行き先は、ひとつ。
行き先は、ひとつ
八月の終わり。私は休みをとって、県境にある山奥の温泉宿へ向かっていた。
曲がりくねった険しい山道を登っていかなければたどり着けない、まさに秘境の温泉郷だ。
山深く、うら淋しいところではあるが、夏場でも涼しく、山合いに沈む夕陽も美しい。職場での人間関係に疲れ切っていた私は、人里離れた山奥の宿に癒しを求めていた。
しかし、カーナビの調子が悪く、道に迷ってしまった。
十年ほど前に一度訪れたことがあるだけで、道などまったく覚えていない。
おまけに、薄暗い木々の中を延々と走っているから、風景はまったく変わり映えしない。目印になるような建物もない。ぐるぐると同じ場所を回っているような錯覚に陥ってしまう。
どれぐらい走っただろうか。いよいよガソリンが切れそうになり、やむなく路肩に車を止めた。進むことも引き返すこともできそうにない。
しかも、運悪くスマホの充電も切れていた。くそっ、と小さくつぶやき、ドアを開けて外へ出た。
蜩が鳴いている。もう、陽が傾きかけているのだ。
どうすることもできず、とりあえず手荷物だけ持って歩きはじめた。民家が見つかれば電話を借りられる。宿への道を教えてもらうこともできるだろう。
しばらく進むと道がふたつに分かれていた。ちょうどその分岐点に、なにか黒い塊が見える。不審に思いつつも近づくと、それは人だった。
髪の長い、若い女性だ。膝をかかえてうずくまっている。
地元の人だろうか、それとも、自分のように道に迷った観光客だろうか。
「こんにちは。どうされました?」
声をかけた。気分が悪いのだろうか、と思ったのだ。
女性はゆらりと立ち上がると、私を見てほほえんだ。
「ありがとうございます。大丈夫です」
美しい女性だった。紺色の格子柄のワンピースを着ている。
「わたしはバスを待っているのです」
「バス?」
こんなところに? 時刻表らしきものも、なにも見当たらないが。
「一日に一本だけ、来るのです」
女性はそう言った。どうやらこの土地の人間のようだ。
私は行く予定だった宿への道をたずねた。
「そこでしたら、ここに来るバスに乗れば、近くまで行けますよ」
「どの停留所で降りればよいのですか」
「一日に一本、行き先もひとつですので、間違うことはありません」
ほら、来ました、と女性が山道の向こうを指差した。見ると、確かに、古びたバスが近づいてくる。
そして、私たちの目の前で停車した。
「乗りましょう」
女性が私の手を引く。その瞬間、驚いて肩がびくっと震えてしまった。
彼女の手は、氷のようにひんやりと冷たかったのだ。
私は後方の窓側の座席に座り、女性は私のとなりに座った。
何せ、彼女は若く美しい。当たり前のようにとなりに座られても、正直悪い気はしなかった。
車内には、私たちのほかにも、乗客がたくさん居る。こんな辺鄙な山奥のバスでも、利用する人間は結構いるらしい。
バスは急勾配の坂道を登り、山の奥へ、奥へと進む。だんだんと、道は狭く、カーブもきつくなっていった。
道が悪いのか、運転が荒いのか、バスはがたごとと揺れた。旅の疲れからか、私はいつしか、うとうとと眠りこんでしまっていた。
がたん、と大きく車体が揺れて、私は目を覚ました。
バスは随分山深くを走っているようだ。窓の外、鬱蒼とした木々の隙間から赤い光が差し込む。もう、夕暮れ時なのだ。
ふいに、木々が途切れた。現れた空は毒々しいほど赤く燃え、鉛色の雲が広がり、その切れ目から、赤い不気味な光が漏れだしている。
その光はバスの中にも差し込み、車内を赤く染めていた。
となりに座る女性を見やる。彼女の顔も、赤く染まっている。
赤く、赤く。まるで、血のような……。
「ひっ」
思わず、小さな悲鳴をあげてしまった。
正真正銘の、血だ。女性の頭にも、顔にも、血がべっとりと貼りついている。
どくどくと動悸が激しくなり、ぶわっと、冷や汗が噴き出した。
寝ぼけて見間違いをしたのかと思い、もう一度彼女のほうを見ると。
彼女の黒髪に血のりがびっしりとこびりついて固まっていて、その奥にぱっくりと裂けた傷がある。まるでひび割れた西瓜のようだ。
どういうことだ。いつの間に、彼女はこんなに大けがをしたのだ。
ふいに彼女も私のほうを見た。目が合うと、にやっ、と彼女は笑った。
「ひいっ」
喉の奥が鳴る。口の中が乾いて、からからだ。背すじは冷えているのに、だらだらと嫌な汗が流れて止まらない。
「どう、されました?」
彼女は首を傾けた。
ど、どう、って。それはこちらの台詞だ。そんな大けがをして、なぜ平然とバスに揺られることができる?
おかしい。絶対におかしい。
見回すと、ほかの乗客も血塗れている。足や腕がありえない方向に曲がっていたり、裂けた傷から生々しい肉が覗いていたり。
無傷なのは、自分だけだ。
「昔の話です」
となりの女性が、ゆっくりと語り始めた。
「昔、この村でバス事故が起きたのです。バスが急カーブに差し掛かった時、運転手が発作を起こしたのです。アクセルを思い切り踏んだのか、猛スピードでガードレールに突っ込みました。バスはガードレールを突き破り、崖の下へ落ちて行った……」
「な。なんの、話です?」
歯ががちがちと鳴り始めた。まさか、このバスが、その……。
「もうすぐです。もうすぐ、着きます」
もうすぐ、もうすぐ……。と。
女性はうつろな目で、うわごとのように繰り返している。
「……ど、どこへ……」
女性がにやりとほほ笑んだ。
車体がななめに傾いた。大きなカーブに差し掛かっている。
なのにバスはスピードを緩めることなく突っ込んでいく。
ガードレールの先には空しかない。つまり、この下は崖だ。
まさか。まさか。
バスのスピードが上がる。がくん、と大きく車体が揺れる。
もうダメだ……!
そう思った瞬間、私は、はっと目を覚ました。
あたりはすっかり暗くなっていた。
どれぐらい眠っていたのだろうか。今、何時なのだろうか。
バスは、がたごとと古い車体を揺らしながら、走り続けている。
窓の外を流れる景色も、墨で塗りつぶしたように黒くて、何も見えない。闇だ。
嫌な夢を見ていた。
粘ついた汗をびっしりとかいていた。汗でシャツが貼りついて気持ちが悪い。
乗客はいない。となりに居た女性も、消えてしまっている。
バスに乗っているのは、自分ひとりだ。
確かに私は、あの若い女性に手を引かれて、このバスに乗り込んだのに。
一体、どこからが夢だったのだろう……?
ひどく疲れて、頭が重かった。おかしなことばかりだが、何も考えられない。
それにしても、随分長い時間、バスに揺られている。
ふと、不安になった。このバスはどこまで行くのか。もしかしたら、自分が寝ている間に、目的地を通り過ぎてしまったのではないか。
私は、運転席の真後ろの席に移動した。
「すみません。今、どこですか。このバスはどこへ行くのですか」
運転手に声をかけてみたが、反応がない。聞こえないのだろうか。
「すみません」
大きく声を張り上げた。
それでも、何も反応はない。
乗客は私ひとりだ。声に気づかないはずがない。
発作を起こし……、という、夢の中の女性のせりふが頭をよぎる
嫌な予感がした。まさか。
「おい、大丈夫か?」
運転席に手を伸ばし、運転手の肩を揺する。人形のようにぐらぐらと、運転手の頭は揺れる。
眠っているのか? 何かの発作で、意識を失っているのか?
「おい! 起きろ! おい!」
さらに激しく揺さぶった。
その時。
ぽきり。
運転手の首が折れ曲がり、後ろを向いた。
目の端からも、口の端からも、血を流している。
運転手の目玉がぎょろりと動いて、私の目をとらえた。
「ひっ……!」
体が固まって、動けない。そらしたいのに、目をそらせない。見えない糸できつく縛られているかのように。
逃げられない。
壊れたマネキンのような屍のくちびるが、ゆっくりと動いた。
「お客さん。行き先は、ひとつですよ」
バスのスピードが上がった。