優希 第九話 これはほっぺたへの感謝か、それとも
この感覚を表すためにはどんな言葉を使えばいいのだろう。
至高。格別。極上。どんな言葉を並べても、この感覚は表現できない。
俺が最も求めていたもの。至上の癒しがそこにあった。
「思ったよりも、恥ずかしいね」
俺の両手でほっぺたを包まれながら小日向さんは微笑んだ。
「俺まで恥ずかしくなってきた。でも、それ以上に」
そう、羞恥なんて気にならないほどに。
「心地いい」
「そう?ならいいんだけど」
これは本当に現実なのだろうか。もしかして夢でも見ているんじゃないだろうか。俺は一度小日向さんのほっぺたから手を離して、自分のほっぺたを引っ張った。
「痛い」
夢じゃ、ない。
「どうしたの?夢だと思った?それとも、私のほっぺたを好き放題した罪滅ぼし?」
「夢だと思ったからだけど、そういうことにしておいてくれ」
引っ張った自分のほっぺたは、お世辞にも心地いいものではなかった。男の大した手入れもされて
いないほっぺたなど、癒しには程遠い代物だ。
そう思いながら再び小日向さんのほっぺたへと手を伸ばす。
欲望のままではなく、優しく、包み込むように触れる。
「別に気を使わなくても、もっと好きにしていいよ」
「いや、でも」
やはり意識してしまう。小日向さんはほっぺたを触られている間も、じっとこちらを見つめている。今までほっぺたにしか意識が向いていなかったせいなのか、余計に「小日向さん」を意識してしまう。
「じゃあ、これなら気にしない?」
「え?」
そう言って小日向さんは、俺のほっぺたへと手を伸ばして、
ムギーッ!
思いっきり引っ張った。
「痛い!何!?」
「あははっ!ごめんごめん。ほんとはちょっと引っ張るだけのつもりだったけど、仕返ししたくなっちゃった」
俺のほっぺたを引っ張りながら、小日向さんは爆笑している。だけど、これもある意味罪滅ぼしだ
と考えて痛みに堪えて受け入れた。
「これで遠慮なんていらなくなったでしょ?」
「確かにそうだけど」
「もう、まだ言うか。それなら」
小日向さんは俺のほっぺたから手を離し、小日向さんのほっぺたを包んでいる俺の両手に重ねるようにして、ほっぺたへと押し付けた。こうなったら俺の手は、ほっぺたへと沈むしかなかった。
触れただけで満足していた俺の欲望が、再び湧き上がってきた。
「本当に良いんだな?」
こちらをまっすぐ見つめて、小日向さんは頷いた。
ならば甘えさせてもらおう。この至上の癒しを存分に味わおう。
両手いっぱいにほっぺたを包んで、握りしめた。
「すごい......」
思わずつぶやくほどだった。
ただ柔らかいだけじゃない。表面はすべすべしていて触り心地が非常に良いうえに、押したときの弾力も引っ張ったときの伸びも最高だ。触って気持ちいい感触が、このほっぺたには全て詰まっている。
この瞬間は、もし許されるのなら、と願っていた状況なのだ。このほっぺたを自由に触っていられる時間。俺が望む最高の癒しの時間だ。いつまでもこの時間が続けばいいと思うほどに、これ以上の幸せはないと言えるほどに、この時間は俺の望む全てなのだ。
「えへへ」
好き勝手にほっぺたを弄られながらも、小日向さんは微笑んでいた。それが照れ隠しなのか、あるいは別の感情なのかは、今の俺には知る由もない。
「ありがとう」
その言葉は、無意識に口から零れていた。
「感謝なんてされることでもないけどね。私が何かしてるわけじゃないし」
「いや、こうしていられるだけで俺は今までの人生で一番幸せなんだ。感謝しかないよ」
「そっか。じゃあ、その気持ちはちゃんと受け取っておくね」
「ああ、ありがとう」
何度も感謝を伝えながら、ほっぺたを触り続ける。俺が抱いている感情は癒しというよりも、もっと尊い別の何かに変わっているような気さえした。
例えるのなら、愛のような。
このほっぺたに、小日向さんにずっと触れていたい。離れたくない。そんな、まるで初恋の相手と初めて手を繋いだ時のような感覚を抱き始めていた。
このままでは本当に離れられなくなる。さすがに小日向さんも疲れてしまうだろうと思い、名残惜しさを噛み締めながらほっぺたから手を離した。
「もういいの?」
「ああ、今日はこれぐらいにするよ。小日向さんも疲れるでしょ?」
「そうだね。ちょっと疲れちゃったかも」
俺が手を離したほっぺたをほぐすようにしながら、小日向さんは苦笑した。
「それにしても」
「ん?」
「今日はってことは、また明日からもほっぺたを触る気まんまんだね?」
「あっ、それは」
つい口にしていた。
小日向さんに正式に許可をもらえたからといって、なにも毎日触らせてくれるというわけではないだろう。
「まあ私は別にいいんだけどね。ただ、七海君ばっかり良い思いするのもつまらないし」
「それは確かにそうだ。俺に何か出来ることがあれば何でも言ってほしい」
「そうだね。じゃあ明日は私の欲望に付き合ってもらおうかな」
何でもとは言ったが、それは少し困った。
「小日向さんの欲望って、眠ることだよな?俺が手伝うようなことあるのか?」
「ふふふ。それは明日のお楽しみってことで」
小日向さんは不適に微笑んでいた。
「それじゃあ今日はもう帰ろっか。またね。七海君」
「ああ、また明日。小日向さん」
数日の間、一緒にいた放課後の教室で、俺たちは初めて別れの挨拶を交わした。
今日は俺にとって人生最高の一日だった。明日は小日向さんにとって、良い日になるのだろうか。そんなことを考えながら、帰路に就くのだった。