第1章
(1)
その朝、私はいつものように掃除機をかけていた。
午前7時に夫、泰三を送り出し、大急ぎで朝食を片付けた後、洗濯機を回しながら掃除をする。パートがある日の日課だった。
「あれ?」
かすかに電話の音が聞こえたような気がして振り返ると、点滅する着信ランプが見えた。慌てて掃除機を止める。
やはり電話は、これでもかと電子音を響かせていた。
「はいはい、今出ますよ」
独り言を言いながら、受話器を取り上げる。
「もしもし、水谷です」
「あ、俺や」
泰三の声だった。
「どないしたん? もう、会社、始まってるんと違うの?」
彼が仕事中に電話をくれることなど、滅多にない。私は不思議に思って尋ねた。
「実は、ちょっと大変なことになってるんや」
「大変なこと?」
声をひそめて話す泰三の様子に、私はただならぬ気配を感じた。
「何やの?」
「隆弘の奥さん……康代さんが亡くなりはったらしい」
「え?」
思いがけない言葉に、声を失う。
「とりあえず、細かいことがわかったら、また電話するわ。死因とかも、まだよくわかれへんし。……美沙子、大丈夫か?」
何も言えない私に、泰三が気遣う言葉をかけてくれた。
「うん、大丈夫。ありがとう」
冷静にしようと努めはするが、声の震えは隠せない。
「今日は、パート、休んだ方がええんちゃうかな。お通夜とか、手伝いに行ってもらわなあかんと思うし」
「わかった。今日は休ませてもらうわ。連絡くれてありがとう」
「おう、じゃ、また後でな」
泰三が電話を切ったのを確認すると、そっと受話器を置いた。手が震えているのがわかる。
隆弘というのは、泰三の同僚で、苗字は伊藤という。同期入社の上に、出身が同じ大阪であることもあって、泰三とは大の仲良しだ。そして、そこの奥さん、康代と私も、同じ32歳で子供もいないことから、よく一緒に遊び回っていた。
実は一昨日も、昼食を食べに2人で出かけたところだったのだ。
「何で亡くなりはったんやろう」
私は、スパゲティを美味しそうに頬張る康代の笑顔を思い出しながら、つぶやいた。
(2)
パート先の本屋に電話をし、休ませてもらうよう頼むと、私は大急ぎで身支度を始めた。喪服にしようかと迷ったが、色々ばたばたするだろうし、動きやすい格好にすることにした。グレーのブラウスに、黒いスラックス。
髪の毛をまとめていると、来客のチャイムが鳴った。
「誰よ、この忙しいときに」
秋口のこの時期には、やれエアコンを掃除させろだの、やれ夏布団を洗わせろだのと、いろんな人が訪れる。私はインターホンを手にした。
「どちらさまですか?」
「警察の者です」
意外な答えに驚きながら、私はオートロックの解錠ボタンを押した。しばらくして、今度は玄関のチャイムが鳴る。のぞき穴を覗くと、ヨレヨレのスーツを着た2人の男が立っていた。私はチェーンをかけたまま、そっとドアを開けた。
「恐れ入ります。茨城県警橘署の飯塚です。二、三、お話をお伺いしたいのですが」
年をとった方の男が、ドアのすき間から警察手帳を覗かせた。
「ちょっとお待ち下さい」
一旦ドアを閉めてチェーンを外し、ドアを開ける。2人の刑事は、玄関まで上がってきた。
「私は、同じく橘署の安岡と言います」
もう一人の若い刑事が、手帳を見せながら軽く頭を下げた。
「お話って何ですか?」
思い当たることは何もない。私は小声で尋ねた。
「昨晩、伊藤康代さんが亡くなられたことは、ご存じですか?」
飯塚刑事の問いに、私は答えた。
「ええ。さっき主人から電話がありましたから。実はこれから、伊藤さんのお宅に行ってみようと思っていたところなんです」
飯塚刑事は、ちらっと安岡刑事の顔を見ると、再び口を開いた。
「死亡の状況は、どの辺までご存じですか?」
「いえ、全く。主人もただ、亡くなったとだけ伝えてくれたものですから。細かいことがわかったら、また連絡くれるって」
そこまで言った時、電話の鳴る音が聞こえてきた。
「すみません、ちょっと」
私が飯塚刑事の方を見ると、彼は手で部屋の方を差しながら、
「どうぞ、お待ちしていますから」
と言った。私は頷いて部屋に戻ると、受話器をとった。
「もしもし」
「あ、俺や。どないしたんや、忙しかったんか?」
私は、玄関の方を気にしながら小さな声で答えた。
「今ね、刑事さんが来てはんねん。よくわかれへんねんけど、康代さんのことらしいわ」
「そうなんか」
泰三は厳しい声でそう言うと、困ったように黙り込む。
「どないしたん?」
私は、じれったくなって尋ねた。
「実は、康代さん、どうも殺されはったらしいねん」
「殺された?」
大声で叫び、慌てて声をひそめた。
「殺されたって、どういうこと?」
「俺も、あんまり詳しくはわかれへんねんけど」
受話器の向こうでは、泰三までつられて声をひそめている。
「昨日、隆弘が残業を終えて家に帰ったら、応接間のソファの上で死んではったらしいねん。首を締められてたって」
康代の家には何度かお邪魔したことがあるので、家具の配置はよくわかっている。
応接間に置かれたソファは、何でもイタリア製とかで、綺麗な花柄の、彼女ご自慢の逸品だった。あのソファの上で……。
康代の最期の姿を想像し、胸が締め付けられる思いがした。
「おい、聞いてるんか?」
受話器から聞こえる泰三の声に、ふと我に返る。
「聞いてる。それで、お通夜とかはわかったん?」
込み上げてくる涙を必死でこらえながら、私は尋ねた。
「なんか、今日の夕方には司法解剖が終わるから、それからってことらしいで。隆弘が警察から連絡くれてんけどな、取り乱してもうて、さっぱり要領を得えへんねんや。俺も今日は午前中で仕事を切り上げて、あいつの家に行ってやろうと思ってんねん。心配やからな」
「そうやね。そうしてあげるとええわ。そうか、それやったら、泰三が戻ってくるまで家で待ってるわ。一緒に行こう」
「よし、わかった。ほんなら、後でな」
電話が切れると、私はへなへなとその場に座り込んだ。涙があふれてくる。具体的な状況を聞き、康代の死が、はじめて実感として沸いてきた。
どうして、あんなにいい人が……。
(3)
「奥さん、よろしいですか」
玄関から男の声がする。刑事を待たせていたことを、すっかり忘れていた。
「すみません、すぐ行きます」
私は手にしていた受話器を戻し、ブラウスの袖で涙を拭きながら玄関へと向かった。
「康代さん、殺されはったって、ほんまですか?」
尋ねながら、涙が止まらない。私は、指先で目頭を拭った。
「ええ。本当です。それで、伊藤康代さんの交友関係などについて、お話を聞かせて頂けたらと思ったんです」
安岡刑事が答える。
「彼女を恨んでいた人など、心当たりはないですか?」
飯塚刑事の質問に、私は顔を上げて答えた。
「いいえ。康代さんは、本当に明るくて優しくて……。恨まれていたなんてこと、あるはずがありません」
「最近、会われたことはありますか?」
今度は安岡刑事が聞いてきた。
「ええ」
私は、鼻をすすりながら頷いた。
「一昨日、一緒にお昼ご飯を食べに行ったばっかりです」
元気な康代の姿が目に浮かぶ。声を詰まらせながらも、わたしは何とか後を続けた。
「隣の町に、美味しいスパゲティ屋さんができたんです。そこに食べに行ってみないかって、誘われて。一昨日は、私もパートがない日やったんで、ご一緒させてもらったんです。私、免許を持ってないもんですから、彼女の車で。あの時は、あんなに元気やったのに」
また涙が込み上げてくる。すると、安岡刑事が尋ねた。
「その時、どんなお話をされたか、覚えていらっしゃいませんか?」
何の話をしたんだろう。一生懸命思い出そうとするが、断片的にしか頭に浮かばない。
「1週間前に、康代さん、カバンをひったくられたんです。その時、私も一緒に歩いていたんですけど、その犯人は捕まったんだろうかとか、そんな話を……」
「ひったくりですか?」
安岡刑事が尋ねる。
「ええ。橘駅前の交番に届けましたから、そちらで聞いていただければ」
「駅前交番ですね」
飯塚刑事が確認する。私は頷いた。
「他に何か?」
思い出そうとするが、混乱した頭は、いっこうに働こうとはしなかった。
「ごめんなさい。今は、何が何だか……。ちょっと思い出せません」
「わかりました」
飯塚刑事が頷く。
「また、お話をお伺いすることもあるかと思いますが、その時はご協力、お願いします」
「ええ」
私は、頷いた。安岡刑事がドアを開けようとしたとき、飯塚刑事が振り返った。
「ちなみに奥さん、昨日の午後5時頃、どちらにいらっしゃいましたか?」
「は?」
ドアの鍵を閉めるため、つっかけを履こうとしていた私は、思わず顔を上げた。
「お気を悪くされないで下さい。一応、全員に聞いて回っているんですよ」
安岡刑事が、慌てて言い訳をする。
「パートに行ってました。水曜日と土日以外は、国道六号線沿いにある信文堂っていう本屋さんで、パートをしているんです。昨日は木曜日ですから、私はお店で働いていました」
「勤務時間の方は?」
しつこいオヤジだと思いながら、飯塚刑事の方を見る。
「朝の9時から夕方5時までです。昨日はお客さんが多かったので、6時近くまでレジを打ってました」
「そうですか、いや、よくわかりました。どうもありがとうございました」
飯塚刑事は、ぺこりと頭を下げた。
「それで奥さん……」
「まだ何か?」
思わずきつい口調で尋ねると、彼はポケットからメモを取り出し、胸のポケットに差してあったボールペンで、何やら書き込んだ。
「何か思い出されましたら、こちらまでご連絡下さい。どんな些細なことでも、結構ですから」
渡されたメモを見ると、電話番号らしき数字の羅列があった。
「わかりました」
「それでは、失礼します」
2人の刑事が、頭を下げて出ていく。私は鍵をかけ、部屋に入った。
メモを手帳にはさみ、ソファに座り込む。涙が、後から後から溢れ出て来た。
(4)
泰三が帰ると、その足で私達は康代のマンションに向かった。伊藤家は、私達よりも半年程早く、マンションを購入している。駅のそばの、とても便利な所だった。
マンションに着き、康代の部屋番号を入力してボタンを押す。少しして男性の声が聞こえた。名前を名乗ると、自動ドアが開く。
マンションの中に入り、エレベーターで5階へ。何度も訪れたことのある場所なのに、何か知らない場所に来てしまったような気がする。
ドアの前まで来てインターホンを押すと、中から若い男性が顔を出した。
「あの、隆弘さんの同僚で、水谷という者です。隆弘さんの様子が気になりまして……」
泰三が説明する。私はその後ろで頭を下げた。
「ありがとうございます。実はまだ、義兄は帰っていないんです。警察の方で、色々話を聞かれているらしくて。多分、もう帰るとは思うんですが……」
その若い男性は答えた。泣いていたらしく、真っ赤な目をしている。
「僕は、康代の弟で高橋保といいます。あの、よろしかったら中へどうぞ」
保はドアを開けながら言った。
「失礼します」
靴を脱いで中に入る。
廊下を奥に進むと、応接間へ繋がるドアは開け放してあった。窓のそばに置かれた康代ご自慢のソファには、グレーのシートが被されている。
「ここから車で少し行った、橘会館って斎場、ご存じですか?」
保に聞かれ、頷く。
「そちらの方で、葬儀を行うことになっています。義兄の両親はもう、会館に行っているんです。もうすぐ、姉の遺体が運ばれるようなんで。僕は、こちらにお越しいただいた方に、そのことを案内するように言われていて」
彼は、私達を奥の座敷に案内すると、座布団を用意してくれた。
「あ、お構いなく。僕らもすぐに会館の方に伺いますから」
泰三の言葉に、保は頭を下げた。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしてしまって」
彼は頭を上げると続けた。
「実は、義兄とは電話で話しただけなんですが、かなり動揺しているようなんです。よろしかったら、義兄に会って慰めてやっていただけませんでしょうか。もう少ししたら、戻ってくると思いますので」
私達は顔を見合わせた。
「わかりました。待たせていただきますよ」
泰三が答えると、保はほっとしたように頷いた。
「失礼ですけど、保さんって、弁護士をやってはる方ですよね」
私の問いかけに、保は驚いたように私の顔を見た。
「康代さんから、よくお話をお聞きしていたんです」
2つ下の弟が、自分に似ず出来がいいんだと、康代はよく楽しそうに話をしていた。
「そうでしたか」
保は頷くと続けた。
「実は、姉と僕とは血のつながりはないんです。僕は、父の後妻の連れ子なんで。でも、両親が亡くなってから、姉は実の弟のように面倒を見てくれて……」
口に手を当て、必死で涙を堪えているようだ。
「そうなんですか。私はてっきり、本当のご姉弟やと思ってました。いつも、気にかけてはったみたいやし」
在りし日の康代を思い出し、私も胸が熱くなった。
「姉には本当に感謝しています。僕が弁護士になれたのも、姉が僕を大学に行かせてくれたからですし」
「たしか、故郷は奈良やったね」
泰三が尋ねると、保は頷いた。
「僕は、大阪の大学に通っていました。今は、東京の方で弁護士をさせてもらっています」
そう言って、彼は大きくため息をついた。
「今年の正月に会ったのが最後でした。まさか、こんなことになるなんて……」
保がぽろぽろと涙を流す。泰三がハンカチを渡しながら、彼の肩に手を置いた。
「辛いやろなあ」
泰三の言葉に、保が畳に突っ伏して泣き崩れる。
その時、後ろの方でドアが開く音がした。涙を拭いながら振り返ると、隆弘が入って来たところだった。
「隆弘、大丈夫か」
泰三が、保の横に座ったまま声をかける。
「泰三、来てくれてたんか。美沙子さんまで。ありがとう」
隆弘の顔は憔悴し切っていた。
座敷まで来ると、彼は座り込み、義弟の背中に手を載せた。
「保君、ごめんな。君のたった1人の肉親を、こんな目に遇わせてもうて」
隆弘に言われ、保が顔を上げる。
「そんなこと……。兄さんと結婚できて、姉さんも幸せやったはずです」
そう言うと、2人は抱き合って泣き出した。見ると、その隣で泰三ももらい泣きしている。
一体誰が康代を……。
カバーを被せられたソファを見つめる。私は、悲しみと同時に込み上げて来る怒りを、押さえることができなかった。