2-8 一日の終わり
その後、クロは二杯目を猛烈な勢いで食べ終わると、満足げな顔をしながら机に突っ伏した。そして、そのまま静かな寝息を立て始める。
「こいつ、腹いっぱいになったら寝やがった」
クロの正面に座っていた隼人は、彼女の頭頂部を眺めながら眉をひそめた。美佳はクロの左隣に座り、彼女の寝顔を見つめながら微笑む。
「きっと疲れてたんだよ。記憶喪失のまま白コートに終われて戦ったんだから。それに、自警団のみんなの前で挨拶して、緊張したんじゃない?」
「こいつが緊張するような奴か? 俺にはどう見てもふてぶてしい女にしか見えないんだけど」
隼人がそう言うと、美佳は彼に顔を向けて目を細めた。
「隼人さん、そんなこと言わないの」
「あーはいはい。悪かった悪かった」
隼人は両目を閉じて両手をぶらぶらさせた。そこで二人の会話が一時的に途切れる。その数秒後、隼人は左肘を机に乗せて美佳と目を合わせた。
「で、クロの部屋は決まってんのか?」
「わたしの部屋の隣が空いてるから、そこにするみたいだよ」
「そうか。なら、とっとと部屋に運び込もう。こんなところで寝られたら、なにがどうなるかわからない」
「それ、どういう意味なの?」
笑いながらそう問いかけた美佳に、隼人は首を横に振った。
「いや、よく考えずに言った。まあ、どうせ寝るなら横になったほうがいいだろ」
「そうだね。じゃあ、クロちゃんを部屋に連れてってあげようか」
「布団は敷いてあるのか?」
「うん」
「ならいい。じゃ、さっさと連れていくか。おいクロ、起きろ」
隼人はクロの肩を叩くが、彼女が目を覚ます様子はない。
「クロちゃーん。部屋に連れてってあげるから、ちょっと起きてもらってもいい?」
美佳もクロの体を横から両手で優しく揺らす。
すると、クロが眉間にしわを寄せて唸りを上げた。そのまま起きるかと思われたが、クロは口をだらしなく開けて
「もう、食べられ、ない」
と笑い声交じりに言って再び動かなくなった。
隼人はため息をつく。
「ベタな寝言吐きやがって。こりゃだめだ。肩で担いで連れていくしかないな。美佳、手伝ってくれるか?」
「りょーかーい」
美佳はにこやかに返事をして立ち上がり、クロの左側でしゃがんだ。そして、クロの左腕を自分の首の後ろに回す。隼人も腰を上げてクロの右隣に向かい、しゃがみ込んでクロの右腕を自分の首に回した。
「せーの」
隼人と美佳は掛け声とともに立ち上がる。クロの体が持ち上がるが、肩を貸されて立った状態になっても彼女の目は覚めなかった。
「わかってはいたが、重いな」
「確かに重いね。わたしはもっと軽いと思ってた」
「クロ自身も筋肉で重いし、こいつの装備も重いからな。美佳、あんまり無茶するなよ」
「これくらい大丈夫だよ」
美佳があまりにも自信満々に言うので、隼人は彼女に顔を向けてみた。体格差がほとんどないクロを支えているにもかかわらず、美佳は涼しげな表情を浮かべている。
隼人は力を抜くように笑った。
「そうだな」
そう呟き、隼人は前を向いた。美佳とともに歩き出す。美佳と歩調を合わせながらクロを運び、クロの部屋に入ると、そこは水色の布団が一式敷かれているだけの空間だった。広さは隼人の部屋と変わらない。隼人と美佳はその布団の上でクロを横にさせた。
あれだけ動かされたのに、クロはずっと寝息を立てていた。仰向けになった今も穏やかな表情を浮かべて目を閉じている。
一仕事終えた隼人は、小さく息を吐いて美佳と向き合った。
「ひとまずこれでいいな。美佳、手伝ってくれてありがとう」
「隼人さんもありがとね」
美佳は明るく笑う。二人はクロを一瞥すると、音を立たせないよう注意して部屋を出て扉を閉めた。
隼人と美佳は無言で歩き出す。
食堂につくと、美佳は立ち止まって隼人を見上げた。
「じゃあ、わたしは夕飯の片付けがあるから、調理場に行くね。クロちゃんにいろいろ教えるのは、また明日かな。隼人さんは部屋に戻っていいよ。クロちゃんに何かあったら、わたしが対応するから」
「そうか。それなら、クロのこと、頼んだ」
「はーい。では、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
隼人が挨拶を返すと、美佳はクロが使った食器を手に取って調理室に向かっていった。隼人は彼女の背中を見送り、第四層へ上がった。
自分の部屋に入り、装備を外して元の位置に戻す。隼人は深緑色の長ズボンと黒色の半袖シャツだけの格好になった。素足でサンダルを履き、部屋の外へ出る。隼人はトイレの近くにある更衣室に入った。
更衣室は壁と床がタイル張りで、床には青色の滑り止めシートが敷かれている。その部屋にはいくつもの脱衣カゴが棚に並べられ、下着を含めた衣服がサイズごとに分けて入れられている。また、使用済みの衣服をまとめて入れる大きめのカゴもあった。
隼人は服をすべて脱いでカゴに放り込むと、更衣室の奥にあるタイル張りのスペースに向かった。そこには人が二人は入れる大きさのプラスチックでできた水槽があり、その中には水が最大量の三分の一入っている。水槽のそばには洗面器と石鹸が置かれており、隼人はそれらを使って体を洗った。石鹸をほんの少し利用し、手で全身をこする。そして洗面器一杯分の水で丁寧に流してタオルで体を拭いた。
その後はカゴが並べられている場所へ向かい、新しい衣服に着替える。最後にタオルを大きめのカゴに投げ込むと、隼人は更衣室から出て自分の部屋に戻った。
隼人はベッドの上で仰向けになり、天井を眺める。
「今日はいろいろあったな」
そう言って息を吐き、隼人は今日のことを思い出し始めた。
いつもと変わらない自警団。
今となっては非日常となった白コートとの戦闘。
白コートを圧倒する黒衣の少女。
そして、彼女の非公式入団。
「クロが何者なのかはわからなかったけど、ここに置いておくことにデメリットはないだろうな。むしろ、いざというときに役に立つ」
隼人はクロと白コートの戦闘を思い出し、彼女の戦力としての価値を改めて感じる。クロは人間よりも白コートに近い存在なのだろうが、勢力的には人間の味方だ。また、この短時間で隼人は彼女に心を許し始めていた。
そこで隼人の思考が途切れた。疲れのせいもあるのか、意識がぼやけてくる。
「もう、寝るか」
隼人はそう言って目を閉じた。
「俺は、今日も生き延びましたよ。春見さん、楓」
その呟きとともに、隼人はまどろみへ落ちていった。




