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干支盃  作者: 深月咲楽
2/20

第2章

(1)


「大変だったわねえ」

 康代の葬儀が終わった翌週の月曜日、パート先に着くと、店長の奥さん、横山逸子が優しく声をかけてくれた。

 この本屋は、横山夫妻が一から築き上げた店だ。決して大きくはないが、様々な工夫を凝らすことで、不景気にも関わらずかなり繁昌している。

「いえ、こちらこそ、勝手言うて申し訳ありませんでした」

 私は頭を下げた。

「あまり無理しないようにね、って言いながら何なんだけど、本の配達、和田君と一緒に行ってもらえるかなあ。ちょっと件数が多いもんだから」

「わかりました」

 うちの本屋は配達もやる。これも工夫のひとつだ。

 このあたりは、道路網は整備されているが、バスや鉄道といった交通機関は今一つ整備されていない。お年寄りや、子供が小さくて車での移動が困難なお母さん方をターゲットに、本の通信販売のようなことをやっているのだ。

 初めの頃は、注文もぼちぼちといったところだったが、最近では驚くほど利用者が増えた。配達を主に受け持っている契約社員の和田道彦は、一日中、ワゴン車に乗って各地を走り回っている。

 私は「信文堂」と白抜きされた紺色のエプロンを着け、大急ぎで駐車場へと向かった。

「お早うございます」

 ワゴン車に本を詰め込んでいる和田に声をかけると、彼は手を止めて振り返った。

「あ、お早うございます」

「今日は、一緒に回らせてもらうことになってん。よろしくね」

「こちらこそ」

 和田は少し微笑むと、ペコリと頭を下げた。

「このひと箱積み込んだら、終わりですから。先に乗り込んでてもらえますか?」

「ええ。わかったわ」

 私は頷くと、助手席に乗り込んだ。

 少しして、和田が運転席のドアを開ける。

「しまった。リスト、忘れて来た」

 和田はドアを開けたまま、大慌てで車の後ろに回り込んだ。

 彼は、そののっそりした風貌と同じく、行動や口調ものっそりとしている。本人は気にしているようだが、この口下手なところが誠実そうで好感が持てると、私は思っている。

「すみません、どんくさくて。じゃあ、今度こそ行きましょう」

 和田が、照れたように笑いながら、運転席に乗り込んだ。


(2)


「そろそろ、お昼にしましょうか。いい時間になったでしょ」

 言われて時計を見ると、もうすぐ1時になろうとしている。

「ほんまやね。全然気がつかへんかったわ。15件くらい回ったのかな?」

 私は、リストにチェックされた印を数えながら言った。

「そうですね。今日は特に多いんですよ。あと、25件くらいあるでしょう?」

 リストの2枚目を見ると、まだかなりの名前が書き込まれている。

「うわあ。気が遠くなりそうやね」

 思わず目を閉じる。隣で和田が、楽しそうに笑った。

「水谷さん、ウナギでもいいですか? 俺、うまい店、知ってるんですけど」

 和田が尋ねてきた。

「いいねえ。ウナギ大好きよ」

 私が答えると、彼は待ってましたとばかりに、スピードを上げた。

「実は今朝、朝飯食ってないんですよ。寝坊しちゃって」

「そら、お腹も空くわねえ」

「ええ。11時くらいから、今日の昼はウナギだって決めてました」

 キキキッと音を鳴らしながら、車は小さなウナギ屋の駐車場に入っていった。

「到着!」

 サイドブレーキをかけると、和田はもどかしそうにシートベルトを外す。私も急いでシートベルトを外して、ドアを開けた。


(3)


「ちわーっす! おばちゃん、久しぶり」

 和田が手慣れた様子でのれんをくぐると、店の奥から年配の女性が顔を出した。

「あら、いらっしゃい。久しぶりだねえ。奥、開いてるわよ」

「そう、じゃあ、そっちに行くよ」

 和田は、私の方をちらっと振り返ると、奥に向かって歩き出した。

「あら、彼女? あんたも隅に置けないねえ」

 和田に「おばちゃん」と呼ばれたその女性は、冷やかすように言いながらグラスを手にする。

「そんなんじゃないって。同じ職場の人だよ。配達でこっちの方に来たから……」

 顔を赤くして反論する和田をまあまあと制して、彼女はお水の入ったグラスをテーブルに置いた。

「ご注文は?」

「ウナ丼2つ、でいいですか?」

「ええ」

 私は微笑みながら頷いた。

「じゃあ。ごゆっくり」

 年配の女性がにこやかに去っていくと、和田は申し訳なさそうに言った。

「すみません、本当に。昔っから、早とちりがすごくって。あ、学生時代にお世話になった、下宿の大家さんなんですよ。何でも、ご主人に先立たれたとかで。このお店も、ご主人が残されたものらしいです」

「そうやったの。この辺ってことは、和田君、橘経済大学の出身なの?」

 和田は、手にしたグラスを置きながら頷いた。

「そうなんです。入れるところが、この大学くらいしかなくて。実家は広島なんですけどね。学生時代から信文堂でバイトしてて、卒業してそのまま社員にしてもらったんです」

「ふうん。広島から茨城か。ご両親も淋しいわね」

「さあ、どうですかね。僕、落ちこぼれの出来損ないで、半分、見捨てられてましたから。水谷さんは、実家、大阪なんですよね?」

「そうよ。でも、うちも見捨てられた子やから、誰も淋しいなんて思ってくれてへんわ」

 顔を見合わせて笑ったところで、ウナ丼が出てきた。

「お待ちどうさま。ひと切れずつ、サービスしておいたからね」

「ありがと、おばちゃん」

 和田が、ひとなつっこい笑顔で割り箸を手にする。

「どういたしまして。あんたは、私の息子みたいなもんだからね。……あ、いらっしゃい」

 ちょうどそこにお客さんが入ってきた。反射的にドアの方を見る。そこには知った顔があった。

「あら、水谷さんじゃないの?」

 以前住んでいた社宅で一緒だった、「スピーカー」こと柳井順子と、その仲間達だ。

「ご無沙汰してます」

 やばい連中に会っちゃったと思いながらも、私は笑顔でご挨拶した。長年の社宅生活で、苦手な人ともにこやかに会話ができる技を習得している。

「いいご身分よねえ。うらやましいわあ。お友達が亡くなったばかりだっていうのに、こんな若い男性とおふたりでお食事なんて」

「いま、パートの途中なんです。こちらは、そこの社員の方です」

 身に着けている信文堂のエプロンを指差しながら微笑む。

「あら、そう。そりゃ、そうよねえ。マンションのローンだって大変でしょうからねえ。浮気なんて、してる余裕もないわよねえ」

 先輩諸氏を差し置いて、うちがマンションを購入したため、色々言われていることはよく知っていた。こんな時は大人しくしておくに限る。私は何も言わず、ただ微笑み返しておいた。

 スピーカーは勝ち誇ったように鼻を膨らませると、後ろで愛想笑いを振りまくとりまき達を引き連れて、反対側のコーナーへと歩いていく。

 私は、その後ろ姿にあかんべえをし、気持ちを落ちつけようとお水を手にした。

「すみません、まずかったですね」

 和田が声をひそめて謝ってくる。

「ううん、気にせんといて。こんなこと、しょっちゅうなんよ。あの人、主人の会社の課長さんの奥さんでね、社宅では最古参なのよ。下手に逆らうと、主人連中が会社で色々言われるもんやから、みんなへいこらしてはんねん。――あ、ごめん。こんな話、面白くも何ともなかったわね」

 私が謝ると、和田は声をひそめて言った。

「主婦っていうのも、色々大変なんですねえ」

 彼の真面目な顔に、私は思わず吹き出した。

「ほんまにねえ。さあ、冷めてしまわんうちに、いただきましょ」

 明日には、あることないことひっつけて、社宅中に私の噂が広まるのだろう。そんなことを思いながら、私は勢いよく割り箸を割った。


(4)


「あの、先日亡くなられた方なんですけど」

 午後の配達が始まるとすぐ、和田が遠慮がちに話しかけてきた。

「康代さんのこと?」

「ええ。水谷さんのお友達の……」

「ああ、何?」

 私が尋ねると、彼は少し迷っていたが、やがて話し始めた。

「関西弁、話されませんでしたか?」

「話してはったわよ。彼女はもともと奈良の出身やから……」

 私が答えると、彼はまた質問してくる。

「新宿とか、時々出かけられたりしてらっしゃいませんでしたか?」

 質問の意味がわからず、私は和田の顔を見た。

「康代さんのこと、知ってるの?」

「いえ、そういうわけじゃないんです」

 和田が慌てた。

「テレビで顔写真を見たら、知っている人によく似てたんで……」

「そう」

「でも、名前が違ったんですよ。それで、確認だけと思って」

 和田が車線を変更しながら言う。

「なるほどね」

 私は頷いた。

「活動的な人やったし、ちょくちょく東京には出てはったみたいやけど。それが新宿かどうかまでは、私にもわかれへんわ」

 私の答えに、和田は軽く微笑んで頷いた。

「そうですよね。変なこと聞いてすみません」

 窓の外には、何回か見たことのある景色が走り去って行く。この道は、康代と最後に食事をした時にも通った道だった。

 ぼうっと康代のことを考えていると、突然クラクションの音がして、我に返った。

「びっくりした、何?」

 険しい顔をした和田に尋ねる。

「驚かせちゃってすみません。前の車が、あんまりトロトロ走ってるんで、腹が立っちゃって」

 私はサイドミラーを覗いて、今抜かしたばかりの車を確認した。白い軽乗用車が、後ろの方へと引き離されて行く。

「あの車、かなりゆっくり走ってるわねえ」

「ええ。法定速度ぴったりで走るなんて、信じられないですよ。流れってもんがありますからね。古い型の車だし、傷だらけだから、ガタが来ててスピードが出ないのかもしれないけど」

 和田はそう言って笑った。

「ほんまやね。本人は安全運転のつもりでも、周りには迷惑ってこと、あるもんねえ」

 私も微笑んだ。

「さあ、頑張って配達しちゃいましょう。それぞれの家が近いですから、件数は多いですけど意外と早く終わるかもしれないですよ」

「そう。それやったら助かるわね」

 私は膝に置いていたリストを手にし、配達先の住所に目を通した。


(5)


「ほんまにもう、柳井のスピーカーおばさん、そういうこと言うねんで」

 少し遅い夕食を食べながら、私は今日のウナギ屋での出来事を泰三に聞かせていた。

「柳井課長も大概やからなあ」

 泰三が、ほうれん草のおひたしを口に運びながら頷く。

「まあ、似たもの夫婦やと思って、笑っといたれや」

「全然、笑えへん」

 呑気な答えに憤慨する。

「そんなに鼻の穴、膨らますなて。興奮したメスゴリラみたいやで」

「泰三にだけは言われたないわ」

 子供の頃、「ゴリロン」と呼ばれていたという夫の顔を見ながら、言い返す。

 と、その時、来客のチャイムが鳴った。

「誰やろ?」

 時計を見ると、9時半を少し過ぎている。

 立ち上がり、インターホンを手にする。聞こえて来たのは、以前、康代のことを尋ねてきた飯塚刑事と安岡刑事の声だった。オートロックを解錠してインターホンを置く。

「刑事さんやって」

 泰三の方を向いて言い、私は玄関へと向かった。

 チャイムがもう一度押されると、チェーンを外してドアを開ける。ヨレヨレのスーツは健在だった。

「おくつろぎのところ、申し訳ありません。実は、二、三、お伺いしたいことができまして」

「そうですか。ここでは何ですから、中へ……」

 私が言うと、2人は手を振って答えた。

「いえ、すぐにすみますから、玄関で失礼させていただきます」

 飯塚刑事はそう言いながら手帳を開いた。

「伊藤康代さんのことなんですが」

 私は黙って頷いた。

「不特定多数の男性と交際されていたとか、そういった話は聞かれたことはありませんか?」

 この人は、いったい何を言っているんだろう。私は思わず、その顔を見つめた。

「どういう意味ですか?」

「テレクラを利用されていたという話は……」

「ちょっと待って下さい」

 飯塚刑事の言葉を遮り、聞き返す。

「不特定多数とか、テレクラとか、一体、何のお話をしてはるんですか? 康代さんに限って、そんなことあるわけないやないですか」

 私の大声を聞きつけ、泰三も玄関先までやって来た。その姿を見て、二人の刑事は軽く会釈する。泰三も、何も言わずに頭を下げた。

「伊藤康代さんの件で、ご質問をさせていただいていたところなんです」

 安岡刑事が、泰三に説明する。

「ええ、聞こえていました」

 泰三が頷いた。

「実は、電話の通話記録を調べていたら、康代さんが、とあるテレクラを頻繁に利用していたことがわかったんですよ」

 飯塚刑事が、私の顔を見ながら言う。

「そんなこと……。何かの間違いと違いますか」

 私の反論を聞き流し、飯塚刑事は泰三に話しかけた。

「会社の方で、何かそういった噂話など、聞かれたことはありませんか?」

 泰三は首を傾げながら答えた。

「さあ。何せ僕は、そういった類の話には疎いもんですから。よくわかりませんねえ」

「そうですか」

 飯塚刑事は、ほとんど表情を変えずに手帳を閉じた。

「何か思い出されましたら、すぐご連絡下さい。番号は以前お渡ししていましたね」

 私が頷くと飯塚刑事も頷き返し、挨拶をして私達に背を向けた。

「あ、それからもうひとつ」

 飯塚刑事が振り返る。コロンボか、お前は。

 私はため息混じりに尋ねた。

「何ですか?」

「康代さんから、新宿に行かれた時のお話など、聞かれたことはありませんでしたかねえ」

「新宿ですか?」

 聞き返すと飯塚刑事は頷いた。

「康代さんが、男性と2人で歩いていらっしゃるのを、目撃した人がいるんです」

 そういえば今日、和田も新宿がどうとか言っていた。不思議に思いながら、私は首を横に振った。

「いえ、特に……」

「わかりました。どうもありがとうございました」

 二人の刑事は頭を下げると、今度こそ本当にドアを開けて出て行った。


(6)


「やっぱり、ほんまやったんかなあ」

 放心している私の横で、泰三がつぶやいた。

「何のこと?」

 我に返って尋ねる。

「さっきは知らないって言うたけどなあ、ほんまは会社中で噂になってんねん」

 私が黙っていると、泰三は続けた。

「康代さんが、不特定多数の男と付き合うてたんやないかって」

 私は目を見開いた。

「誰がそんなことを……」

「柳井課長が言うてはってんけどなあ」

 泰三がぽりぽりと頬を掻く。

「柳井課長って、スピーカーのダンナさんよね?」

 眉間に皺を寄せて尋ねる。

「ああ。うちの会社、新宿に支店があるやろ? 柳井課長、出張の時に何度か康代さんを見かけたらしいねんけど、その度に違う男と歩いてたって」

「そんなん、人違いかもしれへんやん」

 私が憤慨して言うと、泰三は溜息をついた。

「今朝、隆弘が出社してくるなり、柳井課長に詰め寄ってなあ。えらい騒動になってん」

「そら、奥さんのことそんな風に言われたら、誰かて怒るわ」

 泰三は、頷いて続けた。

「そしたら、柳井のアホ、隆弘に向かって『お前が欲求不満にさせてたんじゃないの?』とか、ぼけたこと言いくさってなあ」

「はあ?」

 私は驚いて泰三の顔を見た。

「で、隆弘さんは?」

「顔真っ赤にして、泣きそうになってたわ。それで……」

 泰三が言い淀む。私は先を促した。

「俺、思わず柳井のおっさん、殴りつけてもうて……」

 そこまで言うと、泰三は私に頭を下げた。

「あのおっさん、俺の直接の上司やから、ボーナスの査定、下がってしまうかもしれへん。すまん」

 そして、顔を上げると小さな声で言った。

「せやけど、俺、許されへんかってん。隆弘の気持ち考えたら、居ても立ってもいられへんようになってもうて」

 私は思わず、泰三に抱きついた。

「泰三、大好き」

「許してくれんか?」

 彼は情けない声で尋ねる。

「あったりまえやんか。知らん顔してる方が許さへんよ。あー、すっきりした」

「お前はほんまに、話がわかるわ」

 泰三が、嬉しそうに私を抱き締め返す。私は、なぜか込み上げてくる涙を、泰三の肩でそっと拭った。

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