1-2 安息の地
そこは、先ほどまで少年がいた階とは大きく異なっていた。
まず、入り口付近に銀色の折りたたみテーブルが二列で十個並べられている。それぞれの机には丸椅子が六つずつ配置されていて、椅子の腰を下ろす部分は黒色だ。机が並べられているこのスペースには、現在十人ほどが座っていて、夕食をとっている者や団員同士で談笑しているものの姿があった。
共有スペースと思われるこの場所の近くには、調理場のような空間もあった。角のスペースに大きめのカウンターテーブルが設置されていて、その奥では紺色の三角巾とエプロンを着けた数人の女性が食事の準備をしている。
入り口付近は食堂のようだ。このスペースに柱はない。調理場側の壁には扉が二つあり、食堂の位置にあるものは『団長室』、食堂より少し奥にあるものは『医務室』と書かれている。その医務室よりも奥では、上の階と同じようにコンクリートの柱と木材を利用して、個人用の部屋が両端に並べて作られている。
この階は、地下駐車場を基にしつつも、上の階に比べると大きな規模の改築が施されているようだ。どうやら、この住居の中心はこの場所らしい。
少年は調理場へ向けて歩き出した。
すると、調理場で作業をしていた一人の少女が顔を上げ、彼に目線を向けた。彼女は一旦手を止めて、少年のすぐそばまで駆け寄り、明るく笑った。
「隼人さん、長いお昼寝だったね。のど乾いてない?」
その少女はとても整った顔立ちをしていて、元気な笑顔がよく似合っている。表情の奥には凛々しさを秘めていて、隼人と呼ばれた少年にとっても彼女は非常に魅力的な少女だった。背は隼人よりも十センチほど低いが、女子の平均身長よりは高い。全体的に引き締まった体をしているが、バストとヒップには程よいハリがある。栗色のストレートヘアーは肩を少し過ぎるところまで伸びており、頭には紺色の三角巾を巻いている。グレーのズボンと黒色の半袖シャツの上には紺色のエプロンを着ている。
隼人はその少女と目を合わせて微笑んだ。
「ああ。暑いから寝汗がひどくてな。美佳、すまないが水をもらえるか? できれば飯の用意もしてくれるとありがたい」
「うん、わかった。先にお水を持ってくるから、隼人さんはテーブルで待ってて」
美佳と呼ばれたその少女は、隼人に背中を向けて調理場へ駆けていった。隼人は彼女の背中を見送りながら、スパイスの香りをほのかに感じる。
「……今日の晩飯はカレーかな」
隼人はそう呟くと、食堂を見渡した。どこに座ろうかと考えながら目を動かしていると、一番奥の机で向かい合って座っている二人の男と視線が合った。
「お、隼人。お前も飯にするのか?」
二人のうち、身長の少し高いほうが手を振りながら呼びかけてくる。年齢は四十代前半だろうか。ダークブラウンの髪は眉まで伸びている。服装は隼人と同じく深緑色のズボンに黒色の半袖シャツ。防弾チョッキを着て各種装備も整っている。
隼人はその男性に向けて少し大きめの声を出す。
「あー、うん。そのつもりだけど。副団長」
すると、背のやや低いほうの男性が体をわずかにひねって隼人に顔を向けた。
「それじゃあ、俺らと一緒に食べないか?」
そう誘ってきた男性は、年齢は四十代前半で、黒い髪をスポーツ刈りにしている。こちらも服装は隼人と同じだった。
隼人は特に思うこともなく、
「別にいいよ、団長」
と答えて、二人の座るテーブルまで歩いていった。彼は背のやや低いほうの男性に近づき、その隣の椅子へ腰を下ろした。背の低いほうといっても、団長と呼ばれた彼の身長は隼人よりも少し低い程度だ。成人男性の平均身長ほどだろう。副団長のほうも、隼人より少し高い程度で、百八十センチあるかないかだ。
隼人が席に着いた直後、美佳が水の入ったコップを一つ持って三人のところへ歩いてきた。彼女は隼人の前に、そのプラスチックのコップをそっと置く。
「はい、隼人さん。お水」
「お、ありがと」
隼人は美佳の置いたコップを右手に取り、口に付けたかと思うと一気に飲み干した。ほんの少し冷たく感じる水が、寝起きの体に染み渡る。コップを口から離すと、隼人は大きく息を吐いて左手の甲で口を拭った。
「おかわり」
彼は空になったコップを美佳に差し出す。
美佳はそれを両手で受け取り、
「りょーかい。ついでにご飯も持ってくるね」
と言って調理場へ向かっていった。
彼女にコップを渡した後、隼人は団長と副団長に目線を向けた。二人の手元には、無色透明の液体が少量入ったコップが置かれている。
二人とも夕飯はこれから食べるつもりだったのだろうか、それともおかわり待ちなのか。そんなことを隼人が考えていると、
「隼人、第五層に入ってきたとき、お前ちょっと顔色悪かったな」
と、向かい側に座っている副団長が話しかけてきた。
隼人は副団長から目を逸らす。
「まあ、ちょっとな」
「すまん、あまり触れられたくないことだったか?」
「いや、夢見が悪かっただけだよ。そんなに気にしなくていい」
自分では平静を保っているつもりだった隼人だが、副団長には見破られてしまったようだ。おまけに心配までかけてくれる。副団長のような存在が今の自分には居るということに、隼人はなんだか照れくさくなってしまった。
「そうか。お前もつらかったな。とりあえず、もう一杯いっとけ」
そんな隼人に、副団長は右手に持ったコップを差し出した。隼人は受け取ろうとしたが、何か悪い予感がして両手で副団長の手を遮る。
「お気遣いありがとう、小笠原直也副団長。でもいいよ。水なら後で美佳にもらうから。それは副団長が自分で飲んでくれ」
あきれた表情を浮かべて受け取りを拒否する隼人に対し、副団長は満面の笑みを浮かべてコップを差し出し続ける。
「まあまあ、そう言うなって。元自警団連合中央第二歩行隊隊長、中川隼人殿」
「ああもう! それは昔の話だっての! てか副団長、お前酔ってるだろ。で、これは水じゃなくて酒だろ!」
(前言撤回、なんだこいつふざけやがって。存在が有難いと思った俺がバカみたいだ)
隼人は心の中で悪態をついた。
「酔ってない酔ってない。これは水だって。一口だけでも、ほら」
「完全に酔ってるな、お前」
副団長は身を乗り出して自分に酒を飲ませようと迫ってくる。隼人はそんな彼の頭を左手で押さえつつ、右側に座っている団長に顔を向けた。
「なあ、松永団長。こいつなんとかしてくれよ」
隼人は助け舟を求めたが、団長は知らん顔でコップに口をつけ、表情を緩ませた。
「ああ? 別にちょっとくらい構わないんじゃないか? 二歩隊にいたときは飲んでただろ、隼人」
「飲んでません。てか、団長も酒飲んでるのかよ。こいつら揃いも揃って……」
ほんのりと酒臭い二人のおっさんに囲まれ、隼人はイライラを募らせた。見張りに行く前だというのに、こんなことで疲れることになるとは思いもしなかった。確かに、こいつらのおかげで悪夢による不安は解消されたが、面倒くさい酔っぱらいのおっさんに絡まれるくらいなら、一人で不安を抑え込んでいるほうがマシだった。
「ほらほらほらほら~。ちょっとくらいいいだろう?」
妙なイントネーションで副団長が迫ってくる。
正直言って気持ち悪いと隼人は思った。
「ああ、もう!」
誰かなんとかしてくれ、と隼人が願ったそのとき。
「お父さん?」
その声に隼人はいち早く反応する。美佳が引き攣った笑顔を浮かべ、団長と副団長の隣に立っていた。彼女は二人を見下ろし、精一杯笑っている。
隼人に遅れて、団長と副団長が美佳に顔を向けた。
「ひっ!?」
「げっ!?」
彼らはそれぞれ悲鳴を上げた。