第8章
(1)
ホテルを出てまず最初に向かったのは、康代のマンションだった。
六号線を飛ばし、大手スーパーの横の道を入る。
「鍵がないと、入られへんなあ」
運転席で泰三がつぶやく。
「僕が義兄から合鍵を預かってます。それで入りましょう」
駐車場に到着すると、車から降りる。
マンションの入り口に向かう途中、主を失った康代の車が淋しそうに置かれているのが見えた。汚れ放題のその車に、胸がきりきりと痛む。
「じゃあ、入りますよ」
保が鍵を差し込もうとしたオートロックシステムを見て、泰三が言った。
「ここ、カメラが付いてるのか」
よく見ると、鍵の差し込み口の上に小さな窓があった。
「そう言えば、インターホンに付いてるモニターで、顔が確認できるんやったわね」
何度か訪れたことのある康代の部屋を思い出し、保に確認する。
「ええ。映りはあまりよくないですけど、顔ははっきり認識できますよ」
「康代さんが、顔を確認した上で解錠したとしたら、犯人は彼女が警戒心を抱かなかった人物ってことになるな」
泰三が言った。
「せやけど、誰かがオートロックを開けた隙に、一緒に入り込むことは可能なんよ。うちにも時々、へんてこなセールスマンとか来たりするし」
私は泰三の顔を見ながら答えた。
「そうですね」
保は言いながら、鍵を回した。自動ドアが静かに開く。
「お早うございます」
マンション内に一歩入ると、管理人室の小窓から中年の男性が顔を覗かせた。
「お早うございます。その節はどうも」
保が頭を下げた。その男性は康代のマンションの管理人で、私も何度か顔を会わせたことがある。
「おや、伊藤さんの弟さんですね。この度はどうも……」
小窓の向こうで彼も軽く頭を下げる。
「管理人さんですか?」
泰三が尋ねる。管理人は、ええ、と戸惑った様子で頷いた。
「突然、失礼しますが、ひとつお聞きしたいことがあるんです」
泰三の言葉に、彼は頷いた。
「康代さんが亡くなられた日のことなんですが、彼女の部屋を尋ねてきた人物を見られませんでしたか?」
管理人は、困ったような表情を浮かべると、ゆっくりと口を開いた。
「そのことは警察の方にも聞かれたんですが、あの日の勤務は午前中だけでして。午後からのことは、さっぱりわからないんですよ」
「そうですか……。いや、どうもありがとうございました」
泰三が少し悔しそうな表情でこちらを見る。私達は頷いて、エレベーターへと向かった。
(2)
エレベーターが5階に着く。保が合鍵でドアを開けた。
「散らかってますね」
先に中に入った保が、呆れたように言う。私達も靴を脱いで上がると、保がいる居間へと廊下を進んで行った。
康代は綺麗好きで、廊下はいつもピカピカにされていたが、今はあちこちに埃が転がり、ひどい状態になっていた。ヘビースモーカーの隆弘は、換気もろくにしていなかったらしく、煙草臭さも残っている。
「ソファのカバーはかけられたままになってるんやな」
居間を覗いて、泰三が言った。
「ええ。義兄も外されへんかったんと違いますか? 姉の遺体があった場所ですからね」
私達は、黙ったまましばらくそこに立っていた。現場に来たのはいいが、何からどう調べたらよいものやら、見当もつかない。
「盃はどこに置いてあったんやろう」
泰三が保に尋ねた。
「さあ、僕が来た時には既に現場検証も終わってましたからね。ただ、ソファの下って聞いてます」
保が答える。
「うつ伏せに倒れてはったんよね」
私の質問に、保が頷いた。
「後ろから首を絞められたってことは、当然ですけど、犯人に対して背を向けていたってことになりますね。ネクタイの交差位置が、ちょうど首の真後ろにあったようですから」
「逃げようとしたんやろか?」
泰三が腕を組む。
「抵抗した痕はなかったって話やし……。ねえ、私が康代さんの役をやるから、泰三、犯人の役をやってみてよ」
私の提案に、泰三は首を傾げた。
「どういうことや?」
「せやからね、犯人がここを訪ねてきた状況を考えてみるんよ」
「ほんなら、俺は一旦外に出て、玄関のチャイムを鳴らしたらええんか?」
私は頷いた。
「なるほど。そうすれば、姉がどんな状況で首を絞められたか、何か手掛かりが得られるかもしれないですね」
保も頷く。
「じゃあ、俺、外に行くわ」
泰三が小走りに玄関に向かう。私は、インターホンの前で待機した。
チャイムが鳴り、インターホンを取り上げる。泰三の声を確認して、私は玄関に向かった。保は応接間で様子を見ている。
「どうぞ」
ドアを開ける。
「失礼します」
学芸会のような下手くそな演技をして、泰三が中に入ってきた。
私はスリッパを出すと、上がるように促した。
「どうぞ、お上がり下さい」
泰三が靴を脱いでスリッパに履き替えるのを確認した後、私は彼の前を進み、応接間へと続くドアを開けた。
「お入り下さい」
泰三は、私の声に従い、前を通り過ぎて応接間へと入って行く。
「ソファへどうぞ」
私が言うと、彼は少し会釈をして、カバーがかかったままのソファに腰掛けるふりをした。
「ダメですね」
その様子を見ていた保が言った。
(3)
「これでは、後ろから姉の首を閉めることはできない」
確かに、私が泰三に背を向けたのは、廊下を進む時だけだった。
「ソファに犯人が座ってもうたら、康代さんが倒れ込むことはできへんしな」
泰三も言う。私達は首を傾げた。
「康代さんも、ソファに座ろうとしたんちゃうか?」
しばらくして、泰三が顔を上げた。
「どういうこと?」
私が聞き返すと、保が口を開いた。
「既に座っている犯人の隣に座ろうとしたってことですね?」
「そうなったら、康代さんは犯人に背中を向けることになるやろ?」
さすがにソファに座ることは出来ず、泰三は食卓の椅子を2つ持ってきた。
「犯人が奥に座るやろ?」
ソファに見立てた椅子に、泰三が腰掛ける。
「そして、康代さんが隣に腰掛けようとする」
泰三の指示に従い、私は開いている席に腰を下ろそうとした。
「この時、立ち上がって康代さんの首にネクタイを掛けた」
彼が私の首を絞めるふりをする。保が首を横に振りながら、口を挟んだ。
「それも、ちょっと……。だって、それやったら、姉は仰向けにソファに倒れ込むことになるでしょう?」
「そうか」
泰三は、残念そうに椅子に座り込んだ。
「康代さんが奥に入ろうとしたとか」
「お客さんを置いて奥に入ることはないでしょう?」
泰三に向かって、私は言った。
「お客さんにお茶も出さなあかんし、普通は手前に座るんちゃう?」
「犯人が座らへんかったとしたら?」
保が私達の顔を見て尋ねた。
「姉が、犯人にソファに座るよう言いますよね。でも、犯人は座らずにソファの手前に立っていた」
私達は頷いた。
「いちいち、お客さんが座ったかどうかなんて、確認しないですよね、普通」
「そう言われれば、そうやね。席をすすめたら、すぐお茶を用意しに行くわ」
私は、保を見ながら言った。
「姉も、犯人が座ったかどうかを確認せずに、キッチンに向かったんやないでしょうか」
「そうなると、確かに犯人に背を向けることになるなあ」
保の言葉に、泰三が頷いた。
「でも、それやったら、やっぱり仰向けに倒れ込むんと違うかなあ」
私は顎に手を当てながら、首を傾げた。
「犯人は、ソファの手前に立ってたわけやろ? その犯人に背を向けるってことは、ソファに対しても、背を向けるってことにならへん?」
「そうか。康代さんをソファに倒そうと思ったら、引き倒す状態になるわけやな」
泰三の言葉に、保は腕を組んだ。
「姉がソファにうつ伏せで倒れ込むには、姉がソファの方を向いて立ち、その後ろに犯人が立つ、という位置関係が必要なんですね」
「やっぱり、康代さんが奥に座ろうとした、って考えないとその位置関係は無理なんちゃうかな」
泰三がつぶやくように言う。
「ということは、康代さんがお茶を出した後やったんかな、殺されたん」
私の言葉に、保が首を横に振った。
「警察の話では、お茶をいれたりした形跡はなかったらしいですよ」
「ほんならやっぱり、犯人が入ってきてすぐってことか」
私は溜息をついた。
「お茶も出さずにソファの奥に座ろうとしたってことは、康代さんにとって、よほど気を使わなくて済む相手やったってことになるなあ」
泰三が髪をかきあげながら言う。
「私の時は、康代さん、奥に座らせてくれはったしなあ」
「僕はほとんど来たことはなかったんで……。でも、前に来た時は、確か奥に座らせてもらった気がするんですよねえ」
私と保は、顔を見合わせて頷きあった。
「俺も、美沙子と一緒にしか来たことないしなあ」
泰三が困ったように言う。康代がそこまで気を使わずに済んだ相手。やっぱり、隆弘しかあり得ないのだろうか。私達は黙り込んだ。
「まあ、細かいことはあやふややけど、犯人と康代さんの位置関係がわかったってことで、今のところはよしとせえへんか?」
泰三が口を開いた。
「そうですね。他の現場も見に行きましょう。何か気がつくことがあるかもしれへんし」
保も同意する。
「わかったわ」
私は頷いた。