三年前、春の雨
※本作には、特定の登場人物に対して精神的な苦痛を強いる描写がございます。苦手な方はご注意ください。また、この物語はフィクションであり、実在の人物・実際の事件等とは一切関係ありません。
まだ深まりきらぬ春の雨は冷たかった。
白く濁った吐息に澪は首を竦めた。顎のあたりで切り揃えたばかりの短い髪が剥き出しの項を撫でる。濃紺のセーラー服は、今の季節にマフラーも巻かず外にいるには向かなかった。
「まったく、いやな雨ねぇ」
隣に並んだ遠縁のおばが、傘の内側から曇天を見上げて呟く。近くにいた年嵩のおばが「本当にねぇ」と頷いた。
「寒いったらありゃしない。余計湿っぽいお葬式になっちゃうわよ」
「紗夜ちゃん、まだ若かったのにねぇ。事故だったんですって?」
「居眠り運転のトラックに突っこまれたらしいわよ。即死だったって」
「血まみれで頭が潰れてたっていうじゃない。あんなにきれいな子だったのに」
「息子さん、小学校を卒業したばっかりなんでしょ? 白羽くんだったかしら」
「まだまだこれから大きくなるのを見たかったでしょうに。かわいそうにねぇ……」
その言葉に、どれだけ真実悲しむ心がこもっているだろうか。雀のおしゃべりのような会話に、澪は顔をしかめた。
「あら、あの子……」
年若いほうのおばが驚いたように声をひそめる。追いかけた視線の先には、黒い学生服姿の少年が傘も差さずに佇んでいた。
色素の薄い髪は水を吸って額に張りつき、真新しい学生服もすっかり濡れそぼっている。俯いた顎の先から雫が滴るのもかまわず、少年はぼんやりと虚ろなまなざしを足元にさまよわせていた。
灰色に煙る薄闇に浮かび上がる白い顔は、もともとの端整さも相俟ってぞっとするほど美しかった。中性的な幼さと人形めいた無表情が、余計に彼を人ではないもののように見せている。
「まあ……」
年嵩のおばが咎めるような声を洩らす。少年へ向けられた目に決して思わしくない色が浮かんでいるのを認め、澪はためらうことなく歩き出した。
ぱしゃりとローファーで水溜まりを蹴れば、おばたちがハッとしてこちらを見る。澪は冷めた一瞥を返し、立ち尽くす少年に近づいた。
「白羽」
名前を呼ばれた従弟は、のろのろと顔を上げた。ずぶ濡れの彼に傘を分けてやりながら、澪は白羽を睨めつけた。
「あんた、何やってんの?」
「……澪ちゃん」
白羽は呆けたように目を瞬かせ、それから力のない笑みを浮かべた。どれだけ雨に打たれていたのか、頬からは血の気が失せ、唇は紫に変色しかけていた。
澪はスカートのポケットからハンカチを取り出すと、濡れた従弟の頬を拭いはじめた。白羽が困ったように「澪ちゃん」とくり返す。
「ハンカチ、濡れちゃうよ」
「あんたに風邪引かれるほうがよっぽど大変よ。叔父さんも、みんな忙しいんだから」
「……ごめん」
わかってるならするんじゃないわよ、という文句は口から出る前に消えた。澪は唇を引き結ぶと、ほぼ同じ高さにある白羽の顔を覗きこんだ。
「しっかりしろなんて言わないわ。あんた、まだ子どもだもん」
「うん……」
「叔父さんも、父さんも母さんも、順兄もいるわ。難しいことは全部、それがわかる大人に任せておけばいいのよ」
「うん」
「あたしもまだ子どもだけど、あんたよりふたつもお姉さんだわ」
「うん」
「だから、みんなが戻ってくるまで――あんたのそばにいるわ」
どこか遠かった白羽の瞳が、ようやく澪を映す。澪は白羽の頭を肩に引き寄せた。
「あたしがそばにいるから……無理なんてするんじゃないわよ」
抱き締めた少年の体は、ひどく冷えきっていた。
白羽はしばらく肩を強張らせていたが、おそるおそる従姉の背に腕を回し、拒まれないと知った途端に全身の力を抜いた。
預けられた重みに思わずよろめく。その拍子に傘を落としてしまったが、澪は動けなかった。
引き絞るような悲しい嗚咽が聞こえてしまったから。
霧雨が冷気を伴ってセーラー服に染みこんでくる。思わず背筋が震えたが、それ以上に肩を濡らす涙が冷たかった。
こみ上げてくる切なさに、澪はそっと目を伏せた。
中学校卒業とともに白羽と別れる、ちょうど一年前のことだった。