優希 第五話 さらば愛しのほっぺた
次の日の朝。
学校に着いても、俺の頭の中は小日向さんのほっぺたのことでいっぱいだった、
さすがに昨日はやりすぎたという罪悪感と、それでもまだ足りないという欲望が脳内でぶつかり続けている。そして、今日の放課後自分は何をしてしまうのだろうという恐怖のような感覚と、どこまで癒しを得られるのだろうというスリルにも似た感覚も生まれてきている。
あのほっぺたに囚われてからわずか数日で、俺はおかしくなってしまった。魔性の癒しとでも言うべきか。癒しでありながら狂気的に人の心を奪う恐ろしい存在、それがあのほっぺたなのだ。
昨日鞄につけたぬいぐるみは家に置いてきてしまった。もはやあの程度では無意味だと分かった以上、周囲に誤解を生むアイテムをつけていても仕方がない。今の俺にとって、並みの癒しでは癒しにならないのだ。
俺が教室に入ってしばらくすると、小日向さんが登校してきた。彼女はいつも通り友人に挨拶をしながら席へと向かっていく。俺は無意識のうちに彼女を目で追ってしまっていた。そのせいか一瞬、彼女と目が合ってしまった。
「おはよう、七海君。どうかした?」
「お、おはよう、小日向さん。いや、なんでもないよ」
「そう?ならいいけど」
不意に挨拶されたので思わず動揺してしまった。心臓がおかしいほどに脈打っている。本人と会話をすることで自分がやったことに対する罪悪感が一気に膨れ上がってきた。
小日向さんは俺のことを特に気にしている様子でもなく、いつも通り席で眠り始めた。
俺を警戒しているような素振りも無さそうなので、バレているというわけでは無い、と思う。大丈夫だ。昨日のように正気を失わず、引き際を弁えれば問題は無いはずだ。
とはいえ、挨拶しただけで動揺しているようではいくらなんでも怪しまれてしまう。普段は平常心を保って接するよう心掛けなければならない。とりあえず今は、深呼吸をして意識を落ち着かせようとした。
しかし、朝のホームルームの時間になっても心臓はうるさく脈打っていた。
放課後。
今日もこの時間が来た。
教室から人がいなくなるまで時間をつぶし、教室へと戻る。
夕暮れの教室に、小日向さんは一人眠っている。
俺はゆっくりと教室の扉を開き、中へと入っていく。心臓は再びうるさく鳴り響いていた。そのうるささで小日向さんが目を覚ますのではないかと言うほどに。
小日向さんの横に立って深呼吸をする。心臓の音は治まらない。このまま指先でほっぺたに触れたら、鼓動が伝わってしまうのではないかと思うほど、跳ね続けている。
だとしても、それは目の前の魔性の癒しを諦めるには足らないことだった。俺はいつも通りほっぺたへと指を押し込んだ。
むにむに。
ああ、心地良い。何物にも代えられない癒しがここにある。この放課後が一生続けばいいと思うほど、俺はこの瞬間の虜になっていた。
指先を回すようにしてほっぺたの感触を楽しむ。何度触れてもこれ以上のものは無いと思えるその感触に、心から浸っていた。何故これほど心地いいのか、そんなことは俺には分からないし、分かったところで意味は無い。大切なのは、今目の前にこの癒しが存在していて、それを俺が享受しているということだけだ。それ以上考える必要なんてない。
癒しに包まれ朦朧とする意識の中、指先の動きが激しくなっていく。それに呼応するように、もっと、もっとと心臓が跳ねる。
思うがままにほっぺたを弄り続ける。今朝抱いていた罪悪感も恐怖心も、どこかへ消え去っていた。今残っているのは純粋な欲望のみだ。
歯止めの効かない欲望は前へ前へと進み続ける。もうこの欲望は誰にも、何にも止められなかった。
そう、止められなかったのだ。いつの間にか彼女の瞼が開いている事に気付いても。
「えーっと、これは......」
咄嗟のことに頭が真っ白になり、言い訳も出てこない。終わった。さよなら俺の人生。さよなら俺の癒し。
「とりあえず、指を離してもらってもいいかな?」
「あっ」
小日向さんに言われて、ほっぺたをつついたままだった指を急いで離す。
彼女の眼は半開きでこちらを見続けている。それが寝起きだからなのか、嫌悪感からなのかは分からないが、どちらにせよ俺にそんなことを考える必要はない。今するべきは全力の謝罪だ。せめて事を大きくされてしまわないよう必死に許しを請うしかない。
「小日向さんごめんなさい!これはその、魔が差したというか、決して睡眠を邪魔しようとかそういう嫌がらせではなくて!」
全力で頭を下げると、小日向さんがあきれたような声色で質問をしてきた。
「やったことは別にいいんだけど、どうせ私何されても起きないし。むしろその、魔が差したっていうのは何なの?」
「ええと、それは」
言っていいものなのだろうか。「あなたのほっぺたで癒しを満喫していました!」なんて正直に言ったところでドン引きされるだろう。かといって他にほっぺたを触る正当な言い訳などあるわけがない。ここは正直に言おう。
「小日向さんのほっぺたがすごくやわらかそうだったから、つついてしまいました」
「ふーん」
下げたままの頭上からなんとも言えない返答が帰ってくる。
ん?待てよ、さっき小日向さんはなんて言った?「どうせ私何されても起きないし」?ならばどうして今起きているんだ?
「あの、小日向さん。つかぬことをお聞きしますが、いつから起きていましたか?」
顔色を窺うために顔をあげながら、たどたどしい敬語で質問すると、小日向さんは眉間に少ししわを寄せながら答えた。
「最初から。というか、一昨日からかな」
「あ」
終わった。というより始めから終わっていた。