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二十七日目、だれも知らない恋の終わり

 コンコン、とぎこちなくドアが叩かれた。

 薄手のタオルケットにくるまり、ベッドの上にうずくまった澪は、背中でその小さなノック音を聞いた。薄暗い部屋の中、じっと息を詰める。

 ドアの向こうに立つ気配は、まるでこちらの様子を窺っているように動かない。薄氷の上を歩くような緊張がぴんと走り、澪は心臓が固く縮こまるほどの息苦しさを覚えた。

 落胆のような、安堵のようなため息がひとつ。

 気配は静かな足音を立てて一階へと下りていった。ダイニングのドアが閉まる音を聞き、澪はようやく全身の力を抜いた。

 ベッドの隅に放り投げていた携帯電話の画面を開くと、時刻は十二時のサイレンが鳴ってから三十分が過ぎようとしていた。時刻を確認した途端に虚しい空腹感がこみ上げてきたが、澪はそれを無視して頭まですっぽりとタオルケットを被った。

 ダイニングでは、白羽がひとりきりの昼食を摂りはじめているはずだ。澪の分の食事が冷めていく傍らで黙って箸を動かす白羽の姿が思い浮かび、氷の棘が冷たく胸の奥を刺した。それでも、澪にはこの部屋から出ていく勇気はなかった。

 どんな顔をして白羽の前に立てばいいのか、わからない。

 花火大会の夜を境に、ふたりの日々は一変した。言葉を交わすどころか顔を合わせることもほとんどなくなった。食事の時間でさえも、白羽が先に食べ終えて部屋に戻るのを確認してから、ようやく澪がダイニングに入る。同じ屋根の下で生活していながら、もはやともに暮らしているとはいえなかった。

 澪は徹底的に白羽を避けていたし、白羽もまた、彼女の拒絶を受け容れて近づいてこようとはしなかった。ガラスのように透明で、しかし決して砕けない硬質な膜がふたりを隔ててしまっていた。

 今度こそ本当に、澪は白羽を再び戻れぬ場所へ置き去りにしてしまった。

 こうするしかないのだ、もう何もできないのだと、幾度も自分に言い聞かせた。手を差しのべることも、抱き締めることも、白羽の偽りを暴いた澪に許されるはずがないのだから。

 最初から、触れてはいけないひとだったのだ。

「……っ」

 喉がひくりと震え、澪は血が滲むほど強く唇を噛みしめた。

 ――どうして好きになってしまったのだろう。

 想えば想うほど苦痛だけが募る。叶うことも報われることもないとわかっているからこそ、はじめての恋は残酷すぎた。

 固く閉じた瞼の下からこぼれ落ちた涙に堪えきれなくなり、澪はとうとうしゃくり上げた。

 好きにならなければよかった――なんて。

 心のどこかで後悔している自分が情けなく、無性に悲しかった。ついには涙の海に溺れて溶けてしまうのではないかというほどに、泣いた。

 やがて泣き疲れた澪は、そのまま泥沼に沈むように眠りに落ちた。ふっと目が覚めると、闇はいっそう濃さを増していた。

 瞼の上が火傷をしたように熱い。そのままぼうっと放心していると、くぐもったバイブレーションが意識を引き戻した。

 振動に合わせて明滅するケミカルカラーの光を頼りに、ぶるぶると着信を訴える携帯電話を引き寄せる。画面を開くと、見慣れた電話番号と『鈴岡すずおか順一』という名前が表示された。

「……もしもし」

 ボタンを押して電話に出ると、ひと月ぶりに聞く声が耳元で笑った。

《おいおい、ひっでぇ声だなぁ。夏風邪でも引いたのか?》

「……順兄」

《そーですよー、澪ちゃんのカッコいいお兄ちゃんの順一くんですよー。一ヶ月ぶりかぁ、元気にしてたか?》

 屈託のない兄の口調に、虚脱感にも似た安堵がどっと押し寄せてきた。

「じゅ、にい……っ」

 ぐしゃりと顔を歪ませ、澪は携帯電話を握り締めた。すすり泣く妹の声に気づいたのか、順一が小さく息を呑んだ。

《おい、澪?》

「順兄、どうしよ……あたし、あたしっ」

 ぼろぼろと涙とともに溢れ落ちるのは、何にかまうことなく縋りついて泣きじゃくりたい、子どもじみた焦燥だった。この家の中で自分がどれほど神経を張り詰めさせていたのか、澪はようやく思い知った。

「あたし、白羽が……白羽に……」

《白羽? 白羽がどうした。――あいつに、何かされたのか?》

 不穏げに声を低める順一に、澪は見えるはずがないというのに激しく頭を振った。

「ちが、違うの! あたしが、白羽を、傷つけちゃったの……っ」

 本当に子どもに戻ったように声が震える。

「もうやだ、もうやだよ。あたし、もうここにいたくない」

《澪――落ち着け、澪。大丈夫、わかったから》

 順一は優しく妹をなだめ、微かなため息に声を揺らした。

《……あのな、澪。今日電話したのは、もうすぐ親父の退院の目処がつきそうからなんだ》

「え……?」

《おふくろから連絡があって、あと二、三日のうちに退院できるらしいんだ。そうしたら、おまえも一緒に家に帰ってこいっていうんだよ》

 澪は泣き腫らした目を瞠り、言葉を失った。

《さっき、廣世さんには伝えたんだ。ちょうど俺もバイトが終わるから、帰る途中でおまえを迎えにいくよ。そうだな……たぶん、明明後日になると思う》

 明明後日――三日後。三日後にすべてが終わる。

《だからそれまで――兄ちゃんが行くまで、待ってられるか?》

 幼い頃のような問いかけに、澪はこくんと喉を鳴らした。

 ……ああ。

 なんて、あっけない。

 どこまでも澪を打ちのめした初恋は、こんなにも脆く、単純なものだったのだ。

「…………うん」

 最後に頬を流れ落ちた雫は、ひどく冷たかった。

「待ってる」

 澪の応えに、順一は「ん」とだけ小さく笑って頷いた。収まりきらない妹の気持ちを見抜いて何も言わない労りが胸に沁みた。

《じゃあ、荷物まとめておけよ。詳しいことが決まったら、また電話するから》

「うん」

《無理しないで、おとなしくしてるんだぞ》

「うん。……順兄」

《うん?》

「……なんでもない」

 生乾きの頬でなんとか笑って、澪は電話を切った。途端、掌から携帯電話が転がり落ちる。

 ぐったりとベッドに打ち伏した澪は、ひりひりと疼く瞼を下ろした。

 この恋は澪自身ですら知らぬうちにはじまって、そして終わっていく。さんざん振り回され、傷つけられたというのに、澪は何ひとつ得られなかった。最初から最後まで、彼女はどうしようもなく子どもだった。

 淡雪のように消えていく初恋の終わりを、澪はひっそりと苦い涙の味とともに噛み締めた。

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