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十五日目、宛先不明のSOS

 ブーッとテーブルから伝わってきた振動に、澪は伏せていた顔を上げた。

 規則的なバイブレーションをくり返す携帯電話を手に取り、待受画面を開く。『メール一件』の表示をクリックすると、受信されたばかりのメール画面が現れた。

『この間は夏風邪って言ってたけど大丈夫? もしよさそうだったら、改めて映画行かない?』

 澪はため息をついた。メールの送り主は、白羽に閉じこめられてすっぽかしてしまった約束の相手だった。友人の人柄を表すように、文章の最後には心配そうな顔文字がついている。

 あのときは、急な夏風邪を引いて寝こんでしまったとごまかしたのだ。あれからもうすぐ二週間が経ち、夏休みも半分を終えようとしている。その間、澪はほとんど外部と連絡を取っていなかった。

 もともと彼女は、自分からメールや電話をするタイプではない。何より、今は白羽の目がおそろしかった。電話線が抜かれずにいるように、彼は何も言わない。だが、だれかに連絡する――助けを求める素振りを見せたら、穏やかな仮面の下から獣の牙が食らいついてきそうな気がした。

 澪は携帯電話を握り締め、ゆっくりとボタンを押した。

『4』を一回、『3』を三回、『2』を四回。再び『4』を、今度は四回。

『たすけて』

 変換待ちの点滅をくり返す四文字をじっと見つめる。まるで子どもが書いたようにつたない言葉。

 ――自分はだれかに助けてほしいのだろうか?

 不意にこみ上げてきた疑問に、澪は愕然とした。この吐き気のするような牢獄から脱け出したいと思うのは当然ではないか。白羽の行いは明らかに間違っている。

 だが彼がおそろしいから、逃げることができない。

 ……本当に?

 本当に、自分は白羽をおそれて逃げられないのだろうか。恐怖だけがここに囚われている理由なのだろうか。

 助けてほしい。救ってほしい。


 だれ、を?


「――」

 茫然と見開かれた瞳に何かが映りかけたそのとき、階下から玄関のドアの開閉音が上ってきた。

 澪はゆるりと瞬いた。

 夕食の買いものに出かけていた白羽が帰ってきたのかと思ったが、待受画面に浮かんだ時刻は、彼が出かけてからまだ三十分しか経っていないことを告げていた。

 携帯電話の画面を閉じて立ち上がる。澪は部屋を出ると、階段を下りてダイニングに向かった。

 ダイニングからキッチンへと続く出入り口の向こうに、白いワイシャツの背中が見えた。ほっそりとした後ろ姿は白羽とよく似ているが、少年よりもくたびれた印象が滲んでいた。

「――叔父さん?」

 そっと呼びかけると、水を飲んでいた男性は濡れたグラスを置いて、こちらを振り返った。細い毛筆ですうっと描いたような双眸を小さく瞬かせ、「ああ」と声を洩らす。

「澪ちゃんか……ただいま」

「おかえりなさい」

 見るからにサラリーマンといった風情の男性は、外でもない白羽の父親であり、澪にとっては叔父に当たる高本廣世ひろせだった。

 どこか眠そうな目元とあまり動かない表情のせいか、廣世は茫洋とした、印象の薄い顔立ちをしていた。際立つような白羽の美貌は、間違いなく叔母の紗夜子譲りである。しかし、すらりとした立ち姿を比べると、ああやっぱり親子なんだと納得する。

「今日はずいぶん早いんですね」

「思いかけず仕事がひとつ片づいてね。半日有休をもらったんだ。……白羽は?」

「夕飯の買いものに行ってます。お昼、まだですか? チャーハンの残りがあるから、あたため直しましょうか」

「ああ、お願いできるかな」

 ネクタイをゆるめながら廣世は頷いた。澪は彼と入れ替わりにキッチンへ入ると、冷蔵庫からラップのかかった皿を取り出し、電子レンジにかけた。

 置きっ放しのグラスを軽くすすぎ、冷えた麦茶を注ぐ。すぐに電子レンジがピーッと甲高く鳴った。

「お待たせしました」

「ありがとう。いただきます」

 ラップを外した皿にスプーンを添え、グラスと一緒に運ぶ。廣世はきちんと手を合わせてからスプーンを手に取った。こういうところも似ている。

 澪は叔父の向かい側の席に座った。

「シーチキン入りチャーハンか。澪ちゃんが作ったのかい?」

「白羽ですよ」

 叔母亡きあとの高本家の家事は、白羽が一手に引き受けている。澪がやって来てからもそれは変わらない。白羽は、澪が家事を手伝うことを決して許さなかった。

 廣世はスプーンを持つ手を止め、わずかに目を伏せた。

「そうか……」

 ため息をつくような声だった。

「……そうだね。この味は、あの子のものだ」

 どこか翳りを帯びたまなざしがチャーハンに落ちる。

「今年に入ってからは、特に忙しくてね。白羽の手料理をまともに食べるなんて、久しぶりだ」

 澪は、白羽がいつもふたり分の食事しか用意しないことを思い出した。最初の頃は気になったが、朝食時にさえ廣世と顔を合わせることはほとんどなく、いつしかそれがこの家の日常なのだと納得した。

 だが今思えば、それはとても寂しいことではないだろうか。

 叔母を交通事故で喪ってから、白羽はずっとこの家にひとりぼっちだったのだ。だれもいない、暗く、冷えきった部屋の中で立ち尽くす少年の姿を思い浮かべ、澪は言葉にならない声で喉を詰まらせた。

(僕のそばにいて……)

「……情けない話だけど」

 記憶のなかの白羽の声と、目の前の廣世の声が重なった。

「紗夜子が死んで、白羽とふたりっきりになってから……あの子にどう接すればいいかわからないんだ」

「え……」

 目を瞠る姪に、廣世は自嘲めいた笑みを薄く浮かべた。

「紗夜子がいなくなるまで、僕はずっと白羽のことを彼女に任せっきりだったんだよ。授業参観に行ったこともないし、運動会の応援もしたことがない」

「でも、それはお仕事が忙しいから……」

「もちろん本当だったけど、でもそれを言い訳にして、紗夜子に甘えていた部分もあったと思う。紗夜子は文句ひとつ言わずに、いつでも笑って送り出してくれたから」

 思い出に残る叔母の紗夜子は、いつも明るく笑っていた。子どもがいるとは思えない、少女のように可憐な女性だった。だがそれ以上に、内面から溢れ出る輝きが人を惹きつけてやまなかったように思う。

 白羽に比べてかわいげがあるとは言いがたかった自分も、屈託なく慈しんでくれた。遊びに行くたびに作ってくれた菓子の甘く優しい味が、じわりと甦る。

「そんな父親だったから、僕は息子のことをまったく知らないんだ。どんなことを話せばいいのか、どう向き合えばいいのか……わからないんだよ」

 廣世の顔から笑みが消え、深いため息が落ちた。

「……今思うと、紗夜子は僕と白羽をつなぎ止めていてくれたんだね」

「叔母さんが?」

「僕は一度きっかけを失うとなかなか近づいていけない性格だし、子どもの頃の白羽は臆病で、身内にすら人見知りしていたからね。そんな僕らの手を彼女が引っ張って……ひとつの『家族』にしてくれていたんだと思う」

 それでは、まるで今のふたりは家族ではないと言うようだ。

 だが一方で、ある意味真実なのかもしれないと呟く声があった。同じ家で暮らしていても、ともに過ごす時間のなかで重ねていく心がなければ、家族とはいえないのではないか――。

「だからね、澪ちゃんには本当に感謝しているんだ」

「……え?」

 不意に上がった自分の名前に、澪は戸惑った。

「紗夜子が死んで、ひどく塞ぎこんでいた白羽が立ち直れたのも、きみがそばにいてくれたからだと思うんだ。あの子は昔からきみを慕っていたから」

「そんな……あたしは、別に」

 廣世のやわらかな視線に、思わず俯いてしまう。膝の上で握り締めた拳に気づかぬまま、彼は続けた。

「だからその分、澪ちゃんが高校に行ってしまって気落ちしてしまったようでね。もともとの性格もあるんだろうけど……あまり学校でうまくいっていないようなんだ」

 いつも自分の背に隠れていた小さな白羽。

 まるでそれだけしか見えないように、ひたすら澪を追いかけてきた十三歳の白羽。

 廣世の存在を忘れたようにふるまい、澪を閉じこめた十五歳の白羽。

 いったいいつから、なぜ澪だけを求めるようになったのか。

「だけど今回、お義姉さんから澪ちゃんのことを頼まれて……夏休みの間だけでも白羽をひとりにしなくて済むと、安心したんだ」

 澪ちゃん、と優しく、どこか縋るような声で呼ばれた。のろのろと視線を上げると、廣世は淡く微笑んだ。

 痛みを堪えるような表情だった。

「虫のいい、自分勝手なお願いだと思う。でも、どうか、せめてこの夏が終わるまで白羽のそばにいてやってくれないかな」

 三年前のあの日。

 白羽は冷たい雨の向こうに、何を――だれを見ていた?

「きっと僕では駄目なんだ。あの子自身が望む相手ではないと……紗夜子のように」

 ――ああ、そうか。

 何度もくり返されたはずのその名前は、まるで氷の楔のようだった。

 この牢獄のなかで、白羽が一度たりとも彼女のことを口にしていないことに、澪はようやく気がついた。

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