桜 第三話(裏) 吹っ切れ少年と腫れたほっぺた
次の日。
七海君が可愛らしいぬいぐるみを鞄にぶら下げていた。
もともと可愛い物が好きだということは普段の行動から分かっていたが、遂に吹っ切れたのだろうか。
だとしたらそのきっかけは、昨日の出来事なのだろう。
私のほっぺたをつついて、何も言わずに立ち去っていった昨日の放課後。あの出来事は七海君にとって何か意味のあることだったのかもしれない。私にとっては混乱を残しただけだったが。
あの出来事によって七海君の心境が変化したのか、もしくは心境が変化したからあの出来事が起きたのか。どちらにせよ、今の私は何の事情も分からない被害者に過ぎない。被害、というほどのことでもないかもしれないが。
言ってしまえば、たかが数回ほっぺたをつつかれたというだけのことだ。怒っているわけでもなければ、大きな問題があるわけでもない。年頃の乙女としては、寝込みを襲われることは大問題かもしれないが、本来ならば眠っている私が気付くことなどありえないので気にしなければいいだけの事だった。
それでも気になることがあるとすれば、この出来事が今回限りのことなのか、ということだ。今回以前にもああしてほっぺたをつついていたのか、今回以降もまたほっぺたをつつかれるのか。いくら眠っていれば気付かないとはいえ、許可も取らずに体を触られ続けることに良い思いはしない。もう何日か寝たふりをして、真相を確かめなければ。話はそれからだ。
しかし、そうなると今日も放課後の睡眠時間が削られてしまう。真相を暴くまでに時間がかかればかかるほど、今後の睡眠時間は削られ続けるのだ。七海君には悪いが、いっそ大事になるほど私に手を出してもらったほうが確実に事を進められる。
今後の癒しの為とはいえ、彼が放課後にやってきて、手を出されることを望むなんてまるで痴女だなと思いながらも、削られる分の睡眠を確保すべく、授業が始まるまでの時間、私は眠りにつくのだった。
放課後。
私はうっかり本格的に熟睡しそうになる気持ちを必死に堪え、寝たふりの状態で時間を過ごしていた。
何もせず、ただじっと時間が経つのを待つというのは何とも退屈だ。どうせ来るなら早く来てほしいと思いながら十数分が経過したころ、教室に誰かが入ってきた。この時間に教室に人が来ることは滅多にない。来るとすれば忘れ物を取りに来たか、何か特別な用がある時だ。そして来訪者は思った通り後者だった。
足音はまっすぐに私の方へ向かってくる。鞄を机に置く音がして、気配が私の隣で止まる。
間違いなく七海君だろう。
ふにっ。
え?
こちらが細かいことを考えるまでもなく、私のほっぺたはつつかれていた。
昨日の恐る恐るといった感覚はどこへいったのか。私は何のためらいもなく突き付けられた指に驚きを隠すのに必死だった。
むにーっ。
本当に必死だ。
つつくだけだと思っていた彼の指は、あろうことかほっぺたを引っ張り始めた。さらには伸ばしたり、揉んだり、好き放題に私のほっぺたを弄りだした。
どうやら七海君は、吹っ切れたというよりもおかしくなってしまったのかもしれない。
年頃の乙女の寝込みを狙い、好き放題に弄り、自らの欲を満たす。状況だけみれば完全に犯罪者のそれだ。可愛い物を愛でる趣味が行き過ぎると、人はこうなってしまうのか。何とも恐ろしい。
自分で自分を可愛い物と定義していることに嫌気がするものの、これはあくまで七海君の指標での話だと言い聞かせて心を落ち着かせる。
それにしても、今日はいつまでほっぺたを弄り続けるのだろうか。数回つついただけの昨日と打って変わって、既に数分近く行為は続いている。満足するまで続ける、というのならそれこそ終わりが見えない。人の欲望に限りがないことは、私もよく知っていることだ。とはいえ、今すぐ起き上がって七海君を取り押さえるのも億劫だ。少なくとも今日は我慢するとしよう。明日以降はさすがに耐えきれないと思うが。
しばらく無心で耐えていたら、不意にほっぺたを弄る手が止まった。ようやく満足したのだろうか。あるいは我に返ったのだろうか。
一息ついたような、ため息のような息遣いが聞こえた後、七海君は足早に教室の出口へと歩いて行った。そして扉が開く音がした後、囁くような声で七海君は言った。
「......ごめんなさい」
扉が閉まり、廊下を駆けていく音が遠ざかっていった。
少し様子を見た後、私はゆっくりと起き上がった。
鞄から手鏡を取り出して自分のほっぺたを見ると、少し赤くなっていた。
「謝るぐらいなら、もう少し優しくしてほしかったな」
そんな呟きをこぼして手鏡をしまう。
今日の七海君のほっぺたへの執着からして、彼が私のほっぺたを今後も触り続けるであろうことは、ほぼ確定した。しかも、日に日に行為がエスカレートするであろうことも。
欲望に忠実なもの同士、彼の欲望を打ち破ることになるのは申し訳ないが、もう私の体を好きにさせるのは今回限りだ。
明日の放課後、再びここに来るであろう七海君と話をしよう。穏便に和解できれば良いが、七海君が我を忘れてほっぺたに襲い掛かってくることだけは無いことを願おう。
腫れたほっぺたをさすりながら、私も帰路に就いた。