第四話 静寂と見上げる月夜
夏祭りの開始に際して、一度各々に祭り支度の為に解散した。その後、学はどこにも行けず、ただ立ちすくんでいた。
「サトルが、あんな事言いだしてからだった。生まれた意味を考えてしまうことが増えて、急に怖くなった。俺にはこの小さな世界の端から端まででも充分に広いと感じてしまうのに、世界の広さと、境界線の向こう側へ旅立つ者に劣等感を感じてしまう。」
生まれた時から、この清条ヶ丘はあった。移り住んできた人たちの顔、どこかへ移り変わっていく人たちの顔、そして、ずっと変わらずそこに居る常磐の人間達。父親は時々しか会いには来ないけどそれでも、学には充分な幸せと、これ以上はないと思って居た世界だった。それがいつしか、自分の身体に合わせて小さくなっているなんて気づきもせずに。
「サトルはあぁ見えて結構賢かったから、昔からこの田舎じゃ狭いと感じる程、大きな夢を見ていた。だから、サトルの事を小さな頃から世話していたのは何も家柄だけの事じゃない。俺自身には越えられない遥か遠くの世界にコイツは行くんだと、行ってほしいと思っていたからこそだった。」
哲はいつも、この世界を見渡して遠くの世界を夢想していた。何事にも縛られず、自由をその手にいつも駆けずり回っていた。哲がいつも知らない世界に飛び込んでくれたから、自分もお目付け役として、未知の境地に足を踏み入れられた。哲を叱る名目で隣町まで遠出した事だって、哲が喧嘩した相手に一緒に謝りに行った帰りのあのラーメンだって、哲がいたからそんな事が知れた。
「でもホントは、こんな田舎臭い所から、どこか遠い所へ行きたいと、そんな幻想を懐いていたのは、サトルだけじゃなかったって事に俺は気が付いてしまった。どこかでは自分も当たり前のように、こんな所から羽ばたいて行くんだとばかり思っていた。そんな幼心を捨てきれないままでサトルの背中を見送っていいのか・・・俺は?」
学は、そうして背中を丸め、頭を抱えてうずくまってしまう。それから、しばらく動けないでいると、その脳裏にふと先程のサトルの背が浮かんだ。そうだ、哲だってこんな自分を見れば、離れ辛くさせてしまう。そうして、首を横に振ると帰路を駆け足で帰っていった。
辺りは鈴虫だけが騒がしく鳴き、遠くの祭りの賑わいに共鳴しているような静寂の中、月を隔てる物が丁度ない畦道に双眼鏡を片手に佇む男の姿があった。この辺りの人間には、到底お目にかかる事の無い程のブランドのスリーピースに、およそフィールドワークには適さぬ卸したての固さを残す革靴を履いた、どこを見てもこの地に初めてやってきた人間と言えるであろうこの人物。そう、彼は昼間にあの三人組が出会った男だ。名を弐十木想児という。
「いやぁ、実に素晴らしい位置だ。これならば、今夜と言っっていた、あの胡散臭い爺を信じてみた甲斐があったというものです。」
双眼鏡を首に掛けると、何やらガチャガチャと音を立ててカバンを漁る弐十木。
騒々しさが止むと、カバンからは出てきたのは、大きな六分儀。弐十木はそれを巧みに操り、月の位置から何かを割り出そうとしていた。
「・・・ふむ、これは大体、あの山の裏手でしょうかね・・・?フフッ」
不敵な笑みで、また大きなカバンを背負って闇に消えていく弐十木。遠くでも徐々に賑わいを見せる祭は、焼きそばのほんのり焦げたソースの匂いがここまで漂ってくるようであった。
その頃、田んぼの側道には、ぶつぶつと愚痴をこぼす哲の姿があった。手には団扇を持っていて、しきりに額を扇いでいた。
「あぁ・・・、暑っちぃなぁ。早く来いよアイツら・・・。」
どうやら、待ち合わせ場所はこの周辺のようで、一人早めに着いた哲は待ち惚けを食らっていた。こういった時、律義に時間が来る前に現れるのが哲という人間だ。次第に落ち着きのなくなっていく哲。と、その背後から影が近づいてくる。
「お待たせ」
蒸し暑い空気に包み込まれていた一帯だったが、その声に哲は心地の良い涼しさを感じた。ふと我に返って振り返ると、そこには普段と変わりない詩織の姿があった。夏祭りだというのに、機能的でそれでいて、どこか気遣いのある格好に、哲はふと疑問を抱いた。
「おう・・・。浴衣じゃねえのに、なんでそんな時間かかったんだよ。」
「フフッ、それはだねぇ~♪」
少し得意げに、その背後で抱えていたビニール袋を掲げた。
「ジャーン、これなーんだ!?」
「おっ、マジか!」
そこには、手持ちの花火セットが入っていた。たしかに、少し前にはそんな話題があったが、その辺りを気遣えるのが詩織なのだ。残念ながら、袋の中をいくら探しても打上花火は見つからなかったが、この花火は間違いなく今までよりも特別になる事だろうと、哲は感じていた。
「打ち上げは、無しか・・・」
「まだ言うかコイツは。」
「聞いてくれよ・・・」
例のごとく、詩織にも言いたい事を先読みされて訝しげな表情の哲。
「あ、あれマナブじゃない?」
「おーい、二人とも」
遠くの方に、学の姿があった。哲も気が付くと大振りに手を振った。若干の小走りで駆け寄った学は「すまん、すまん」と口にして、手に持った買い物袋を差し出した。中身を見るなり二人は「あっ」と吹き出した。
そう、中身は手持ち花火だった。
「単純思考め・・・」
「・・・いいじゃねえか、今日は二倍だよ二倍。」
ちょっと意地悪な笑みを浮かべた詩織に、もはや意地になった学が答えた。こういったやり取りも
また、この三人には日常茶飯なのだ。学にはそういった憎めない部分がある。
一方で哲は、その会話も終わらぬ内から夏祭りへと歩みを進めていた。まだ息が整っていない学は、そこへ少し遅れて後を追いかけていった。ぽつりと残り出遅れた詩織が、一歩踏み出そうとして呟いた。
「本当に、サトルは行っちゃうんだ・・・。」
少しだけ、過去の事を思い出に浸る詩織。
ーあれは多分、五歳の夏だった。ー
清条ヶ丘に越してきたのは、ちょうど夏祭りの日だった。夕暮れの山際が薄らぼんやりと光っていた。その様子を見かけて、見ず知らずの町だったのに引き寄せられるように走っていったのを覚えている。あの時、後ろから両親が追って来ていたように思えたが、詩織は脇目も振らずに走っていった。次第に、お祭りの賑わいに近づくと、そこには既に結構な人混みがあって、さほど広くもない路地の両端で屋台たちが隙間なく並んだせいか、極端に歩道は狭まっていた。人混みも味方して詩織は案の定、迷子になった。
「人の流れに逆らうことも出来ないまま、知らない土地の見知らぬ参道に押し出されて、それで待っとけばいいのに登っちゃったんだよね、五歳の私。」
最初の方は勢いよく登り始めた幼少期の詩織だったが、次第に険しく、深くなっていく道中で心細くなってへたり込んでしまった。その時、「こっちにおいで」と呼ぶ女の声が聞こえた気がして振り向くと、声の方へとゆっくり進んだ。藁にも縋る思いで、草を分け入っていくとそこには近所の少年達がいた。一人はどうやら、境内の中で打ち上げ花火に点火しようとしていて、もう一人がそれを必死に止めている構図だった。お察しの通り、それが後のマナブとサトルである。多分それからあの二人とつるむようになった。あれ以来欠かさずこの夏祭りに来て、それから境内でこっそり三人で花火をして、それがもう彼女たちの当たり前だった。その・・・はずだったのだ・・・。
そんな彼女の当たり前だった時間の終わりは、意外とあっけなくやってきてしまって。いつものように三人で他愛もないことを話しながら、立ち並ぶ出店を横目に境内へと向かっていく。
これが最後なんて本当に信じられないくらい・・・