十八日目、ピーター・パンの見た夢
澪はダイニングの壁にかけられたカレンダーを睨んでいた。
満開の向日葵畑を写したカラー写真の下、数えられる日数はすでに八月の半分を切っていた。夏の終わりは、確実に近づいてきている。
――このままでいいはずがない。
廣世の話を聞いてから、澪の胸にはもやもやとした、焦りのような思いがわだかまっていた。時間が経てば経つほど濁りは深くなり、怒鳴り散らしたい衝動がこみ上げてくる。
廣世も、そして白羽も、うわべばかりを見つめている。澪が白羽のそばにいたところで、ほんのいっとき、彼の孤独を薄めることしかできないのに。
白羽の抱える闇――澪に対する執着を掻き立てる要因そのものを溶かしきらなければ、本当の解決にはならない。
痛みにも似た苦しさを覚え、澪は目を伏せた。
ようやくわかった気がした。
囚われていたのは澪ではない。白羽だ。
ずっと、ずっと、三年前のあの日から。白羽は今もなお、悲しみが凍ったような雨のなかにいるのだ。
だれが、彼を置き去りにしたのか。
「……馬鹿みたい」
握り締めた拳を額に押し当て、澪は呻いた。
「本当に、どうしようもない、馬鹿よ」
「――だれが?」
微かな冷笑を含んだ声が首筋に落ちた。するりと後ろから伸ばされた腕に包みこまれる。
不意に現れた従弟に、澪は驚かなかった。
「澪はひどいなぁ。馬鹿馬鹿って、最近それしか聞いてない気がする」
くすくす笑いながら白羽はすり寄ってくる。ぬくもりを重ねて、けれど胸に広がるのは寒々しさだけ。
この空虚な絶望の意味も、今なら理解できる。
「……暑苦しいんだけど」
どうしようもなく泣きたくなって、だが澪は泣けなかった。声を低めて、突き放すような言葉でごますしかない。
(澪は……優しいから)
優しくなどない。吐き気がするほど臆病で、愚かな人間だ。
(澪は、わかってないよ)
ああ、そうだ。
自分はわかっていなかった。何も、わかっていなかった。
己自身の想いも。白羽の、本当の願いも。
「僕は、このままがいい」
白羽は深く息を吸いこむように答えた。年頃の少年には似合わない、素朴な石鹸の香りがした。
「ずっと、このままがいい」
澪が何を見ていたのか、白羽は知っている。
この夏がいつか終わることを、知っている。
どんなにおそろしい目をしていても、どんなに澪より力が強くても、彼はまだ子どもなのだ。
小さな世界しか知らない、守られることしか知らない男の子。
「ねぇ、白羽」
「ん?」
「あんた、ピーター・パンの話憶えてる?」
途端に白羽の腕が強張った。
澪はそれに気づかないふりをして、言葉を続ける。
「子どもの頃さ、この家に泊まりに来た夜……叔母さんがよく絵本を読んでくれたじゃない」
母はあまりそういうことをしてくれなかったから、白羽と枕を並べて耳を澄ます寝物語がとても楽しみだった。
王子様の口づけで目覚めた眠り姫も、ガラスの靴を落として幸せになった灰かぶりも、すべて紗夜子が教えてくれた。
「あんた、ピーター・パンが一番のお気に入りだったわよね。何度も何度も叔母さんにねだって、あたしは別の話が聞きたかったから喧嘩になったこともあったけ」
「……澪」
「しまいにはあんたが泣き出して、結局いつもみたいにあたしが折れたのよね。叔母さんも呆れて――」
「澪ッ」
はじめて聞く声だった。
間近で怒鳴られて耳の奥が痛んだが、澪は眉ひとつ動かさなかった。
「もう、いい」
苦しいほどの強さで、きつく抱きしめられた。
「そんな昔のこと、もうどうでもいい。僕は――僕はただ、澪がそばにいてくれれば、それだけで」
「……あんたさ、ピーター・パンになりたいって言ってたわね」
澪はもう一度カレンダーを見た。正しくは、三日後の日づけに下に書きこまれた言葉を。
「今でも、そう思ってる?」
肩に震える吐息を感じた。何か言おうとして、答えられぬまま口を閉ざしてしまったように。
永遠の少年、いつまでも大人にならないピーター・パン。
だが、ウェンディは大人になった。
ネバーランドで常若の夢を見続けるのではなく、とめどない時の流れのなかへ帰ることを選んだ。
女の子は男の子より早く大人になるのよと、紗夜子は笑っていた。
きっと、澪も同じだ。
「ねぇ、白羽」
だから、選ぶ。
「――デートしよう」
「……え?」
顔を上げる気配に、澪は白羽を振り仰いだ。何を言われたのかわかっていないのか、秀麗な面に間抜けなほどぽかんとした表情を浮かべている。
「どこにも出かけるなってんなら、あんたと一緒に行けばいいんだわ」
三日後の日付を指差すと、ようやくゆっくりと双眸を瞬かせた。
「花火、大会?」
澪はまっすぐ白羽を見据えた。
「光栄に思いなさい。エスコート役に指名してあげるわ」
「……いいよ」
ゆるゆると口端を持ち上げ、白羽は笑った。
どこかぎこちない、貼りつけたような笑顔だった。
「一緒に、行こう」
――この選択は、白羽を傷つけるものでしかない。
それでも。
まやかしの救済者なんてまっぴらだ。
だから澪は、破壊する。
夏の終わりのカウントダウンが、はじまった。