一日目、鳥籠の扉
二年ぶりの再会だった。
高校に入って二度目の夏休み、澪は父方の叔父の家に預けられることになった。今年のはじめから単身赴任していた父が体調を崩し、まるまる一ヶ月入院する羽目になったためだ。母は看病のために父の入院先へ向かい、県外の大学に通う兄もリゾート地での長期アルバイトに入るため帰省しないという。ひと月近く年頃の娘をひとりにさせることを懸念した母が、叔父に頼みこんだのである。
叔父は二年前に妻――父の妹に当たる叔母を亡くし、中学三年生の息子と生活していた。しかし、その叔父も仕事の関係でなかなか帰宅できず、実質、澪は従弟の白羽と夏休み限定のふたり暮らしをすることになった。
従姉弟同士とはいえ、同世代の異性とひとつ屋根の下で暮らすことに、澪はあまり乗り気ではなかった。そんな娘の不安を、母は笑って受け流してしまった。幼い頃の白羽は、母親によく似たとてもかわいらしい男の子で、気弱な性格もあって性別を間違われることが多かった。澪のあとを必死に追いかける姿に、兄の順一よりもよっぽど姉弟のようだといわれたものだ。
母のなかの白羽は、今でも小さな澪の弟分のままなのだろう。澪は不穏の種を抱いたまま、叔父の家を訪ねた。
「久しぶりだね――澪」
出迎えた白羽の笑顔に、澪は種が割れる芽吹きの音をはっきりと聞いた。
この男はだれだ。
そこにいたのは、確かに自分の従弟だった。
離れていた二年の間に、背丈が伸び、顔つきもずいぶん男らしいものに変わっていた。しかし甘くやわらかな、夏の陽射しに溶けてしまいそうな笑顔は、澪の記憶にあるとおりだった。幼い頃の面影をはっきりと見出すことができる。
――けれど。
「どうしたの? 澪」
言葉を失って立ち尽くす澪に、白羽は小首を傾げた。彼と目が合った瞬間に取り落としてしまった旅行鞄を足元から拾い上げてくれる。
「こんなところで話すのもなんだから、家の中に入らない? 暑かったでしょ。冷たい麦茶でも淹れるよ」
白羽の手がそっと澪のそれを取る。夏だというのにひんやりとした体温に、澪はようやく声を取り戻した。
「……白羽?」
「うん?」
「白羽――よね、あんた」
掠れた澪の問いに、白羽は目を瞬かせた。それから呆れたような苦笑を返す。
「じゃあ澪には僕がだれに見えるの?」
「それは……」
澪は言葉を濁した。「だれに」と訊かれれば、「だれにも」と答えるしかない。
見知らぬ男。
こんな風に自分を見る目を、澪は知らない。暗く澱んだ、底なし沼のような深い闇を孕んだ目。覗きこんだ瞬間に引きずりこまれて、二度と浮き上がってこられないような。
白羽はこんな目をする少年ではなかった。陽に透けると琥珀色に輝く彼の瞳は、いつも無垢で透きとおっていた。純粋な感情を素直に表すまなざしの持ち主だった。
いや、違う。
過去をたどり、白羽と過ごした最後の一年間を思い出し、澪はきつく眉根を引き絞った。大きく芽吹き、すでに胸の奥に根を張りはじめた不穏の正体に、今更になって気づく。
だからこそ、自分は彼から逃げ出したというのに。
「……そうね。あんたは、あんた以外のだれでもないわ」
いつの間にかしっかりと握られている手に、澪はため息とともに呟いた。白羽が笑う。
「そんなに僕、変わった?」
「馬鹿でかくなりすぎよ。偉そうに見下ろしやがって」
「しょうがないよ、成長期だもん。それに澪が小さいことにも原因が――痛っ」
「だれが小さいですってぇ?」
澪はサンダルの踵で白羽の足を踏みつけた。白羽は「降参降参っ」と悲鳴を上げる。
「だいだい、呼び捨てにしていいって言った覚えなんてないんだけど」
サンダルをどかしてやっても、きつい視線はゆるめない。しかし白羽は肩を竦めるだけだった。
「だってもう僕中三だよ? ずっと小さい頃ならまだしも、この年齢でちゃんづけはきついよ」
「つい二年前までそう呼んでたくせに」
「呼ぶと澪が怒ったんじゃないか」
何げない言葉に、澪は小さく息を呑んだ。懐かしいじゃれ合いのような会話にごまかされていた空気が、すっと元に戻る。
白羽はそれに気づかぬように微笑んで、しかし先ほどよりもっと昏い瞳を向けてきた。
「中一の頃、僕が学校で『澪ちゃん』って呼ぶとすごく怒ったよね。恥ずかしいからやめろって」
「……そうだった?」
「うん。忘れちゃった?」
ぎりぎりと締めつけてくる指が痛い。皮膚に食いこむようなその強さに、澪は唇を噛み締めた。
「忘れてない、わ」
この二年間、忘れたふりをしていた。蓋をして、目を背けて、そのままなかったことにしてしまいたかった。
そんな浅はかな思いさえ見透かされているようだった。
「なら、『澪』って呼んでもいいでしょ?」
表情だけは昔のままで白羽が顔を覗きこんでくる。とっさに後ろへ退きかけた体を、きつく掴んでくる手が引き止めた。
澪は眉間の皺を更に増やして従弟を見上げた。
「――好きにすれば」
挑発的な返事に白羽は目を細めた。一瞬浮かんだ彼の表情に、澪の背筋を寒気が走り抜ける。
それは、恐怖、だった。
「……じゃあそうするね」
白羽の笑みはどこまでも優しく穏やかだ。だからこそ、澪は刹那のおそろしさを拭えない。
「ああ、汗かいちゃいそうだ。澪、家に入ろ。部屋に案内するよ」
ゆるりと手を引かれて玄関をくぐる。澪はその手をぐっと握り返し、偽りの笑顔を見据えた。
背後で扉が閉まり、耳を焦がすような蝉の声が途切れた。その音は、もはや二度と開くことのないように重く響いた。