優希 第三話 もちもちほっぺたと罪悪感
朝。
俺は指先に残る感触を確かめるように、指で何もない空間をつついていた。
昨日の出来事が夢であったらと願う気持ちも少しだけあるが、指先に残る感触も、それを求めてしまう欲望も、確かに現実のものだった。
ベッドから起き上がり朝の仕度をする。いつも通りのルーティーンをこなし、最後にいつもと違うこと──鞄にお気に入りのぬいぐるみを一つつける──をして準備は完了した。
このぬいぐるみでなんとか乗り切れることを祈ろう。もし欲望を抑えられずに放課後の教室へと足を運んでしまうようなら、今後俺の鞄はぬいぐるみだらけになってしまうだろう。そうなれば中学生時代の再来、ぬいぐるみに脳を支配された悲しい男子として残りの学生生活を送ることになる。なんとしてもこの一つで乗り切ろう、そう誓いを込めるようにぬいぐるみのほっぺたをつつき、学校へと向かった。
放課後。
結論から言うと、無理だった。
登校してから何人かのクラスメイトにぬいぐるみについての質問攻めを受けたが、姉の趣味だと言って無理やり難を逃れたところまでは良かった。問題は登校してきて早々に、いつも通り眠りについた小日向さんに目を向けた瞬間、ほっぺた以外のことが考えられなくなったことだった。一日が始まった瞬間から、昨夜の俺の祈りなどむなしく崩れ去り、鞄についたぬいぐるみはただの飾りになり果てた。
悲しいかな、人間はやはり欲望には抗えないらしい。だからこうして俺は、放課後の教室へと向かってしまっているのだ。
廊下から教室の中を覗くと、今日も小日向さんは眠っていた。教室には他に誰もいない。廊下にも人影はない。俺は一度大きく深呼吸をして、そっと教室の扉を開け、中へと入った。まっすぐ小日向さんの席へと向かい、そばに立つ。もう我慢など出来なかった。彼女のほっぺたへとまっすぐ指を押し付ける。
ふにっ。
ああ、やっぱりこれだ。これこそが癒しだ。
柔らかさ、肌ざわり、どれをとってもこのほっぺたに勝るものなどありはしない。このほっぺたの為ならば、悪魔に魂を捧げてもいいだろう。実際、悪魔の誘惑には既に負けているのだから。
俺の欲望はエスカレートしていく。もっと、もっと癒しを。ほっぺたを。そう思って彼女のほっぺたを二本の指でつまんだ。
むにーっ。
ものすごく伸びる。なんなんだこれは。つきたての餅かと思うほどに柔らかく伸びる。こんなものが人の体に備わっていていいものなのか。
ダメだ。本当にダメだ。これは中毒どころの代物ではない。依存だ。もはや俺はほっぺた依存症になってしまった。このほっぺた無しでは生きていけない。一生彼女のほっぺたを触っていたい。
もはや変態的な思考回路にまで陥ってきたが、ほっぺたを触る指は止まらなかった。伸ばし、押し込み、揉み、つつく。もう止められなかった。
それにしても、小日向さんはまったく目を覚まさない。これだけほっぺたを触っていたら、普通の人ならば目を覚ますだろう。人に邪魔されても眠り続けることは、彼女が癒しを得る為に身につけた能力なのだろうか。
もし本当に目を覚まさないのであれば、俺が引き際さえ弁えていれば彼女にばれることはないということだ。これは俺にとって非常に好都合と言える。
つまり、俺の理性と倫理観さえ保てれば、このほっぺたは触り放題ということだ。この考え自体が既に理性も倫理観もあったものではないが。
とにかく今はこの状況に甘えさせてもらおう。目の前の極上の癒しを満足するまで享受しよう。大丈夫、俺が正気でいられればばれることはないのだ。
指先に集中していた意識が不意に戻ってきた。
時計を見ると十分程の時間が過ぎていた。夢中になっていたとはいえ、やりすぎてしまった。小日向さんのほっぺたは揉んだり伸ばしたりしたせいで薄っすらと赤くなっている。これでは起きた後に異変に気付いてしまうかもしれない。これ以上は危険だ、今日はもう帰ろう。
鞄を手に取り教室の出口に向かう。今朝、鞄につけたぬいぐるみはもはやただの飾りだった。
教室を出る瞬間、やりすぎてしまったことの罪悪感が押し寄せてきて思わず振り返った。
小日向さんは今も変わらず眠っている。
「......ごめんなさい」
罪悪感を押し込むように小さく謝罪を口にして、教室を後にした。