優希 第十話 ほっぺたからあなたへと
死に際に、人生最高の瞬間はいつだったかと聞かれたら、間違いなく今日の放課後だと答えるだろう。
例えるなら、一度死に、地獄へ落ちると思っていたら天国にたどり着いていたような一日だった。
「それにしても」
小日向さんが言っていたことをいくつか思い返す。
まず、俺と小日向さんは同類だという話。欲望に正直で、欲望を何より大切にしている人だということ。
欲望というものは誰もが持っているものだ。しかし、多くの人たちは食べたい、遊びたい、楽をしたい、と欲望を膨らませながらもそれを抑えて生活している。それが人として社会の中で生きるということだと、みんなが理解しているからだ。それが良いことか悪いことかと問われれば、当然良いことだろう。人は一人では生きていけない。周囲と足並みをそろえる為に、個人の欲望ではなく全体の利を求めるのだ。
それでも、個人の欲望を強く求める人はいる。もちろん犯罪を起こすほどの強い欲望は悪とみなされるべきだと思う。だが、俺や小日向さんのような小さな幸せを求める欲望ぐらいは、持っていてもいいんじゃないかと思うのだ。周囲をないがしろにするわけではなく、社会の中に生きる中で、ほんの少し強く欲望を持っていたっていいじゃないかと。
昨日までの俺だったら、内に秘める欲望は、いつか犯罪を起こすような強い欲望になっていたかもしれない。だけど、小日向さんと話して、同類だと笑いあって、そんな不安は消えてしまった。もう自分の欲望に囚われて他人をないがしろにしたり、自分を抑えられなくなったりすることはないだろ
う。小日向さんがいてくれるのなら、俺はもう大丈夫だ。
「小日向さんがいてくれるなら、か」
自分が思っていた以上に、俺の中で小日向さんは大きな存在になっていた。初めはほっぺたにしか意識を向けていなかった。だけど、「ほっぺた」から「小日向さん」へと意識の向きを変えてから、癒しを求めるだけじゃなく別の感情が湧き上がってくるような、そんな気がしていた。
そんな小日向さんが言ったもう一つ気になること。明日は小日向さんの欲望に付き合うということだ。
俺の欲望は癒しをくれる対象が必要だから、俺以外の何かが必要になる。だけど、小日向さんの欲望はそうじゃない。眠るという行為に本人の意志以外に介入する要素などほとんどないのだ。
手伝えることをしいて言うのであれば眠る為の環境だろうか。しかし、学校の教室で充実させられる眠る為の環境など、たかが知れている。椅子や机をベッドの形に動かす程度なら、わざわざ俺が手伝わずとも以前からできたはずだ。小日向さんは教室で眠る時は机に枕を置いて突っ伏すように眠っているので、あえてベッドを作るということはきっとないだろう。
環境でないとするならば、眠る為の準備段階だろうか。眠る前にストレッチをすると睡眠の質が上がるとかいう話を聞いたことがあるし、その手伝いをするのだろうか。だが、小日向さんが学校で眠る前にストレッチをしているところなんて見たことがない。あるいは子守歌でも歌えと言うのだろうか。歌に自信は無いのでそれだけはやめてもらいたいのだが。
考えれば考えるほど、睡眠に関して俺が手伝えることが分からない。今日の恩返しも兼ねて、頼まれた以上は役目を果たしたい。そのための準備をしたいが何も思いつかない以上何もできない。
「連絡先ぐらい交換しておけばよかったな」
連絡して、せめてヒントぐらいは貰えればよかったのだがそうもいかない。
何もできないのであれば、余計なことは考えないようにしよう。明日の放課後になれば分かることなのだから。良い睡眠をとるというだけの話なら、余程の無茶な要求はされないだろう。
とにかく考えても仕方がない。全ては小日向さんのみぞ知るということだ。
そう言い聞かせて、眠りにつくのだった。