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四年後、はじまりの春

 肩まで伸びた髪を揺らす風は、ひどく優しかった。

 頬に流れたひと筋を耳まで掻き上げ、澪は晴れ渡った春の空に目を細めた。清々しい光に満ちた、はじまりの季節を祝福するかのような青空だ。

「おーい、忘れモン」

「え?」

 振り向いた途端、小さい何かが目の前に飛んできた。慌てて受け止めたのは、買い替えたばかりの携帯電話だった。

「ちょっと順兄、落ちたらどうしてくれんのよ。まだ新品なんだからね!」

「忘れたおまえが悪いんだろうが」

 愛車の屋根に腕を乗せた順一は、呆れ顔で妹を睨んだ。三年前に大学を卒業し、今は食品メーカーのサラリーマンとして働いている。ブルーグレーのスーツをきっちりと着こなしている様は、なかなか社会人が板についていた。

「はいはい、そうですね。わざわざありがとうございました!」

「かっわいくねー……」

 兄のぼやきに、澪はつんと澄まして舌を見せた。

 ――あの夏から、四年の月日が流れた。

 澪は高校を卒業後、県内の公立大学に進学した。地元から通うには不便な距離にあったため、学生向けのアパートでひとり暮らしをしている。この四月で無事に三回生へ進むことができた。

 すでに二十歳を過ぎた彼女を、少女と呼ぶのはもはや難しかった。高校生の頃までボブカットに切り揃えていた髪を長く伸ばし、うっすらと化粧を施した顔に幼い面影は見当たらない。小花柄のスカートからすんなりと伸びた足は、華奢なパンプスに慎ましく収まっている。

 春休みを終え、今日は新学年最初のオリエンテーションが行われる予定だった。澪は昨日まで帰省していたのだが、順一が出勤がてら大学の近くまで送ってくれたのだ。

 澪は舌を引っこめると、いたずらっぽく笑った。

「嘘ですよー。優しいお兄様のおかげで電車代を節約できて、たいへん感謝しております」

「うむ、わかっていればよろしい」

 仰々しく頷いた順一は、ちらりと腕時計を確認した。

「さてと、そろそろ行くか。正門まで送らなくていいんだな?」

「うん、きっと混み合ってるだろうからここで平気。じゃあ、いってきます」

「おう、気をつけてな」

 軽く手を振って歩き出そうとした澪を、「あっ」という唐突な声が引き留めた。

「なに?」

「あ、いやー……」

 順一は言葉を濁らせた。思わず眉間に皺を寄せると、困ったような顔で訊いてくる。

「おまえってカレシとか……つき合ってるやつっていないんだよな?」

「はぁ? 急に何よ」

「いや、な。大学に入って三年も経つのに、そういう話を聞いたことねぇなーって」

「いたら順兄に送ってもらうわけないじゃん」

 いったい何が言いたいのかという妹の胡乱げな視線に、順一は苦笑した。

「……すまん、なんでもない。ほら、早く行ってこい。遅刻するぞ」

 澪は釈然としないながらも「じゃあね」と応えた。ぐずぐすしていると本当に遅れてしまう。

 兄と別れ、澪は大学を目指して歩きはじめた。

 彼女の通う大学は高台の上に建っており、構内に入るためには長い坂をのぼらなければならなかった。しかし傾斜がゆるやかなのでそれほど苦ではなく、何より今の季節は時間をかけて歩くべきだとだれもが思うだろう。

 ――それはまさに、薄紅色のトンネルだった。

 道の両側に伸びる桜並木が満開を迎え、あたりは桜色の雲に包みこまれていた。明るい陽射しのなか、やわらかな風にはらはらと花びらが舞う光景は、美しい夢を見ているようだ。

 澪はほうっとため息をついた。

 なんてあたたかく、幸せな情景なのだろうか。呼吸するたびに胸の奥から花の色に染まってしまいそうだ。

 何げなく差し出した掌に、ひらりと一枚の花びらが落ちてくる。澪はそっとそれを握りしめ、胸に引き寄せた。

 瞳を閉じれば、今でも簡単に思い出せる。七年前の凍てつく春の雨、そのなかで抱きしめた少年の細い背中を。

 ――どうして、忘れられるだろう。

 あれから三度の夏がめぐり、澪が白羽と再会することはなかった。会いにいくことはもちろん、手紙を出すことも自分に許さなかった。ときどき母から伝えられる彼の近況に耳を澄ませながら、それでも前だけを向き続けた。

 叔父とはじめて大喧嘩したこと。それから少しずつ会話が増え、ともに食卓を囲むようになったこと。高校に進んでからは部活動に入り、友達と夜遅くまで遊んで帰ってくることがあったこと。代わりに叔父がときどき料理をするようになり、息子から駄目出しばかりされていること。だが文句を言いながらも、決して父の手料理を残さず平らげること。

 見守ることも、寄り添うこともできなかったけれど、それでも心は白羽を想い続けていた。四年間、一度たりとも消えることなどありはしなかった。

 恋情を断ち切れないことに苦しんだこともある。痛みも涙も、まだ憶えている。だが、彼が確かに自分の道を歩いているということは、いつしか澪にとってかけがえのない励ましになっていた。

 ともに進むことはできなくても、同じ未来という夢を見ているのだと思えば、負けてなんていられないと力が湧いてきた。白羽の存在が、何度立ち止まった背を押してくれただろう。

 澪はたったひとつだけ、自分にわがままを許した。報われることも届くこともない、だからこそ甘く幸福な片想いを。

 もしかしたら、自分は死ぬまで白羽に恋しているのかもしれない。それも悪くない、なんて今では思う。

 たとえこの先、他のだれかを好きになったとしても――胸を焦がしたあの夏を忘れない。最初で最後の、初恋の日々を。

 ずっと特別で、大切で、大好きなひと。

 不意に、ざあっと風が桜並木を駆け抜けた。

 澪は息を呑んだ。

 散らされた花びらが大きく舞い上がり、薄紅色の雨となって一面に降り注いだ。冷たい悲しみの涙ではない。幾百幾千の、喜びの歌声だ。

 ――坂の上から、こちらに向かって歩いてくるひとがいる。

 花の雨に打たれながら、ゆっくりと、まっすぐに、澪の許へ。

 魅入られたように、澪は視線を逸らすことができなかった。

 カジュアルな長袖のTシャツとダメージジーンズに包んだ、すらりとした長身。春の光が、やわらかな髪を明るい栗色に、澪を見つめる瞳を琥珀色に輝かせていた。白い美貌から少女めいた儚さはすっかり拭い去られ、優しげで涼やかな目元に父親の面影を覗かせている。

「――久しぶり」

 やはり叔父によく似た低い声に、澪は唇を震わせた。

「し、ら……は?」

 もはや少年ではない、青年――白羽は、そっと微笑んだ。

「うん、僕だよ。……澪ちゃん」

「どう、して……」

「さっき、順兄ちゃんからメール貰ったんだ。澪ちゃんが来たから迎えにいってやってくれって」

「ちょ、ちょっと待って。順兄からってどういうこと? だいたいなんであんたがここにいるの!?」

 目の前にいるのが従弟だとわかり、澪はいっそう激しく動揺した。思わず食ってかかると、白羽は長い睫毛を瞬かせた。

「……もしかして、聞いてない?」

「だから何をよ!」

「僕、この大学に通うことになったんだよ」

 澪は目玉がこぼれ落ちるかと思った。

「澪ちゃんと学部は違うけど、部屋を借りたアパートは一緒。どうせなら澪ちゃんの部屋で暮らせばいいって伯母さんが言ってくれたんだけど、さすがに遠慮したよ。いろいろまずいしね」

 苦笑して白羽が語ったのは、とんでもない内容だった。

「あれは信頼されてるっていうよりも、完全に澪ちゃんの弟扱いなんだろうね。まあ、だから四年前だってほぼふたり暮らしさせたんだろうし」

 言葉を失って青ざめている澪に気づき、彼はふと口をつぐんだ。

「…………ずっと考えてた。何がいけなかったのか、どうして僕は澪ちゃんを失ったのか」

 今すぐ背を向けて逃げ出すべきなのに、澪は一歩も動けなかった。彼女の心臓を射抜く白羽の瞳は、あの頃よりも深い色を湛え、だが遥かに澄みきっていた。

「お母さんがいなくなって、僕はこの世でひとりぼっちになったと思った。寂しくて、怖くて……だからそばにいるって言ってくれた澪ちゃんを、なんとしてもつなぎ止めたかった」

 白羽はふっとほろ苦い笑みをこぼした。

「それが澪ちゃんを傷つけるかもしれないなんて、少しも思いつかなかった。自分を守ることばっかりで……どうしようもないくらい、子どもだったんだね」

 不意に白羽の手が伸びて髪に触れた。びくりと肩を揺らした澪を、白羽は切なく見つめる。

「最後の日、澪ちゃんがお父さんに言ってくれたこと……全部聞いてたよ」

「……え?」

 白羽の指先がひとひらの花びらをつまみ上げた。彼は澪の手を優しく取ると、握ったままの掌を開かせてそこに加えた。

「そのとき、わかったんだ。僕はなんて馬鹿なんだろうって」

 目を見開く澪に、白羽は笑った。穏やかな春の光によく似た――澪がいっとう好きな笑み。

「僕はひとりなんかじゃなかった。いつだってきみがいてくれた。僕の手を引っ張って、守ってくれた。縛りつける必要なんてなかった。身代わりなんて、いらなかったんだ」

 青年の大きな手がためらいがちに頬を撫でる。澪は震えそうな双眸で、じっと白羽を見上げた。

「だって、きみは身代わりになんかならなかった。僕は澪ちゃんだったから、そばにいてほしいって思ったんだ。だれでもない――僕を見つけてくれたきみに」

 みるみるうちに膨れ上がった熱が弾け、澪の頬を伝い落ちていく。白羽の指が、その跡をそっと拭い取った。

「ううん……僕が、きみのそばにいたかったんだ」

 白羽は押し殺したような声でささやいた。

「だから、追いかけようって思った。必ず追いついて、謝って、きみに許してほしかった」

 澪ちゃん、と白羽が呼ぶ。

 子どもの頃のように、しかし火の粉のような烈しさを秘めた熱情をこめて。

「僕の周りには、お父さんも、順兄ちゃんも伯父さんも伯母さんも、友達も、たくさんのひとがそばにいてくれる。だけど僕が一番そばにいたいのは……きみなんだ」

「なんで……今更、あたしに許してほしいの?」

 しゃくり上げながら、澪は白羽を睨みつけた。

「あたしはもうあんたを甘やかすなんてまっぴらよ。優しいお守りが欲しいなら、違う女のところに行って」

「違う!」

 白羽は激しい声を上げた

「そりゃ甘ったれだけど、僕だって男なんだ。好きな女の子に頼るんじゃなくて、頼られたいって思うよ!」

「……え?」

 ぽかんと目を見開く澪の前で、白羽は悔しそうに頬を赤らめて顔を背けた。

「自分の馬鹿さ加減がようやくわかったあと、どれだけ恥ずかしかったと思う? いくら年上だからって、僕より小さな女の子に、赤ん坊みたいにべったり張りついてたんだから」

 澪はまじまじと白羽の横顔を眺めた。あの甘えん坊を絵に描いたような弟分が、男のプライドを語る日が来るなんて。

 ――白羽は、こんなに大きかっただろうか。

「……馬鹿ね」

 澪は泣き笑うように苦笑した。

「あたしは別に、あんたに守ってほしいなんて思ってないわよ」

「……わかってるよ。僕が勝手に思ってるだけ」

 白羽は頬を紅潮させたまま、きっぱりと言った。

「だけど、他のやつに譲るなんていやだ。弟なんかじゃない、男としてきみに見てほしい」

「遅いわよ。どれだけ経ったと思ってるの? 四年よ、四年。惚れられた強みだなんて胡座かいてんじゃないわよ!」

「中途半端なまま会いたくなかったんだ。ちゃんと高校を卒業して、進路も決めて……胸を張って、澪ちゃんに会いたかった」

 たくましい腕に引き寄せられる。四年ぶりの抱擁はぬくもりに満ちて、息が詰まりそうなほど幸福だった。

「いっぱい泣かせてごめん。あのときは答えられなかったけど、今なら言える」

 澪は堅い男の胸に頬を寄せた。そっと背に手を回すと、白羽はいっそう腕に力をこめた。

「きみが好きだよ。……、澪」

 風が吹くたび、雨が降る。

 春の、優しい花の雨が、ふたりの上に降り注ぐ。

「……あたしも」

 心から微笑んで、澪はささやいた。

「あたしも――ずっと、ずっと、大好きだった」

 ふと、舞い散る花びらの向こうに、手をつないだ少年と少女の後ろ姿が見えた。

 ふたりはこちらを振り向くと、夏の太陽のような笑顔をいっぱいに広げた。気の強そうな、小柄な少女が手を引くと、彼女より背の高い少年は、美しい顔をいっそう綻ばせて頷いた。

 そして裸足のまま、白い光のなかを楽しそうに駆けていく。

 とっさに澪はふたりを呼び止めようとして、ああそうか、と小さく笑った。

 ――今度こそ、本当に、さようなら。

「……どうしたの?」

 不思議そうに顔を覗きこんでくる白羽に、澪は笑んだまま首を横に振った。

「なんでもない。……って、そうだ、オリエンテーション!」

「へ? ……ああっ!」

「もう、やだやだ、完全に遅刻じゃない! あんたのせいよ!」

 慌てて時刻を確認すれば、すっかり開始時間を過ぎている。悲鳴を上げる澪の手を、さっと白羽がさらった。

「走ろう、澪ちゃん」

「え、ちょっと……白羽ってば!」

 降りしきる桜色の雨のなか、ふたりは勢いよく走り出した。変わらぬ約束のようにしっかりと手をつないで。違うのは、白羽が澪の手を引いているということ。

 永遠を願ったピーター・パンはもういない。だが、白羽がここにいる。それだけで、澪は充分だった。

 いつしかふたりは笑っていた。心の底から、笑っていた。

 ネバーランドに別れを告げて、限りない未来へと続く道をまっすぐ駆けていった。

Special thanks


すう様

いちお様

お気に入り登録してくださった方々、評価してくださった方々、最後までおつき合いくださった方々、本当にありがとうございました!


Image song


AJISAI『ハロー』

ベン・E・キング『スタンド・バイ・ミー』

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