようでしっかりとした造りの手を捕まえた。ほんの一瞬、白羽の肩がびくりと震える。

 おそれにも似た驚愕に強張る顔から目を逸らし、澪は言い訳を口にした。

「はぐれたら、めんどくさいから」

 素直になれない気持ちをこめて、手を握った。

 白羽は黙りこんだ。澪の心に後悔が滲みはじめた頃、そっと、ためらうような強さで握り返された。

 澪は顔を上げた。

 視線が合うと、白羽はくしゃりと笑った。

「……うん」

 それは、泣き顔のようだった。

 唇を噛みしめ、澪は白羽の手を引いた。

「あんた、昔っから迷子になるんだから」

「うん」

「……本当に、世話が焼けるんだから」

「うん」

 子どもの頃のように手をつないで、ふたりは歩き出した。

 かつて、自分のそれより小さくやわらかかった掌はどこにもない。舌ったらずな甘い呼び声も、あどけない笑顔も。

 苦しいほどの切なさに、喉が詰まりそうだった。

 無邪気だった日々への愛惜は、確かにこの胸にもある。だが澪が本当に欲しいのは、二度と戻らぬ思い出ではなかった。

 今だけだ。

 今だけ、いずれ上がる花火が消えるまで。

 この熱を独り占めさせてほしいと、澪はだれともなく許しを乞うた。




 白羽に手を引かれるままやってきたのは、河川敷から少し離れたところにある住宅街だった。

 見物客の行き交う大通りを外れた途端、喧騒がすっと遠ざかった。それほど奥へ行かぬうちに、白羽は「ここだよ」と指差した。

 ふたりの目の前には、長い石段が続いていた。石段の先は、ずいぶん上に立つ鳥居の向こうの闇に吸いこまれていた。

「神社?」

「うん。ちょっとした高台になってて、社殿の裏手から河川敷を見下ろせるんだ」

 あたりはすっかり夜の帳に包まれ、鳥居の奥には木々の影が黒々と広がっている。今にも覆い被さってきそうな重々しい闇に、澪は思わず押し黙った。

 白羽が首を傾げ、顔を覗きこんでくる。

「もしかして、怖い?」

 からかうような色を滲ませた口調に、澪は彼の向こう脛を蹴った。

「いってぇ!」

「子どもじゃあるまいし、そんなわけないでしょ。さっさと行くわよ」

「図星指されたからって八つ当たりしないでよ……」

「『口は禍の門』って言葉を憶えときなさい」

 他愛ないやりとりをしながら、ゆっくり石段を昇っていく。手すりも明かりもないなかで、つないだ手だけが頼りだった。

 石段を昇りきると、さほど広くはない境内に出た。濃い木の下闇の奥に小さな社殿がひっそりと佇んでおり、白羽はそちらに向かって歩を進める。

「虫除けスプレー、してきてよかったね」

「してなかったら藪蚊に食われ放題だったわ」

 闇がいっそう深くなると、むっとするような夏草の匂いがふたりを押し包んだ。空気はひんやりとしていて、チュニックの下の滲んだ汗が冷える不快感を覚えた。

「こっちだよ」

 それほど進まぬうちに、不意にぽっかりと暗がりが晴れた。藍色の夏の夜空が広がり、その下に家々の灯と、もっと向こうに大きな川の流れが見える。

「すご……」

 目を瞠ると、白羽は嬉しそうに笑った。

「ここなら何にも邪魔されずに見られるでしょ?」

「よくこんな場所知ってたわね」

 ひと呼吸の沈黙を置いて、白羽は「うん」と小さく頷いた。

「家にいるのがつらくて……ひとりでいろんなところを歩き回ったことがあったんだ」

 不意打ちのような告白に、澪は息を呑んだ。

 白羽は遠くを見つめるようなまなざしを町並に向けたまま、とつとつと語った。

「ひとりぼっちはいやだったのに、どこへ行っても人の目が煩わしくて、痛くて……逃げ回ってた」

「……白羽」

「だけど――今は、澪がいてくれるから」

 澪を振り返り、白羽は淡く微笑んだ。

「澪がいるから、寂しくなんてないんだよ」

 その瞬間、澪の心は凍りついた。

 ひび割れ、限界に達しかけていた想いが、甲高い悲鳴を上げて砕け散る。

 澪は唸るような声で呟いた。

 かつて、白羽自身が彼女を詰ったように。

「――嘘つき」

 絶句する白羽を、斬りつけるような激しさで睨めつける。

「み、お?」

「嘘つきはあんたよ。あたしがいればいい? そんなこと、ホントは思ってなんかいないくせに」

 少年の顔が青ざめていくのが夜目にもわかった。しかし、澪の激昂は止まらなかった。止めようとも思わなかった。

「あんたがそばにいてほしいのは、あたしじゃない。あたしはただの身代わりよ」

「みお……澪」

「そばにいてほしいひとはもういないから、あんたは一番近くにいたあたしでごまかそうとしたのよ。あの日、あたしが『そばにいる』って言ったから」

「――ッ、澪ちゃん!」

 悲鳴が弾けた。

 白羽は大きく肩を震わせた。いやいやをするように首を横に振る。

「澪ちゃん、澪ちゃん……お願い、もうやめて……」

「やめない」

 澪は冷酷に続けた。

「あんたのおままごとにつき合わされるのは、もういやなの」

 茫然と澪を見る瞳は、傷ついたガラスのようだった。しかし、怯むわけにはいかなかった。

 白羽が望む彼女のように、優しくなんてなれないから。

「あたしは――紗夜子叔母さんじゃない」

 ひゅ、と白羽の喉が鳴った。

 その美しい、悲しいほど叔母によく似た顔からは、もはや透きとおるほど血の気が引いていた。

「ぼく、は……」

「あんたがそばにいてほしいひとは、叔母さんよ」

「ち、違……僕は、澪ちゃんに」

 ここまで来て偽ろうとする白羽に、澪は笑った。

 どうしようもなく泣きたくて、それでもこぼれない涙の代わりに、笑った。

「ねぇ、白羽」

 ずっと目を背けてきた答えがある。

 冷たい雨に消えてしまいそうだった少年を抱き締めた理由。翳りはじめた彼の心をおそれながらも、突き放せなかった理由。歪んだ牢獄から逃げ出さなかった理由。

「あんたにとって、あたしは何?」

「え……」

 戸惑いに瞳を揺らす白羽に、澪は押し殺した声を洩らした。

「あたしは、あんたの母親になんかなりたくない。昔みたいに、お姉ちゃんに戻りたいわけでもない」

 この世のものではないような美しい少年を雨のなかに見つけたときから、願うことはただひとつ。


 その透明なまなざしが、欲しい。


「ずっと、あんたのことが好きだった」

 こぼれ落ちそうなほど見開かれた双眸に自分だけが映りこんでいることに満足しながら、澪は白羽の胸倉を掴むと、力いっぱい引き寄せた。

 焦がれ続けた唇に、噛みついた。

 ――そして、花火が上がる。

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