三十日目、晩夏
最後の日の空は、泣きたくなるほど青かった。
過ぎゆく夏を惜しむように降り注ぐ蝉時雨がアスファルトの熱に溶けていく。ぬるい風が泳ぐ街路樹の木陰に佇み、澪はぼんやりとその残響を聞いていた。
高本家の門前には、兄の愛車であるライトグレーのワンボックスカーが停まっている。そのトランクにはすでに澪の荷物が積みこまれ、あとは発車を待つばかりだった。
当の運転手である順一は、門を挟んで廣世に挨拶をしていた。わざわざ見送りのために半日休暇を取ったという叔父に、兄が申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、お忙しいのに休んでもらっちゃって」
「いいや、澪ちゃんには白羽がとてもお世話になったんだ。こちらがお礼を言いたいくらいだよ」
眠たげな目元をゆるめ、廣世は淡く微笑んだ。順一はちらりとこちらを見たが、何も言わずに明るい笑みを返した。
「白羽の『お姉ちゃんっ子』は今でも健在みたいですね。俺としてはちょっと淋しいですけど」
「すまないね……今日も声をかけたんだけど、どうしても見送りをしたくないと言って部屋から出てこないんだ」
廣世は困ったように眉尻を下げ、閉ざされたままの玄関のドアを振り返った。
「よほど澪ちゃんと離れるのが堪えているんだろう。……あの子がこんなわがままを見せるのは、本当に久しぶりだ」
順一はがりがりと頭を掻くと、不意に澪を振り向いた。
「――澪」
澪は反射的に兄を睨んだ。しかし妹の視線など気にもせず、順一はちょいちょいと手招きをくり返す。
「ほら、ちゃんと叔父さんに挨拶しろよ」
そう言われてしまえば従うしかない。澪は渋々木陰から出ると、兄の少し後ろまで近づいた。
門の向こうで、廣世は優しい笑みを浮かべている。こうしてみると、白羽の浮かべる儚い表情は父親によく似ていた。
「……お世話になりました」
なんと言えばいいのかわからず、ようやく絞り出したのは味気ない感謝の言葉だった。順一が呆れたような顔をするのが見え、慌てて頭を下げる。
「ホントにありがとうございました!」
「こちらこそ、白羽のそばにいてくれてありがとう。おかげで、あの子の笑った顔をまた見ることができたよ」
澪は小さく息を呑み、がばりと顔を上げた。
「叔父さん……あの、お願いがあるんです」
「なんだい?」
汗ばむ掌をぐっと握りこみ、澪は廣世を見据えた。
――ずっと、考えていたことがある。
白羽が求めていたのは寂しさを埋めてくれる、あたたかく優しい『母親』だ。その役割を拒んだ自分に手を差しのべる資格はない。だが、廣世なら――紛れもない白羽の父親である彼なら、まだ間に合うのではないか。
たったひとり残された息子を、廣世はちゃんと想っている。あまりにも不器用で、臆病で、愛情の示し方を知らないだけで。
もうあり合わせの代役で隙間を埋めることはできない。だからこそ、ふたりにはきちんと向き直ってほしかった。
ふたりを心から愛していた紗夜子のために。何より、ふたりがともに生きる家族であるために。
「白羽と一緒にご飯を食べてあげてください」
廣世の目が大きく見開かれる。
「白羽の料理は、ホントにおいしいんです。きっと叔母さんが死んじゃってから、何度も何度も練習したんだと思います。叔父さんが安心して仕事に行けるように……ひとりでも大丈夫だよって、言えるように」
うるさいほどの蝉の声が遠くなる。体の底から、胸の奥から、波濤のような感情が沸き起こり、視界が熱く濡れていく。
(ねぇ、白羽。あたし、あんたが好きなの。本当に大好きなの。憎たらしくて、めちゃくちゃに壊してやりたいほど大っ嫌いで、だけどやっぱり大好きなのよ)
もう欲しがらない。自分のものにしたいなんて望まない。だから、どうか――幸せになってほしい。
澪はもう守ってあげられない。叔母の紗夜子もいない。けれど、白羽を愛してくれるひとは必ずいる。ここに、確かにいるのだ。
どうか気づいて、奇跡のようなこの事実に。
「でもホントは、叔父さんにおいしいって言ってもらいたくて頑張ったんだと思うんです。だから……だからっ」
最後は声にならなかった。
しゃくり上げそうになり、澪は深く俯いた。唇を噛み締めて嗚咽を堪えていると、ぽつりと呟きが落ちた。
「……僕は、まだあの子に必要とされているのかな」
澪はぐいっと目元を拭うと、廣世を見上げた。
途方に暮れたようなまなざしに、精いっぱいの笑顔で頷いてみせる。
「――はい」
廣世は小さく息を吸いこむと、静かに目を伏せた。
「ありがとう」
その声を聞いて、澪は心から安堵した。
ああ、きっと大丈夫だ。
「……そろそろ行くか?」
黙ってやりとりを見守っていた順一が尋ねてくる。澪はこくんと頷いた。
「お義兄さんたちによろしく伝えてくれ。様子が落ち着いたら、こちらからお見舞いに伺うよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、また」
「気をつけて」
もう一度叔父に頭を下げ、兄妹は車に乗りこんだ。澪がシートベルトを締めたことを確認し、順一はエンジンを入れた。
車窓の向こうで廣世が手を振っている。澪がそれに応えると、ゆっくりとワンボックスカーは走り出した。
徐々に廣世の姿が遠ざかっていく。やがて高本家が見えなくなったとき――澪は手を止めた。
「うそ……」
思わず助手席から後ろに身を乗り出す。運転席の順一が驚いたように目を丸くした。
「どうした?」
高本家が景色に紛れる寸前、玄関から飛び出してくる人影が見えたのだ。澪は夢中で目を凝らした。
順一はバックミラーを見やり、「おい、あれ!」と声を上げた。
澪は大きく息を吸いこんだ。
夏の陽射しに白く灼けた道のずっと奥に、自転車に乗って追いかけてくる少年が見えた。サドルから腰を浮かせ、全力でペダルを漕いでいる。
「白羽……」
(どうして追いかけてくるの。あたしの声は、もう届かないはずなのに)
「まったく、あいつは……」
順一は呆れたように呟いた。ゆるゆると落ちはじめたスピードに、澪はとっさに叫んだ。
「止まらないで!」
「澪?」
「お願い、止まらないで。このまま走り続けて」
「だって、おまえ……」
困惑した様子で順一はバックミラー越しに従弟を見た。白羽は肩で息をしながら、それでも距離を縮めようとしていた。
澪は兄の腕に縋り、必死に訴えた。
「あたしはもう、白羽に何もしてあげられない。しちゃいけないの。だからこのまま行って……お願い、順兄」
順一はしばらく口をつぐんでいたが、厳しい声で尋ねてきた。
「おまえはそれでいいんだな? 白羽に何も言わないまま、どう思われようが、これっきりでかまわないんだな?」
澪は目を閉じた。
たとえ、二度と会えなくても。嫌われ、憎まれ、何より焦がれた透きとおるような美しい笑みを目にすることができなくても。
「……うん」
ただ、小さく頷いた。
「それでもいい。それで、いいの。あたしは――もう白羽の『お姉ちゃん』には戻れないから」
夢から覚めたウェンディは、決してネバーランドを振り返ってはならない。永遠の少年を思い出に変えて、大人にならなければならないのだ。
無言のまま、順一は強くアクセルを踏みこんだ。エンジンが唸りを上げ、子ども時代の最後の夏が遠く過ぎ去っていく。
澪は耐えきれず、とうとう両手で顔を覆った。
本当に、本当に、好きだったのだ。もう二度と恋なんてできないと思うほどに。
あとからあとから溢れる想いに声を振り絞り、澪は泣いた。言葉にならない嗚咽で叫び続けた。
(大好きだよ。――ばいばい、白羽)




