1-1 消せない記憶
その日、少年は家族とともに、昼食のために東京の街へと出かけていた。街には、冬の装いをした人々が途切れることなく行き交い、そこかしこに節分やバレンタインデー商品の広告が出されている。
家族連れやカップル、少人数の学生グループ。すれ違う人たちは皆、この時を楽しんでいるかのように笑っていた。
しかし、人混みの中を歩くその少年だけは、どこか不満げな表情を浮かべていた。
それもそうだ。少年は一日中部屋に籠ってゲームやら漫画やらに時間を費やしたかったのだが、昼食のせいで半ば強制的に外出する羽目になったのだ。今日は学校も陸上部の練習もない、久しぶりの完全休養日だったのに、それが台無しになってしまった。
中学一年生の彼は、反抗期に入りかけていたのもあって、「自分はコンビニの弁当でいい」と家族の誘いを断ろうとした。
だが、二つ年下の妹にしつこくお願いされ、断り切れなくなった彼は、しぶしぶといった感じで出かけることにした。
家族四人で電車に乗り、駅前を歩いていたが、少年は三人に少し遅れて進むようにしていた。家族と一緒に出かけるということが、非常に恥ずかしかった。だから、どこにいても少し距離を置いていた。そうしないと落ち着かなかった。
やがて、少年とその家族はスクランブル交差点に差し掛かった。
歩行者側は赤信号なので、母親と父親、そしてその二人に挟まれた妹の三人が交差点直前の歩道で立ち止まる。
少年は家族に追いついた。周りは信号待ちの人でいっぱいだったので、彼は三人のすぐ後ろまで距離を詰める。家族と微妙に離れていては、周りの信号待ちの人たちに迷惑だと思い、彼は嫌そうな顔をしつつも家族に近づいた。
父親が顔をこちらに向け、少年の顔を見る。
「隼人、はぐれないように気をつけろよ」
父親は穏やかな声でそう言ったが、隼人と呼ばれた少年は父親とは目を合わせなかった。
「わかってるよ」
隼人は不機嫌そうに答え、そのまま口を閉ざしてしまった。
「やれやれ」
父親は力なく笑いながら頭を小さく左右に振り、前を向いた。
その後、妹が両親と楽しそうに話しているのを横目で見ながら、隼人は信号が変わるのを待ち続けた。
そして、信号が青になった。隼人の前にいた両親と妹は歩き出し、周りの人も横断歩道を渡ろうと足を前に出し始めた。
よそ見をしていた隼人は、信号が変わったことに気づかず、出遅れてしまった。人の流れができ、後ろで待っていた人の革靴の先が隼人の踵に当たってから、彼はようやく前に進み始めた。しかし、人混みに足をとられ、家族との距離はますます開いてしまう。
「ちょっと待って」
隼人はそう呟き、体勢を立て直そうとした。
そのときだった。
ビルの電光掲示板の映像と音声が乱れ、すぐに真っ黒な画面を映し出した。歩道では、スマートフォンを触りながら「電波が繋がらない」と騒ぐ通行人が続出。さらには信号から光がなくなったかと思うと、周囲の電灯がすべて消えていった。
この異常事態に、周辺の人々は歩みを止め、空を仰ぎ見ながら困惑していた。曇天の下、ざわめきが次第に大きくなっていく。
隼人は不安になり、家族のもとへと駆け出そうとした。
そのとき、交差点で銃声が響き渡った。それと同時に、隼人の父親が頭から血を噴いて倒れた。続いて、母親、妹と、頭部から出血してよろめき、アスファルトの道路に伏した。
隼人はその光景が信じられなかった。信じたくなかった。
その場から足が動かない。今すぐにでも家族のもとに駆け寄りたいのに、恐怖で体が言うことを聞いてくれない。
惨劇はこれで終わらなかった。人々が悲鳴を上げて逃げ惑うなか、いくつかのトラックが暴走し、人混みの中に突っ込んでいく。ブレーキをかける様子はなく、通行人が次々とはね飛ばされ、無残な死体へと姿を変える。
だが、それだけではない。周囲の建物から立て続けに爆発が起こり、炎と黒煙が立ち上る。あらゆるところから火災警報が鳴り響く。そして、スクランブル交差点の中央から、さらなる銃声が上がり、数人が倒れる。
隼人は銃声の主を偶然にも目撃してしまう。
白いコートを着たショートカットの黒髪の女性が、右手に持った拳銃で黙々と人を打ち殺していた。恐ろしいほどに無表情で、隼人は恐怖以上の何かを感じた。
そして、体が勝手に動いた。
交差点から、白いコートの殺人鬼から逃れるように、隼人は走り出した。もう何も考えられない。とにかく体の命令に従って逃げ続けた。
彼は身を低くして駆ける。その途中にも、周りの人たちは撃ち殺されていった。
どうやら、白いコートの女性は一人だけではないらしかった。ビルの屋上や高層階から数体の白いコートの女性が飛び出し、着陸。超人的な動きで移動し、拳銃で人間を殺害する。弾が切れると拳銃を投げ捨て、ナイフで人の頸動脈を次々と掻っ切っていく。ナイフが使い物にならなくなれば、周りにあるものすべてを武器にして撲殺を繰り返す。
隼人が逃げ続けている最中は、銃声と爆発音、そして悲鳴が止まなかった。あの殺人鬼は拳銃だけではなく、小型のマシンガンも所有しているようだった。
数体の白いコートの女性は、人間を遥かに超えた身体能力で虐殺を行い、一瞬にして街に死体の山を築き、辺り一面を血の海に変えてしまった。
隼人は人混みをかき分けながら、必死で走り続け、人通りの少ない場所まで運良く逃げ込むことに成功した。そこには白いコートの女性の姿はなかった。隼人はそれに安堵しつつも、自らを守るために物陰へ身を隠した。
小さく丸まって息を殺す。
遠くから破壊の音が聞こえてくる。
早く終われと願い続けた。
だが、そんな希望もすぐに打ち砕かれる。足音がゆっくりとこちらに近づいてくるのを察知し、隼人は息を止めた。白いコートの女が自分を殺しに来たのだと、恐怖で押しつぶされそうになる。
通り過ぎてくれと祈り続けたが、足音は隼人のすぐ近くで止まった。
彼はおそるおそる顔を上げる。
白いコートの女が、無表情に、隼人を見下ろしていた。隼人は声も出なかった。女は右拳を大きく挙げる。自分はここで殺されるのだと隼人は覚悟した。
そして、女の右拳が隼人に振り下ろされ……。
「はっ!?」
少年は目覚めたと同時に上半身を起こし、呼吸を荒げた。彼はすぐに周りを見渡す。右には木製の壁。左には小さめの机があり、その先には同じく木製の壁。後ろにはコンクリートの壁、前には木の壁と扉がある。上はコンクリートの天井だ。床も灰色のコンクリートで出来ていて、自分は古びた木製のベッドに座っている。
どうやら、ここは彼の部屋らしい。天井と壁の間から電灯の明かりがわずかに入りこんできているが、机に置いてあるスタンドライトは電源を切っているため、部屋の中は薄暗い。
少年は腹にかけてあったタオルケットを両手で握り締めた状態で呼吸を整えた後、汗まみれの顔に右手をあてた。
「また、あの時の夢か」
彼はため息交じりにそう言って左手を机に伸ばし、卓上の四角い目覚まし時計を手に取り顔の前に持っていく。
「もう五時か。昼寝にしては長すぎたな」
少年は右手で頭を掻いて少し長めの髪を乱しながら舌打ちをし、時計をもとの位置にそっと戻した。そして両腕を高く上げて上半身を伸ばし、力を抜く。
深呼吸をして寝起きの体に酸素を送り込み、意識を現実に向ける。落ち着きを取り戻した彼は、表情を引き締めた。少年はわりと整った顔立ちをしていて、目つきは鋭さと穏やかさを兼ね備えている。
彼はベッドから下りて黒色の少し短めのブーツを履き、机の前に立った。
机の上にはスタンドライトと時計の他にも、少量の紙やペン、そして、二丁の拳銃が置かれている。二つとも黒色で、オートマチックだ。よく見ると、スライド部分に小さく文字が刻まれているのがわかる。一つには『H . N .』、もう一つには『K . T .』とあった。
少年はその拳銃を一瞥すると、壁に掛けてあった黒色の防弾チョッキに手を伸ばした。防弾チョッキには、いくつか小さなポケットがついている。彼はそれを黒い半袖シャツの上に着て、前のチャックを閉めた。
次に、少年は床に置いてあったホルダーを深緑色の長ズボンに装着する。左脚に一つ付け、右脚には二つ。右脚に巻いた二つのうち一つにはナイフが差し込まれていた。このナイフの柄には『K . A .』の文字が彫り込まれている。
その後は、黒色のウエストポーチを拾い上げて腰に付け、机の上から拳銃を手に取って弾の装填数を確認した。『H.N.』のほうは十五発と最大数入っており、少年はこれを右足のホルダーに差し込む。もう片方の『K.T.』は弾が入っていないが、彼は弾を込めることなく左脚のホルダーにそれを装着した。
これで装備は整った。彼の身長は平均より少し高めで、体は引き締まっているため、なかなか様になっている。また、目つきも相まって、歴戦の兵士のような風格があった。
床には工具箱があったが、彼はそれを無視して扉のほうへ向かった。
扉を押し開けて部屋の外に出る。
そこは、一言でいえば地下駐車場だった。
縦長の空間にコンクリートの四角い柱が等間隔で二列に並んでいる、壁際には駐車スペースがあり、タイヤストッパーはそのまま残されていた。
この空間の中間部分には木の仕切りで部屋がいくつも作られており、地下駐車場を基にして作られた住居としての姿を見せていた。
部屋を出た少年は辺りを見渡したが、誰もこの空間にはいないようだった。しかし、近くの部屋や少し離れた向かいの部屋から話し声や物音が聞こえるので、この少年以外もここに住んでいると思われる。
「見張りの前に飯でも食っていくか」
少年はそう言って歩き始めた。部屋が作られている場所を抜けると、木の壁のそばに大量の土嚢袋が積まれているのが見える。また、コンクリートの壁に、機関銃やライフル銃、散弾銃が立てかけられている。これらはすべて、上の階からの入り口からは見えないように置かれていた。
少年は下の階に繋がる通路へ足を踏み入れた。もともとは自動車が通行するところだったので、少し広い。
コンクリートの坂を下りながら、少年は天井を仰ぎ見た。
「あの日から今日で四年半なんだな。全世界に白コートが現れたあの日から。あの日、一月三十一日に人類の半数以上が死んだと言われてる。俺が生き残れたのは、運が良かったからなんだよな」
彼は先ほど見た夢を思い出しながら、独り言を呟く。
「白コートの攻撃はあの日以降も続けられていて、人の数は減る一方。あの日から九割以上が死んだ」
少年は息を大きく吐いて、自分への語りを続けた。
「でもまあ、埼玉全体と東京の北部、それと北関東の南部あたりは奪還したから、防戦一方というわけでもないんだけどな」
ここで、少年は頭部に痛みを感じた。過去の記憶が一瞬にして駆け巡り、自らを苦しめてくる。彼は歯を食いしばり、眉間にしわを寄せながら、その苦痛に耐える。
少年は再度息を吐いて自分を落ち着かせた。
「今の俺に防衛圏外の偵察は関係のないことだ。俺はもう死んだことになってるんだ。今は拠点の入り口で見張りをして、白コートを見つけたら殺せばいい。それだけのことだ」
彼はそう言うと口を閉じ、表情を引き締めた。
気づくと、上と下の階を繋ぐ通路は終わりに近づいていた。下層からは賑やかな声が聞こえてくる。
少年は力を抜いたように微笑み、下の階へと足を踏み入れた。