第3章
(1)
翌朝、ぼうっと信号を待っていると、目の前にパトカーが停まった。
「水谷さん」
声をかけられ、顔を上げる。パトカーの助手席からは、見知った顔が微笑んでいた。
「あら、お早うございます」
それは、以前、康代がひったくりに遇った際、被害届を受理してくれた安藤という年配の警官だった。
「お仕事ですか?」
彼の隣では、若い警官がハンドルを握っている。
「ええ。そうなんです」
私は微笑んだ。
「そうそう、先日のひったくりの犯人が捕まりました。そのことを報告させていただこうと思っていた矢先に、とんでもないことになってしまって……」
康代のことを言っているのだろう。私は頷いた。
信号が青に変わったが、尋ねたいことがあったので、渡るのを止めた。
「それで、康代さんを殺した犯人のことは何か?」
「全力で捜していますよ。実は、一報を受けて現場に駆け付けたのは、自分達だったんです。なあ、鈴木」
安藤が運転席の若い警官に声をかける。鈴木と呼ばれたその警官は、私の方を見て軽く頭を下げた。
「知っている方だっただけに、悔しい思いをしました」
安藤は神妙な面持ちでそう言った。
「今のところ、犯人は顔見知りの可能性が強いと思われますね」
「顔見知りですか?」
安藤が頷く。
「ドアをこじ開けられた様子はありませんし、部屋の中も荒らされていませんでした。抵抗した様子もありませんでしたしね」
「そうなんですか」
そう言われてみると、彼女の家では、ソファのある応接間に行くのに長い廊下を通らなければならない。知らない人物を奥まで通すとは考えにくかった。
「それから、首を絞めるのにはネクタイが使われたようです。絞められた痕と付着していた繊維から、そう判断されました」
私は首を傾げた。
「さっき、抵抗した痕はなかったっておっしゃいましたけど、首を絞められた時にも、抵抗しなかったってことですか?」
「後ろから絞められたんじゃないでしょうか。ソファには、うつ伏せの状態で倒れておられましたから」
安藤は辛そうにそう言った。
「後ろからですか」
犯人の卑劣さを感じて、私は唇を噛んだ。
「犯人は、絶対に捕まえますよ。水谷さんも、何か思い出されたことがありましたら、すぐにご連絡下さいね」
安藤が表情を少し和らげて私の顔を見る。
「わかりました。よろしくお願いします」
そう言ったところで、再び信号が青に変わった。
「それじゃあ、私、行きますので」
「ええ。お引き止めしてしまって、申し訳ありませんでしたね。では」
パトカーが去って行く。私はバス停をめざして、横断歩道を渡り始めた。
(2)
「配達の前に和田のアパートに寄ってみよう」
「ええ」
私は頷いた。午前11時。書店はとっくに始まっている。
「和田が無断で休むなんてこと、今まで一度もなかったんだけどなあ」
ハンドルを切りながら、店長が首を傾げる。
「昨日は何にもおっしゃってなかったんですけどねえ」
私は顎をさすりながらつぶやいた。
「携帯電話もつながらないんだ。家に電話をしても出ないしねえ」
「おかしいですね」
和田は、のんびりしてはいるが責任感は強く、時間にもきちんとしていた。
「酒でも飲んで、ぐっすり寝込んでいるのかもな」
店長が微笑む。私もつられて微笑んだ。
道を曲がると、正面に古いアパートが見えてくる。
「相変わらずボロいなあ」
店長が呆れたように言った。
「こんな所に住んでちゃあ、彼女もできないわけだ」
「あはは、確かにそれは言えてますねえ」
笑っているうちに、車はアパートの駐車場に着く。
「車はあるなあ」
和田は車にはお金をかけているらしく、黒い外車はピカピカに磨き上げられている。
「ということは、やっぱり家にいるんだね」
車を降りながら店長がつぶやく。
「みたいですね」
私も答えながら車のドアを閉めた。
(3)
「ああ、ここだ、ここだ」
厚紙で出来ている表札を見て、店長が言う。そこには手書きで「和田」と書かれていた。
「おい、和田、俺だよ」
店長がドアを叩く。古いアパートは、呼び鈴さえ付いていなかった。
「あれ、ドアに鍵がかかってないぞ」
店長が私の方を見ながら言った。
「1階やっていうのに、不用心ですね」
胸騒ぎがして店長の顔を見返す。
「和田、いるのか」
店長がドアを開けて中に声をかけるが、何も応答はない。
「入ってみよう」
言われて頷くと、私達は中へと足を踏み入れた。
入ってすぐの小さいキッチンは、足の踏み場もないくらい散らかっていた。生ゴミの嫌な臭いも漂っている。男の一人暮らしなんて、こういうものなのだろう。
私が、半ば呆れ気味に辺りを見回していると、突然大声が聞こえた。
「わ、和田!」
「どうされたんですか?」
声が聞こえた部屋を覗く。そして、店長が差した指の先を見た。
「えっ、和田君……嘘……」
膝が震えて立っていられない。私は、その場に座り込んだ。
店長の指先には、既に事切れた和田が、万年床の上にうつ伏せの状態で横たわっていた。
(4)
家に帰ると、私はどさっとソファに座り込んだ。
あれから警察に連れて行かれた私達は、根掘り葉掘り、色々なことを質問された。
「同一犯って、ほんまかなあ」
首に巻いていたスカーフを外してソファの背に掛けると、目を閉じた。警察で飯塚刑事に言われた話を思い出す。
和田は、何者かに背後からネクタイ様のもので首を絞められたそうだ。部屋は荒らされておらず、ドアの鍵もこじ開けられた様子はなかった。
死亡推定時刻は、昨日の午後9時頃。特に抵抗した様子もなく、顔見知りの犯行である可能性が高いとのことだった。
『後ろから首を絞められている点や、ネクタイを利用している点から考えて、伊藤康代さん殺害と同一犯である可能性が高いですね』
飯塚刑事は、そう説明した。顔見知りという点も考え合わせると、犯人は康代と和田に共通する人物ということになる。
『私しかいませんね』
私がそう言うと、彼はいやいやと手を振った。
『あなたのアリバイは、私自身が保証しますよ。ちょうど、我々がお宅を訪ねた頃に殺害されていますからね』
たしかにそうだ。私はほっと胸をなでおろした。
『何か気がつかれたことがありましたら、ご連絡下さいね』
前と同じようなことを言われた後、私は無事釈放された。
それにしても、何で私の身近な人達が次々と殺されていくんだろう。
やり切れない思いで、足を抱え込み、テーブルに置かれた新聞に目をやる。週刊誌の広告に書かれた見出しを見て、私は思わず抱えていた足を下ろした。
「どういうことよ」
新聞を手にして見出しを見直す。そこには「殺害された『不貞妻』の本性」と書かれており、目に黒いラインを引かれた康代の写真が載せられていた。
「不貞妻って……」
思いも掛けない言葉に愕然とする。
「康代さんが、そんなわけないやん」
悔しさのあまり、私は新聞を握りしめた。