2-14 尿意
しばらくすると、部屋の外が静かになった。食堂からの下品な笑い声や騒ぐ声が消え、自警団の施設は落ち着きを取り戻す。
「中央のやつら、帰ったみたいだな。もう少しでトイレに行けるぞ」
「う、うん」
隼人が隣のクロに顔を向けると、彼女は顔から完全に力を抜いて小刻みに震えていた。これはもう我慢の限界をとっくに超えている。
「トイレに走っていくのはいいが、スピードには気をつけろよ。なるべく遅めに走れ。できれば歩け」
「わ、わかった」
クロは隼人の小言に対して律儀に返事をする。その声は弱々しくて震えていた。隼人は彼女のことがかわいそうになってきた。
「とりあえず、今のうちにコートくらいは脱いでおけ」
「お、おーけー」
クロは苦しそうにそう応えると、膝立ちになってウエストのベルトを取り、黒色のコートを脱いだ。
「美佳が来たら、行っていいからな」
「う、うん」
クロはコートを大事そうに抱えながら腰を下ろし、美佳が来るのを待ち続けた。
それから数分後、扉が三回ノックされた。
「隼人さーん、クロちゃーん。中央の人たち、帰ったよー」
扉の向こうから美佳の声が聞こえてくる。彼女が来たということは、中央の隊員たちが完全に去ったことを意味している。もう隠れる必要はない。
「おう、わかった」
隼人は美佳に返事をすると、クロの背中に触れた。
「ほら、行け」
彼が小声で促すと、クロは立ち上がった。
「ううう」
彼女はうめき声を出しながら扉を急いで開ける。突然開かれた扉を、美佳は反射的に小さなバックステップで避けた。
「クロちゃん!?」
美佳は驚いて声を上げるが、クロは美佳を素通りして奥のほうへと向かっていった。隼人はクロが人間レベルの速さで走っているのを確認して安心した。
「まあ、その、あれだ」
隼人は居心地が悪そうに美佳を見上げる。美佳はクロの走っていった方向に目を向けると、すべてを察した。
「ああ、はい」
美佳は苦笑いをした。
それから少し経つと、クロが奥のトイレから出てきた。コートはトイレの中で着たようだ。彼女は歩きながら恍惚とした表情を浮かべていた。
部屋の前で待っている隼人と美佳のそばに到着しても、頬はだらしなく緩んでいた。
「気持ち、よかった……」
「そこはせめて『スッキリした』にしてくれ」
クロの言葉に隼人は頭を抱えた。彼女の気持ちはわかるが、とてつもない美少女がそういうことを言うのは少し股間に悪い。
「じゃあ、スッキリ、した」
クロは気の抜けたいつもの表情に戻ると、隼人の指示通りに言い直した。
隼人は息を吐くように笑った。
「よし。とにかく間に合ってよかったな」
「うん」
クロが頷くと、三人の間に沈黙が訪れた。クロには話し始めようとする様子もなかったので、隼人は新たな話題を考えた。しかし、とっさには思いつかない。
そこで、美佳が口を開いた。
「ところでクロちゃん。何か思い出したこととかない?」
美佳がそう尋ねると、クロは困ったように顔をゆがませた。
「うーん」
「頭の中で見えたものでもいいぞ」
隼人は横から口を出す。彼は、美佳の質問がクロの素性を掴むヒントだと思った。クロは数秒間考え込むと、首をかしげながら話し始めた。
「本が、いっぱい、並んでる、部屋と。たくさんの、白い、服を着た、人?」
彼女は自信なさげにそう言った。
「なんだそれ?」
「わかんない」
よく意味が分からなかったので、隼人は訊き直した。しかし、言った本人であるクロでさえも、自分の脳内に浮かんだ光景を理解できていないようだ。
美佳は仕方なさそうに笑みを浮かべる。
「うーん、だめみたいだね。まあ、焦らなくていいよ。思い出せなかったら、ずっとここに居てもいいんだから」
「うん、そうする」
美佳の言葉に、クロは口元を上げて頷いた。クロはここの一員になってまだ二日目だが、美佳はちゃんとした仲間だと認めている。クロにとっては、それが嬉しいようだった。
ここで会話が途切れるが、隼人はすぐに次の話を切り出した。
「それで、クロのことだが、これからどうする?」
「そうだね……とりあえず、今日は第五層での暮らし方を教えようと考えてるんだけど。隼人さんはどう思う?」
「ああ、それでいいと思う」
美佳の提案に異論はなかったので、今日のこれからのことは美佳に任せようと思った。
「じゃあ、俺は部屋に戻るよ」
隼人がそう言って歩き出そうとすると、
「あ、もしかしたらだけど、今日中にクロちゃんがある程度のことを覚えたら、第四層から上を案内してあげてくれない? 見張りに行くついででいいから」
と、美佳が言ってきた。それについても反対意見はない。
「いいよ。クロは物覚えがいいから、今日中に案内するつもりでいる」
「ありがとう」
美佳が軽く頭を下げると、隼人は小さく笑ってそれに応え、食堂のほうに向かって歩き出した。彼はそのまま第四層へと上がっていった。
隼人の背中を見送ると、美佳はクロに顔を向けた。
「じゃあ、クロちゃん。さっそくだけど、調理場に行こう」
「うん」
そうして、クロと美佳の二人は調理場へ向かっていった。




