第2章
(1)
「大変だったわねえ」
康代の葬儀が終わった翌週の月曜日、パート先に着くと、店長の奥さん、横山逸子が優しく声をかけてくれた。
この本屋は、横山夫妻が一から築き上げた店だ。決して大きくはないが、様々な工夫を凝らすことで、不景気にも関わらずかなり繁昌している。
「いえ、こちらこそ、勝手言うて申し訳ありませんでした」
私は頭を下げた。
「あまり無理しないようにね、って言いながら何なんだけど、本の配達、和田君と一緒に行ってもらえるかなあ。ちょっと件数が多いもんだから」
「わかりました」
うちの本屋は配達もやる。これも工夫のひとつだ。
このあたりは、道路網は整備されているが、バスや鉄道といった交通機関は今一つ整備されていない。お年寄りや、子供が小さくて車での移動が困難なお母さん方をターゲットに、本の通信販売のようなことをやっているのだ。
初めの頃は、注文もぼちぼちといったところだったが、最近では驚くほど利用者が増えた。配達を主に受け持っている契約社員の和田道彦は、一日中、ワゴン車に乗って各地を走り回っている。
私は「信文堂」と白抜きされた紺色のエプロンを着け、大急ぎで駐車場へと向かった。
「お早うございます」
ワゴン車に本を詰め込んでいる和田に声をかけると、彼は手を止めて振り返った。
「あ、お早うございます」
「今日は、一緒に回らせてもらうことになってん。よろしくね」
「こちらこそ」
和田は少し微笑むと、ペコリと頭を下げた。
「このひと箱積み込んだら、終わりですから。先に乗り込んでてもらえますか?」
「ええ。わかったわ」
私は頷くと、助手席に乗り込んだ。
少しして、和田が運転席のドアを開ける。
「しまった。リスト、忘れて来た」
和田はドアを開けたまま、大慌てで車の後ろに回り込んだ。
彼は、そののっそりした風貌と同じく、行動や口調ものっそりとしている。本人は気にしているようだが、この口下手なところが誠実そうで好感が持てると、私は思っている。
「すみません、どんくさくて。じゃあ、今度こそ行きましょう」
和田が、照れたように笑いながら、運転席に乗り込んだ。
(2)
「そろそろ、お昼にしましょうか。いい時間になったでしょ」
言われて時計を見ると、もうすぐ1時になろうとしている。
「ほんまやね。全然気がつかへんかったわ。15件くらい回ったのかな?」
私は、リストにチェックされた印を数えながら言った。
「そうですね。今日は特に多いんですよ。あと、25件くらいあるでしょう?」
リストの2枚目を見ると、まだかなりの名前が書き込まれている。
「うわあ。気が遠くなりそうやね」
思わず目を閉じる。隣で和田が、楽しそうに笑った。
「水谷さん、ウナギでもいいですか? 俺、うまい店、知ってるんですけど」
和田が尋ねてきた。
「いいねえ。ウナギ大好きよ」
私が答えると、彼は待ってましたとばかりに、スピードを上げた。
「実は今朝、朝飯食ってないんですよ。寝坊しちゃって」
「そら、お腹も空くわねえ」
「ええ。11時くらいから、今日の昼はウナギだって決めてました」
キキキッと音を鳴らしながら、車は小さなウナギ屋の駐車場に入っていった。
「到着!」
サイドブレーキをかけると、和田はもどかしそうにシートベルトを外す。私も急いでシートベルトを外して、ドアを開けた。
(3)
「ちわーっす! おばちゃん、久しぶり」
和田が手慣れた様子でのれんをくぐると、店の奥から年配の女性が顔を出した。
「あら、いらっしゃい。久しぶりだねえ。奥、開いてるわよ」
「そう、じゃあ、そっちに行くよ」
和田は、私の方をちらっと振り返ると、奥に向かって歩き出した。
「あら、彼女? あんたも隅に置けないねえ」
和田に「おばちゃん」と呼ばれたその女性は、冷やかすように言いながらグラスを手にする。
「そんなんじゃないって。同じ職場の人だよ。配達でこっちの方に来たから……」
顔を赤くして反論する和田をまあまあと制して、彼女はお水の入ったグラスをテーブルに置いた。
「ご注文は?」
「ウナ丼2つ、でいいですか?」
「ええ」
私は微笑みながら頷いた。
「じゃあ。ごゆっくり」
年配の女性がにこやかに去っていくと、和田は申し訳なさそうに言った。
「すみません、本当に。昔っから、早とちりがすごくって。あ、学生時代にお世話になった、下宿の大家さんなんですよ。何でも、ご主人に先立たれたとかで。このお店も、ご主人が残されたものらしいです」
「そうやったの。この辺ってことは、和田君、橘経済大学の出身なの?」
和田は、手にしたグラスを置きながら頷いた。
「そうなんです。入れるところが、この大学くらいしかなくて。実家は広島なんですけどね。学生時代から信文堂でバイトしてて、卒業してそのまま社員にしてもらったんです」
「ふうん。広島から茨城か。ご両親も淋しいわね」
「さあ、どうですかね。僕、落ちこぼれの出来損ないで、半分、見捨てられてましたから。水谷さんは、実家、大阪なんですよね?」
「そうよ。でも、うちも見捨てられた子やから、誰も淋しいなんて思ってくれてへんわ」
顔を見合わせて笑ったところで、ウナ丼が出てきた。
「お待ちどうさま。ひと切れずつ、サービスしておいたからね」
「ありがと、おばちゃん」
和田が、ひとなつっこい笑顔で割り箸を手にする。
「どういたしまして。あんたは、私の息子みたいなもんだからね。……あ、いらっしゃい」
ちょうどそこにお客さんが入ってきた。反射的にドアの方を見る。そこには知った顔があった。
「あら、水谷さんじゃないの?」
以前住んでいた社宅で一緒だった、「スピーカー」こと柳井順子と、その仲間達だ。
「ご無沙汰してます」
やばい連中に会っちゃったと思いながらも、私は笑顔でご挨拶した。長年の社宅生活で、苦手な人ともにこやかに会話ができる技を習得している。
「いいご身分よねえ。うらやましいわあ。お友達が亡くなったばかりだっていうのに、こんな若い男性とおふたりでお食事なんて」
「いま、パートの途中なんです。こちらは、そこの社員の方です」
身に着けている信文堂のエプロンを指差しながら微笑む。
「あら、そう。そりゃ、そうよねえ。マンションのローンだって大変でしょうからねえ。浮気なんて、してる余裕もないわよねえ」
先輩諸氏を差し置いて、うちがマンションを購入したため、色々言われていることはよく知っていた。こんな時は大人しくしておくに限る。私は何も言わず、ただ微笑み返しておいた。
スピーカーは勝ち誇ったように鼻を膨らませると、後ろで愛想笑いを振りまくとりまき達を引き連れて、反対側のコーナーへと歩いていく。
私は、その後ろ姿にあかんべえをし、気持ちを落ちつけようとお水を手にした。
「すみません、まずかったですね」
和田が声をひそめて謝ってくる。
「ううん、気にせんといて。こんなこと、しょっちゅうなんよ。あの人、主人の会社の課長さんの奥さんでね、社宅では最古参なのよ。下手に逆らうと、主人連中が会社で色々言われるもんやから、みんなへいこらしてはんねん。――あ、ごめん。こんな話、面白くも何ともなかったわね」
私が謝ると、和田は声をひそめて言った。
「主婦っていうのも、色々大変なんですねえ」
彼の真面目な顔に、私は思わず吹き出した。
「ほんまにねえ。さあ、冷めてしまわんうちに、いただきましょ」
明日には、あることないことひっつけて、社宅中に私の噂が広まるのだろう。そんなことを思いながら、私は勢いよく割り箸を割った。
(4)
「あの、先日亡くなられた方なんですけど」
午後の配達が始まるとすぐ、和田が遠慮がちに話しかけてきた。
「康代さんのこと?」
「ええ。水谷さんのお友達の……」
「ああ、何?」
私が尋ねると、彼は少し迷っていたが、やがて話し始めた。
「関西弁、話されませんでしたか?」
「話してはったわよ。彼女はもともと奈良の出身やから……」
私が答えると、彼はまた質問してくる。
「新宿とか、時々出かけられたりしてらっしゃいませんでしたか?」
質問の意味がわからず、私は和田の顔を見た。
「康代さんのこと、知ってるの?」
「いえ、そういうわけじゃないんです」
和田が慌てた。
「テレビで顔写真を見たら、知っている人によく似てたんで……」
「そう」
「でも、名前が違ったんですよ。それで、確認だけと思って」
和田が車線を変更しながら言う。
「なるほどね」
私は頷いた。
「活動的な人やったし、ちょくちょく東京には出てはったみたいやけど。それが新宿かどうかまでは、私にもわかれへんわ」
私の答えに、和田は軽く微笑んで頷いた。
「そうですよね。変なこと聞いてすみません」
窓の外には、何回か見たことのある景色が走り去って行く。この道は、康代と最後に食事をした時にも通った道だった。
ぼうっと康代のことを考えていると、突然クラクションの音がして、我に返った。
「びっくりした、何?」
険しい顔をした和田に尋ねる。
「驚かせちゃってすみません。前の車が、あんまりトロトロ走ってるんで、腹が立っちゃって」
私はサイドミラーを覗いて、今抜かしたばかりの車を確認した。白い軽乗用車が、後ろの方へと引き離されて行く。
「あの車、かなりゆっくり走ってるわねえ」
「ええ。法定速度ぴったりで走るなんて、信じられないですよ。流れってもんがありますからね。古い型の車だし、傷だらけだから、ガタが来ててスピードが出ないのかもしれないけど」
和田はそう言って笑った。
「ほんまやね。本人は安全運転のつもりでも、周りには迷惑ってこと、あるもんねえ」
私も微笑んだ。
「さあ、頑張って配達しちゃいましょう。それぞれの家が近いですから、件数は多いですけど意外と早く終わるかもしれないですよ」
「そう。それやったら助かるわね」
私は膝に置いていたリストを手にし、配達先の住所に目を通した。
(5)
「ほんまにもう、柳井のスピーカーおばさん、そういうこと言うねんで」
少し遅い夕食を食べながら、私は今日のウナギ屋での出来事を泰三に聞かせていた。
「柳井課長も大概やからなあ」
泰三が、ほうれん草のおひたしを口に運びながら頷く。
「まあ、似たもの夫婦やと思って、笑っといたれや」
「全然、笑えへん」
呑気な答えに憤慨する。
「そんなに鼻の穴、膨らますなて。興奮したメスゴリラみたいやで」
「泰三にだけは言われたないわ」
子供の頃、「ゴリロン」と呼ばれていたという夫の顔を見ながら、言い返す。
と、その時、来客のチャイムが鳴った。
「誰やろ?」
時計を見ると、9時半を少し過ぎている。
立ち上がり、インターホンを手にする。聞こえて来たのは、以前、康代のことを尋ねてきた飯塚刑事と安岡刑事の声だった。オートロックを解錠してインターホンを置く。
「刑事さんやって」
泰三の方を向いて言い、私は玄関へと向かった。
チャイムがもう一度押されると、チェーンを外してドアを開ける。ヨレヨレのスーツは健在だった。
「おくつろぎのところ、申し訳ありません。実は、二、三、お伺いしたいことができまして」
「そうですか。ここでは何ですから、中へ……」
私が言うと、2人は手を振って答えた。
「いえ、すぐにすみますから、玄関で失礼させていただきます」
飯塚刑事はそう言いながら手帳を開いた。
「伊藤康代さんのことなんですが」
私は黙って頷いた。
「不特定多数の男性と交際されていたとか、そういった話は聞かれたことはありませんか?」
この人は、いったい何を言っているんだろう。私は思わず、その顔を見つめた。
「どういう意味ですか?」
「テレクラを利用されていたという話は……」
「ちょっと待って下さい」
飯塚刑事の言葉を遮り、聞き返す。
「不特定多数とか、テレクラとか、一体、何のお話をしてはるんですか? 康代さんに限って、そんなことあるわけないやないですか」
私の大声を聞きつけ、泰三も玄関先までやって来た。その姿を見て、二人の刑事は軽く会釈する。泰三も、何も言わずに頭を下げた。
「伊藤康代さんの件で、ご質問をさせていただいていたところなんです」
安岡刑事が、泰三に説明する。
「ええ、聞こえていました」
泰三が頷いた。
「実は、電話の通話記録を調べていたら、康代さんが、とあるテレクラを頻繁に利用していたことがわかったんですよ」
飯塚刑事が、私の顔を見ながら言う。
「そんなこと……。何かの間違いと違いますか」
私の反論を聞き流し、飯塚刑事は泰三に話しかけた。
「会社の方で、何かそういった噂話など、聞かれたことはありませんか?」
泰三は首を傾げながら答えた。
「さあ。何せ僕は、そういった類の話には疎いもんですから。よくわかりませんねえ」
「そうですか」
飯塚刑事は、ほとんど表情を変えずに手帳を閉じた。
「何か思い出されましたら、すぐご連絡下さい。番号は以前お渡ししていましたね」
私が頷くと飯塚刑事も頷き返し、挨拶をして私達に背を向けた。
「あ、それからもうひとつ」
飯塚刑事が振り返る。コロンボか、お前は。
私はため息混じりに尋ねた。
「何ですか?」
「康代さんから、新宿に行かれた時のお話など、聞かれたことはありませんでしたかねえ」
「新宿ですか?」
聞き返すと飯塚刑事は頷いた。
「康代さんが、男性と2人で歩いていらっしゃるのを、目撃した人がいるんです」
そういえば今日、和田も新宿がどうとか言っていた。不思議に思いながら、私は首を横に振った。
「いえ、特に……」
「わかりました。どうもありがとうございました」
二人の刑事は頭を下げると、今度こそ本当にドアを開けて出て行った。
(6)
「やっぱり、ほんまやったんかなあ」
放心している私の横で、泰三がつぶやいた。
「何のこと?」
我に返って尋ねる。
「さっきは知らないって言うたけどなあ、ほんまは会社中で噂になってんねん」
私が黙っていると、泰三は続けた。
「康代さんが、不特定多数の男と付き合うてたんやないかって」
私は目を見開いた。
「誰がそんなことを……」
「柳井課長が言うてはってんけどなあ」
泰三がぽりぽりと頬を掻く。
「柳井課長って、スピーカーのダンナさんよね?」
眉間に皺を寄せて尋ねる。
「ああ。うちの会社、新宿に支店があるやろ? 柳井課長、出張の時に何度か康代さんを見かけたらしいねんけど、その度に違う男と歩いてたって」
「そんなん、人違いかもしれへんやん」
私が憤慨して言うと、泰三は溜息をついた。
「今朝、隆弘が出社してくるなり、柳井課長に詰め寄ってなあ。えらい騒動になってん」
「そら、奥さんのことそんな風に言われたら、誰かて怒るわ」
泰三は、頷いて続けた。
「そしたら、柳井のアホ、隆弘に向かって『お前が欲求不満にさせてたんじゃないの?』とか、ぼけたこと言いくさってなあ」
「はあ?」
私は驚いて泰三の顔を見た。
「で、隆弘さんは?」
「顔真っ赤にして、泣きそうになってたわ。それで……」
泰三が言い淀む。私は先を促した。
「俺、思わず柳井のおっさん、殴りつけてもうて……」
そこまで言うと、泰三は私に頭を下げた。
「あのおっさん、俺の直接の上司やから、ボーナスの査定、下がってしまうかもしれへん。すまん」
そして、顔を上げると小さな声で言った。
「せやけど、俺、許されへんかってん。隆弘の気持ち考えたら、居ても立ってもいられへんようになってもうて」
私は思わず、泰三に抱きついた。
「泰三、大好き」
「許してくれんか?」
彼は情けない声で尋ねる。
「あったりまえやんか。知らん顔してる方が許さへんよ。あー、すっきりした」
「お前はほんまに、話がわかるわ」
泰三が、嬉しそうに私を抱き締め返す。私は、なぜか込み上げてくる涙を、泰三の肩でそっと拭った。