三日目、鎖された箱庭の名前
「どこに行くの?」
降ってきた声の低さに、澪は自分が逃れようのないことを思い知った。
今まさにノブを回して玄関のドアを開けようとしていた手は、自分のものより大きなそれに上から押さえつけられている。
もう一方の手をドアにつき、背中に覆い被さってくる白羽のひんやりとした気配が肌を刺す。澪は喉の奥に詰まっていた息をゆっくり吐き出した。
「……友達と映画観に行くの」
「友達ってだれ?」
間髪なく返される問いの鋭さに、喉元に刃を突きつけられているような気分になった。
叔父の家にやってきて三日目。
この日、澪は高校の友人と映画を観に行く約束をしていた。一年近く前から注目されていた話題作で、封切になったらすぐに観に行こうと夏休み以前から話していたのだ。だから他の予定は入れていないし、白羽に引き止められるような理由もない。
だが白羽の声には、そんなことを通り越して足が凍りつく威圧感があった。
「だれって、学校の友達」
「男? 女?」
「女よ。――ねぇ、放して」
澪はそこではじめて振り返った。
「急いで行かないとバスに乗り遅れちゃうの。帰るときは連絡するから」
白羽は無表情だった。冷たく硬質な顔つきに息苦しさを覚えながらも睨み返す。
「だから放して」
「……いやだって言ったら?」
うっすらと白い面に笑みが滲む。それは決して優しいものではなかった。
「行かせないって言ったらどうする?」
「なに、それ」
澪はぎゅっと拳を握りしめた。冷たい汗に掌がぬめる。
「あたしがどこ行こうと、白羽には関係ないでしょ。あんたに束縛されなきゃなんない理由なんて、あたしにはないわ」
張り詰めた少女のまなざしに、白羽はふうっとため息をこぼした。ドアについていた手を滑るように動かし、腕の中に囲った澪の頬をそっと撫でる。
「澪は、わかってないよ」
ささやくような声音は、場にそぐわずどこか寂しげだった。氷のような瞳の奥で燻ぶる熱に、澪は心臓を射抜かれた。
「ちっともわかってない。きみが、そばにいるって言ったのに」
「そんなの、いつの話よ」
窒息してしまいそうになりながら、澪はワンピースの胸元をきつく握った。
「もう三年も前でしょ、いつまで子どもじみたこと言ってるのよ。あんだだって言ったじゃない、もうそんな歳じゃないって。だったらいい加減、ひとのあと追っかける真似なんてやめて。もううんざりなのよ!」
叫んだ瞬間、痛いほどの強さで腕を引かれた。
「――ッ」
サンダルの踵が引っかかってつんのめる。それでもぐいっと家の中に引き戻され、澪は転ぶようにサンダルを脱いだ。
「いた、痛いってば、白羽!」
手首を掴んだ白羽は乱暴な足取りで玄関ホールを渡り、階段を昇っていく。どんなに言葉をぶつけても無言の背に、頭から冷水を浴びせられたような悪寒が襲ってきた。
「白羽、放して……放してってば!」
最後はほとんど悲鳴のようだった。白羽は二階へ上がると、澪が使っている部屋のドアを開け、小柄な彼女を投げこんだ。
「きゃっ」
勢いよく床に倒れこむ。顔を上げた澪は、非難の言葉を息と一緒に呑みこんだ。
戸口を塞ぐように立った白羽の目からは、ごっそりと感情が抜け落ちていた。
「――許さない」
呟きが乾いた音を立てて落ちる。
「逃げるなんて、裏切るなんて、僕は許さないよ」
「し、らは」
ぽっかりと穿たれた穴のような双眸の奥で、冷たい鬼火が燃えている。青ざめたその炎は、いつか自分を焼き尽くすだろう。
ねっとりと爪先を舐める鬼火の舌先を、澪は想像した。
「嘘つきになればなかったことにできるなんて、思わないで」
すうっと白羽の目が細められた、その瞬間、バンッと弾けるような音を上げてドアが閉まった。
「白、羽、白羽、開けて!」
澪はドアに縋りついた。がちゃがちゃとノブを回し、体当たりしても開かず、何度も何度も拳で叩く。
「白羽、聞こえてるんでしょっ。開けなさいよ!」
「……澪が」
返ってきたのは、ひどく静かな声だった。
「澪が自分で言ったことの意味を思い出したら、出してあげる」
――そんなの、知らない。
ドアに拳をついたままずるずると崩れ落ち、澪は床に座りこんだ。額をドアに押しつけるようにして項垂れる。
どうしてこんなことになってしまったのか。だれよりも近くにいたはずなのに、白羽の心がわからない。
悲しみとも恐怖ともつかぬ感情に呑まれ、澪は声にならない嗚咽を洩らした。
結局、彼女は丸一日部屋の中に閉じこめられていた。
さんざん泣き喚いて、部屋のなかのものに当たり散らして、どれほど罵倒をぶつけようと開かぬドアに疲れ果て、いつの間にか眠ってしまった。どんな夢を見ていたのか憶えていないが、意識が現実に引き戻された直後の浮遊感はひどく気怠いものだった。
ああ、夢のなかですら逃げられない、とぼんやり思った。
だから澪は、「もういい」と呟いた。
「もういい。どうだっていい……あんたの好きにすればいい」
いくら言葉を尽くしたところで、白羽の思いを理解することなどできない。
だったら何もかも投げ出してしまいたい。
ひと粒だけ残っていた涙がころりと転げ落ちたのを知ると、音もなく目の前のドアが開いた。
白い裸足の先からたどるように視線を上げていくと、どこか虚ろな表情の白羽と目が合った。
彼は思い出したように微かに笑うと、膝を折って床に横たわったままの澪を抱き起こした。
「うん……だから澪、僕のそばにいて」
閉じこめられたときの荒々しさなど少しも感じさせぬ動作で抱き締められる。広い肩口に力なく頭を預けた澪は、応えずに瞼を下ろした。
白羽はどんな箱庭を作ろうとしているのだろうか。澪にわかるのは、それは決して楽園ではないということだけだった。