二年前、澪と白羽
「――澪ちゃん!」
昼休みを告げるチャイムが響いて間もなく、勢いよく教室後方のドアが開いた。
弾むように自分を呼ぶ声に、澪はうんざりとため息をついた。
「みーお、ほらお迎えよ~?」
隣の席で弁当を広げていた友人が、にやにやと笑いながら肩をつっついてくる。澪はその手をはたき落とし、声の主を振り返った。
「……なんの用、白羽」
「一緒にお昼食べよ! 今日は天気がいいから外に行かない?」
従姉のきつい視線などかまいもせず、白羽は頬を上気させて笑った。その笑顔に、教室のあちこちから悩ましげな吐息が洩れる。
しかし澪は、眉間に皺を寄せただけだった。
「行くわけないでしょ。ていうか、教室に来るなって何度も言ったじゃない」
「……ごめんなさい」
澪の冷たい言葉に白羽は項垂れる。でも、とか細い声が続いた。
「澪ちゃんに、会いたかったんだ」
打ち捨てられた仔犬のような風情に、澪は思わず呆れた。とにかくさっさと追い払おうと口を開くよりも早く、友人が鼻息荒くまくし立てた。
「どうぞどうぞ、高本くん。こんなやつでよければ好きなだけ持ってって!」
「ちょっ……」
「あんた、よくもこんなけなげな後輩につれない態度とれるわね! 羨まし――じゃなかった、先輩としてどうなのよ?」
あたしがいつこいつの先輩になったのよ、と言い返そうとして、澪は口をつぐんだ。目の前の友人からだけでなく、教室中から非難と嫉妬の入り混じった視線を感じたからだ。
いったい自分が何をしたというのか。澪はいっそう深く長いため息を洩らした。どう足掻いても自分は悪役でしかないことを痛感し、弁当とペットボトル入りの烏龍茶を持って席を立つ。
白羽は、先ほどまでの悲痛な表情が嘘のようににっこり微笑むと、友人に向かってぺこりと頭を下げた。
「澪ちゃんお借りします、先輩」
「うん……!」
友人は鼻を押さえて大きくよろめく。今度は彼女に注がれる羨望のまなざしに、澪は馬鹿馬鹿しくなって白羽の脇をすり抜けた。
「あ、澪ちゃん待って!」
慌てて追いかけてきた白羽は、隣に並ぶと何が楽しいのかくすくすと笑った。
「面白い先輩だね。僕、中学ってどんなところか結構不安だったんだけど、優しいひとたちばっかりで安心した」
「……あんたそれ、本気で言ってるの?」
「え?」
きょとんとした顔は本当に何もわかっていないようだった。無自覚だとしたら、このうえなくたちが悪い。
白羽が入学した当初、学校中が彼の噂で持ちきりになった。もちろんその原因は、テレビで見かけるアイドルよりよっぽど端麗な容姿である。
そんな人物に忠犬よろしく懐かれれば、注目を集めぬわけがない。白羽と比べ、あくまで平凡な澪に向けられる感情は、よくて好奇心、なかにはあからさまに妬みや嫉み、嘲りを見せる者もいた。
だからいやなのだ。
幼い頃は知らなかった劣等感。長じるにつれ、それは薄まるどころか強くなる一方だった。並んだふたりを見る下世話な大人たちの目。
(白羽くんは本当にきれいねぇ)
(それに比べて澪ちゃんは……ねぇ)
(従姉弟っていっても似るわけじゃないのね)
美しくもないが醜くもない自分の容姿に、澪は不満などない。だが浮世離れした白羽の横にいれば、どうしても彼の引き立て役になってしまう。あるいは無邪気な思慕を寄せられるほど、不釣合いだと謂れのないそしりを受ける。その事実は、やがて白羽を疎む心に変わっていった。
彼を鬱陶しいと思うのは八つ当たりだとわかっている。澪に非がないように、白羽が悪いわけでもない。そばにいたからこそ、決して好意ばかりでなく理不尽な悪意を向けられていたことも知っている。だというのに優しくしてやれない自分に、澪は嫌悪感を抱いた。
葛藤は苛立ちとなり、いっそう澪は白羽から離れようとした。しかしどんなに冷たく当たっても、彼は引き下がるどころかますます食らいついてくるのだ。
おかしいと、澪は違和感を覚えるようになった。
いくら姉弟同然で育った間柄といえども、中学生になってまでべったり張りついているだろうか。心身が男女の違いを覚えると同時に、少年少女はそれぞれの世界を作り上げていく。異性よりも同性、家族よりも友人と過ごす時間に安らぎや楽しさを見出す――少なくとも、澪はそうだ。
白羽が同級生の男子と話しているところを見たことがない。女子も芸能人に声をかけるような浮ついた様子で、とても対等な関係には思えなかった。いい意味でも悪い意味でも、白羽はクラスのなかで孤立していると想像するのはたやすい。
だが当の本人は不安も不満もないらしく、現状を改善しようとする気配は微塵も感じられなかった。
澪だけだ。
白羽はひたすら澪だけを求め、追いかけてくる。
「澪ちゃん?」
顔を覗きこんできた白羽の双眸が視界に入り、澪は我に返った。薄茶色の瞳はどこか心配そうに見つめてくる。
「どうしたの? 急に黙りこんで」
「別に、なんでもない」
「……やっぱり怒ってる?」
ふっと白羽の表情に影が差した。ガラス玉のような瞳の底に、途方に暮れる迷子を見つけ、澪は三月の冷たい雨を思い出した。
あのとき、澪の心を占めていたのは焦燥に似た衝動だった。手を伸ばさなければ雨に溶けて消えてしまいそうで、そんな少年の儚さに胸を掻きむしりたくなった。
狂おしいほどの想いはなんだったのだろう。
その答えは未だわからず、なぜか理解することがおそろしかった。
「……もういいわよ」
澪は三度目のため息をそっとこぼすと、ほろ苦い笑みを浮かべた。
「ほら、さっさと行かないと昼休み終わっちゃうでしょ」
「――うん!」
内から陽が射したように白羽が笑う。昔と変わらぬまぶしさに、澪は密かに安堵した。
足元が見えない暗闇を歩いているようだと思う。それでも、雨のなかで胸を灼いた激情を忘れられないからこそ、突き放すことができないのだ。
伸ばされる手を取ることこそ鎖につながれることと同義だと、十五歳の澪は知りようもなかった。