滲む赤色
笑い声で目が覚めた。
一瞬、惨めな自分を群衆が囲んで笑っているかのように思えたが机の端に座っていることに気がつくと、草加は寝ぼけ眼をこすって周囲を見渡した。
後ろの席ほど段が高くなるという設計の講義室の中央。半円状の講堂のステージとも呼ぶべき場所に先ほどまで講義していた教授がシューシュー、という奇妙な音を漏らしていた。
足元に何か細々とした白いものとピンクの塊が落ちており、教授がそれをあわてて口に突っ込むところを見ると、やっと入れ歯だとわかった。
弁に熱が入り、うっかりスポンッ!とやってしまったのだろう。
ツイッターのネタになりそうだな、と思いつつ草加は帰る用意をした。
講義はとっくに終わっていた。
背もたれに背を預け、大きく伸びとあくびをする。
「俺は決めたぞ鳥羽」
後ろがうるさい。
「スナップハント事件の犯人を捕まえるんだ」
「なに言ってんだお前は」
草加は半分寝ぼけながらいった。
「あの後ツイッターでよ。あちこち調べてたら犯行予告みたいなのがあったんだよ。歌舞伎町で一人殺すみたいな」
「それは絶対に嘘だ」
鳥羽が断言する。
いや、やっぱりコイツが犯人だ、とあくまでも主張し続ける吉川に辟易として、草加はこっそり講堂から抜け出した。
大学に入ってから何かがおかしい。
その思いは常に草加の胸のうちにあった。
確かに。
確かに彼は高校時代は友達が多く、快活で、数多くのバカをやった。クラスで一番の美人に告白して玉砕したし、体育祭ではアンカーも勤めた。特に、田中からの反則すれすれのバトンタッチ――――転倒しながらもうバトンを投げる――――を草加が見事受け取った際はクラス中だけでなく、ほとんどの生徒が歓声を上げたものだった。
文化祭はスポーツ系男子だった彼にたいした活躍の場はなかったが、それでも草加の陽気さは、作業に従事するクラスメイトを励ましていた。
それが。
今は。
どうだろう?
ろくでもない連中が周囲をとりまき、どうでもいい変質者の話で盛り上がる。
いまいち同じ学科の人ともなじめないし、女性との縁はさらに薄くなった。
あんなにいきたかった大学なのに。
ともすればうっかり目から水が落ちそうで草加は歯を食いしばった。
朝から精神ダメージを受けた(といってもほとんど自虐)草加はカフェテラスによたよた……と入り込んだ。
次の講義は午後なので二時間ほど暇ができるのだ。
(とりあえず寝よう。寝ればよくなる)
草加は注文もとらずカウンター席に突っ伏す。冷房がじかに吹き付けていた。
いっそのこと風邪でも引きたいと思った。
「元気ないな、悠ちゃん」
のそり、と顔を上げるとコーヒーディーラーの女性が見えた。里中とかいう名前だった気がする。
「…いや、もうね、メンブレっす」
彼女は既に結婚しており、今年で三十歳になって二児の母でもある。すらっとして身長は高く、切れ長の目にソバージュヘアが似合う美人さんだった。
どこか頼れる人オーラとでも言うべきものを漂わせており、たまに彼女に相談しに来る大学生がいたりする。
そして彼女はカウンセラーの資格も持っているらしかった。
「現実がつらーい…」
うつ伏せなのでくぐもった声だった。
「どうしたんだよ?彼女にフられた?」
「いると思ってンすか」
「えー?割と悠ちゃんイケてるよ?」
草加は体を起こした。
「もうね。俺そういうの信じませんから。それ言ったの二ヶ月前ですよね?俺マジで自分をイケメンだと思って女の子に壁ドンやったら通報されましたからね!『この人チカンです!殺してください!』目の前で言われましたから!あああああああああああ………うぅぅう…死にてぇ」
うぅうう、うぅうう、とうなりながら草加はごろごろカウンターで上半身を転がした。
「いやー…実はキュンッ!…ってなって照れ隠しに通報したのかもしれないよ?」
「どんな照れ隠しですか」
「かもしれないじゃん」
「後で友人経由で『ざまぁ』って言われてもですか」
さすがに里中は苦笑いした。
「何か飲みたいものはある?もしくは食べたいものとか」
「…ブラックコーヒー、ブラックホールダークマターで」
人工的に製造された殺人的な苦さを誇るコーヒー豆の品種だった。
「……なんか、理想に裏切られた?その…たとえば、夢のキャンパスライフだったのに…とか」
「…もー、里中さんほんとすごいっすよねそれ」
ぴったり草加のローテンションの原因を言い当てていた。
さりげなく食べたいものや、飲みたいものを聞いて悩みを当てるのが彼女の特技だった。
「んー…掘り下げるのやめといたほうがいい?」
「オナシャス」
そして、どれぐらい踏み込むのか、引きどころもわきまえていた。
コン、とカップが置かれる。
光すらも反射しない、熱湯なのに湯気もでないコーヒーを見て草加は果たしてこれは飲み物だろうかと思った。
「それ値段高いじゃん?」
「…ほんとだ」
ほかのソフトドリンクは150円均一なのにこの脅威の暗黒飲料は600円だった。
「それ飲んだらカップから黒いのが取れなくなるから高いの」
「…こわぁ……」
「口も一週間ブラックボックスになって味もわからなくなる」
「…それもうコーヒーじゃないですよね」
どう考えても飲める気がしないので草加は丸椅子を回して外の景色を見た。
講義室の移動のためか、人通りは多かった。
みんな、楽しそうな顔をしている。
うらやましい。
ため息が出た。
「……ん?」
ふと、ちらりと赤いものが見えた。
それは小さく、しかし、活気のある人々の間でもかなり目立っていた。
赤いものは唐突に立ち止まり、フードをかぶった顔を草加に向けた。
手が、振られる。
「あ、ちょっとコーヒー代!」
里中の声を背中に浴びながら草加は飛び出した。
***
大通りに飛び出した草かはいきなり姿を見失った。
何か、体の内側から強い衝動がこみ上げて顔をしかめてしまう。
世界が白黒に見える。
光を反射する戯画の中を狂ったように回る。
赤色はどこだ。
いた。
草加は全力で走った。
赤色がちらつくたび、草加はそれを追いかけた。
闘牛士にかわされるバッファローのようだった。
四回ぐらい続いた後、草加は目の前にぶわっ、と現れた赤色に正面から激突して草加はぶっ倒れた。
「痛ったぁ……」
そんな、声が、聞こえて。
草加は、目を、見開いた。
「そんな焦らなくたっていいじゃない……」
赤いインバネスコート。
ずり落ちかけたフードが落ちる。
「……神無月、さん?」
詰まったものを吐き出すような言い方だった。
「うん。雪夜だよ」
彼女は草加に向けて、コートの下から手を差し伸べた。
フリルの山から手が生えている。いったい何を着ているのだろうか。
草加は、小さな白い手をつかんだ。迂闊に体重をかけるとこっちに倒れてきそうだったが、外見に合わず、強い力で引き上げられた。
「三日ぶり。元気にしてた、草加くん」
草加はひたすら首を縦に振ることしかできなかった。
ただ、ここで、このタイミングで雪夜に再開できたという事実が、湧き水のようにかれの心を満たしているのだった。
あたふたと口をパクパクさせる草加を見て、雪夜はくすっ、と小さく笑った。
「やだな。そんなに会いたかったの?」
急に草加は恥ずかしくなって「いや、そういうんじゃ」とか「ちょ、ちょっそれは」などとどもりはじめた。
くすくす笑う雪夜を見て、草加はなぜか急速に体温が下がっていった。
…彼女はあわてている俺を見て笑ってるんだ……。
…このむさくるしいやつを馬鹿にしてるんだ……。
草加の脳内をこの大学の二年で養われたネガティヴ思考が侵食する。
「…すみません」
「ん?」
ネガティヴが内面に封じきれず口から泥のように漏れてくる。
「キモいっすよね俺……ほんの数分しか…会ってないのに…また…偶然会って…喜んでる……熱血系根暗って…ナイっすよね…いや…マジですみません、今すぐ消えますお目を汚してすんません汚物処理場に言ってごみになって燃やされてきます」
草加からは見えないが雪夜はいきなりテンションが急降下した彼に目を白黒させていた。
一瞬思考が止まったが、彼は以前なにか女性関係でトラブルをおこしたのだろうと神がかり的な推理をし、ひとまず率直に心象を述べたほうがいいと考え、実行した。
「嫌いじゃないよ?」
今のところ嘘偽りなしで断言できるのはそうだった。
半分曇りかけた草加の目を少し下からじっと見つめる。
草加は戸惑っていた。
「あ、でも好きでもないから」
なにやら熱を帯び始めた彼の視線に焦ってそういうと、目に見えて彼は落ち込んだ。
「えっと…とにかく、私は別に草加くんのことは特にマイナス印象は持ってないよ。だからそんなに落ち込まないでよ」
自分から距離を縮めて雪夜は草加の肩をポン、とたたいた。
草加は肩を押されて一歩よろめいた。
彼は「そっすね」とつぶやいて、しゃん、と背を伸ばした。
それから何か思い出したように財布を取り出した。
「こないだのラーメン代のおつりっすね」
草加は紙幣と小銭を数えようとしたが雪夜はそれを制した。
「いいよ別に。お金にはぜんぜん困ってないし。あげるあげる」
あまりにも平然と言われたので草加はしぶしぶそれを財布に戻した。
実は金欠だったので助かった。
草加はひとまず彼女の呼び方を決めようと思った。
「雪夜…さん」
「な、…なに?」
雪夜は平静を装った。
下の名前を呼ばれて心臓がはねたなど口が裂けてもいえない。
「…や、やっぱり神無月さんで」
「…ご自由に」
草加は咳払いした。
「えー…、どうやって俺がW大学に通ってるってわかったんですか?」
「ツイッター。なんか知らないけど個人情報が晒されまくってたよ?」
「マジっすか……うわぁ…」
ではおそらくあの嫉妬にまみれた文章も読まれたに違いない。
「すっごいイケメンになりたいってことがよくわかったよ」
「やめて!恥ずかしくてしんじまうっす!」
あはは、と雪夜は笑った。
会話の主導権を握ろうと切り出した草加だったがとんでもないジョーカーをちらつかされて動揺してしまった。
なかなかに雪夜という少女は侮れない。
それからもなんとかリードしようとするが、そのたびにのらりくらり、とかわされてしまう。雲を相手にしているかのようだった。
どう出ようか、と言葉を探す、草加。
今度は雪夜が話を切り出した。
「実を言うとねえ。サガシモノがこの近くにあるみたいなんだよ」
「あ、それで俺の力を借りようと」
「そう。…このあたり、あんまり詳しくなくってね。時間、あるかな?今日のいつでもいいよ」
「今でもどこでも宇宙でも未来でもオッケーです」
草加は彼女のためなら講義のひとつや二つ、ボイコットするぐらい造作もないと思っていた。
完全に一目惚れ症候群である。
「ほんと?じゃあ、早速出申し訳ないんだけど、今の校長ってだれ?」
「えっと…津木宗一郎だった気がするっす」
変なことを聞くな?と草加は思った。
「水戸川やめちゃったのか…」
残念だなぁ、と雪夜。あたかも彼のことをよく知っているようである。
何かがおかしい。
草加の記憶によれば、W大学の前総長である水戸川秀郷は自分が生まれる前に退任したはずだった。実に二十年前である。
雪夜は成人しているらしいので、仮に草加より年上の二十五歳だとして到底満足に覚えていないのではないか。
「えっと水戸川前総長と知り合いだったんすか?」
「うん。何度かお茶を一緒に」
きわめてナチュラルに言う雪夜に一抹の言いづらさを感じたものの、草加は決行した。
「……あの、二十年前に退職してるんですけど」
「それがどうし―――あっ!うそうそ!お茶なんてぜんぜんしてないよ!」
急にあわてた雪夜に草加は懐疑の視線を向けた。蛇みたいな顔だった。
もし、お茶の話が本当だとするならば。
少なくともまともな会話ができなければ大学のお偉いさんとお茶をする機会なんてないだろう。となると十五か二十の間かそれ以上の年齢であるはずだ。
ということは雪夜はもはや中年女性になってしまう。四十台、三十代後半はいくらなんでも少女とは呼べまい。
草加は言い訳を述べる雪夜をじっと観察した。
驚いたことに化粧をしていないようである。きめこまやかな、白い肌はしわどころかシミひとつもなく、どう見ても十代か、二十代の若さに満ち溢れている。今まで見たほかの誰よりもみずみずしい。
髪は肩ぐらいで切っている(下手な美容師にやってもらったのか右側の一房が長い)が、太陽の光に反射して艶やかに照っており、それにふんわりとしていて、とても四十台のものとは思えなかった。
美魔女と呼ばれる若く見える女性の存在を草加は知っていたが、雪夜の若さは(仮に四十台以上として)そういった人口のものとは次元が違うように感じた。
(ま、いっか)
細かいことを気にしてもしょうがない。
並び立てる理屈がなくなって困っている雪夜に草加は肩をすくめて見せた。
「で、今の総長に何の用事があるんすか?」
「え、あれ?いいの?」
「俺ン中じゃ、雪夜さんは二十歳ってことにしときます」
草加はそういって人差し指を立てた。
「あ、あはは…ありがとう」
雪夜はしどろもどろに礼を言った。
どうも年齢のことを非常に気にしているらしかった。