第7話:ふたりの関係
翌朝の事である。
カーテンから差し込む光に目を開ける。
「眩しい……今、何時だ?」
いつもよりもかなり遅い時間。
優那が目を覚ました時、時計の時刻は既に学校が始まっている時間帯だった。
「千秋は……そうか、来なかったのか。私が言ったんだったな。何を寝ぼけているのか。目覚まし代わりの幼馴染がいないせいで、さっそく遅刻じゃないか」
本物の目覚まし時計はセットして満足に起きれたためしがない。
優那はベッドから起き上がるとパジャマを脱ぎ捨て、制服を着る。
すぐにリビングに出て、飼い猫のエサを与えておく。
「……キャラウェイ? どこかで遊んでるのか」
姿が見当たらないのでエサだけをエサ箱に入れていく。
「9時10分……1時間目はアウト。2時間目に間にあうようにしよう」
千秋に来るなと言った次の日にはこのありさまだ。
「情けなくて言葉もないな。明日は目覚まし時計で起きれるように頑張ろう」
千秋を頼ってばかりいたツケ。
覚悟を決めた矢先にこれでは話にならない。
優那は簡単に食事を済ませてから学校へと歩き出す。
いつもならば千秋が優那の面倒を見てくれているので、助かっていた。
幼馴染として千秋は理想的な男だった。
ただ、それは千秋の望むものとはかけ離れている。
彼は優那と恋人になりたがっていて、彼女はそれを望んでいなかった。
優那と千秋はそれぞれの関係に求める物が違う。
「恋愛感情は全てを壊す、大切なモノを傷つけるだけなんだ」
恋愛を拒絶する優那。
――また、私は大切なものを失おうとしているのかな。
大事なものを手放そうとする自分の愚かしさ。
先の見えない優那の試練が始まった。
学校に登校すると彩華は呆れた顔をしつつも、出迎えてくれた。
「これまた遅い登校で。お寝坊さんの優那ちゃん」
「おはよう。目が覚めたらこんな時間になってしまった」
「どうして千秋君と別行動? 喧嘩でもしたの?」
「喧嘩と言うか、昨日のいろいろとあったからね。アイツには恋人優先でいてもらたい。私みたいな幼馴染優先の生活から切り替えろと言っただけさ」
「何それ? 優那ちゃんが恋人みたいなものなのに」
「アイツには本命がいるのをお忘れなく」
肩をすくめながら「私たちは恋人ではないよ」と改めて否定しておく。
優那達は前に進もうと決めたのだ。
これしきのことで揺らいでいるわけにはいかない。
「彩華は勘違いしているみたいだが、私は決して千秋を嫌ってはいない」
「知ってるよ。大好きもんね」
「……違うってば」
「またまた素直じゃないな。千秋君が優那ちゃんの“初恋の相手”なのに?」
彩華の思わぬ言葉に優那は失笑した。
「ははっ。何だ、それは。私の初恋相手だと?」
「違うの? 違わないよね?」
初恋相手。
そんな甘ったるく切ない言葉。
聞かされるだけでもどこかくすぐったくなる。
「そんな昔の事は忘れてしまったよ。初恋なんてものは……」
「そこは否定しないんだ?」
「彩華。私は“忘れた”と言っている」
「だから、否定はしてないよね? 素直じゃないよ、優那ちゃんって」
くすっと彩華は優那に対して微笑する。
確かに否定はしない。
――私は幼い頃に千秋を好きだった。
俗に言う“初恋”だったのも認めよう。
しかし、それは過去にすぎない。
――今となっては思い出すのも意味のない思い出だ。
今さらどうしようもないのだ。
その淡い思いは彼女の心に深く刻み込まれた、悲しみの記憶と共に消え去った。
「何で初恋は実らなかったの? 両思いだったんでしょう」
「その話はもうやめてくれ。思い出すだけ無駄だ」
「やっぱり、千秋君が可哀想。ちゃんと向き合ってあげればいいのに」
この件に関しては彩華は千秋よりの考えを見せている。
「はいはい。私の事は放っておいてくれ」
「もうっ。優那ちゃんの頑固者。いつか後悔するからね」
――後悔ならとっくにしてるさ。これでもかっていうくらいにね。
優那は次の時間の教科書を鞄から出して、話を流すことにした。
「それよりも……次は英語だったか?」
「違うよ、次は数学。英語は1時間目でした」
「そうか。後でノートをコピーさせてくれれば助かる」
「いいよ。ほら、どうぞ」
「彩華の字は綺麗だからいいな。分かりやすい」
そう言って彼女からノートを預かった。
すると、彼女に千秋が近づいてくる。
半ば呆れたような、心配しているような表情を見せて、
「優那っ。お前、初日から遅刻ってマジかよ」
「……今日は偶然だ。千秋を頼りにしてた癖が抜けてなかっただけだよ」
「明日は行く前に声をかけようか。起こすくらいでも……」
「千秋」
たしなめるように、優那は彼の名前を呼ぶ。
「情けは不要だ。私達は距離を置く。そう決めたんだろう?」
「それはそうだけどさ」
「中途半端はやめよう。そうやってグダグダしてきたのが間違いなんだ」
幼馴染と恋人の関係には大きな差がある。
そこをちゃんと考えなければいけない。
今、彼が一番大事にするべきなのは誰なのか。
亜沙美の台詞ではないが、優那も彼の事を考えてやらないといけない。
「ホントはもっと前からこうしておくべきだった。ごめんな、千秋」
「謝るなよ。ていうか、もしかして……愛紗美の件と似たことって前からあったのか。うわ、マジかよ。ホントにすまん」
「……気にするな。私がお前の恋人たちに暴言を吐かれたのは過去の話だよ。頬を殴られたことも一度や二度はあったかな。何人かに囲まれたこともあったっけ」
「はぐっ!?」
「いやいや、ひどい目に合ったのは千秋のせいではない。決してない」
顔を青ざめさせて「ホントにごめんなさい」と千秋が謝ってくる。
申し訳なさ以外の感情がわいてこない。
「なぁに。自称、モテる男が自称じゃなかっただけの話だ」
「ぐはっ。ホントにすみません。責任を取らせてください」
「冗談だよ。お前は悪くない。私の立ち位置が微妙過ぎただけだ。恋人よりも大事にされている幼馴染がいたら、そりゃ怒るだろう。私の自業自得さ」
これまではそれでもいいと甘えていた。
しかし、これからは違うのだ。
「彼女たちの想いも分かる。お前に甘え続けてきた私の弱さを許せ」
「許すも何も、俺は……」
「と、言ったものの、せめて、自分で起きるくらいの有言実行はしないとな」
いつまでも幼馴染に頼りっきりではいられない。
しかし、その見込みが甘かったのだと知るのは後の事だった。
千秋が自分の席に戻ろうとした時、ぐいっと服を彩華につかまれる。
今回の件、友人として放っておけないのである。
彩華に詰め寄られて困惑する千秋は「えっと」と鈍い反応をみせる。
「ちょっと千秋君。これはどういうことなのかな? 喧嘩なら仲直りして」
「……トラブルがあったのは認めるよ。俺が原因でもある」
「大体さぁ。朝が超弱い彼女が一人で起きれるとでも? 彼女の面倒を見るのは千秋君の役目でしょ。しっかりと、しつけないとダメなんだからね」
「優那を猫扱いするのはやめてあげてくれ。アイツはホントに朝が弱いだけなんだ」
朝、すっきりと目覚めることが少ない。
その理由は心にあると千秋は考えている。
「優那は両親と離れて暮らしてるだろ。家族間でちょっとした揉め事があったんだ」
「……そうなの?」
「いろいろとな。そういうものが積み重なって、心に負担となってる気がする。朝が弱いのは、その手の心理的な事情もあるはずなんだ」
「そこまでわかってるのに。お世話してあげないの?」
「優那がそれを望んでないからな」
今回の優那の提案には千秋にとっても心配の種でしかない。
お互いに距離を置く。
正しいことのように思えるが、果たしてホントにそれでいいのか。
「一番悪いのは千秋君だよね」
「……俺ですか?」
「優那ちゃんを本気で思うなら、今の恋人との関係を清算するべきだと思うの」
「手痛い言葉を平気で言う彩華ちゃんらしい」
「だって、それが当然だと思わない? 心の二股状態はやめなさい。どちらに対しても失礼だもの。千秋君の中途半端さが一番よろしくないの」
痛い所をつかれたレベルではない。
それは千秋自身が感じていることでもあった。
「千秋君が一番大事にしたいのは誰なの? 恋人の子? それとも優那ちゃん」
「俺は……」
「どちらが大切か決めなきゃ。中途半端な状態だから優那ちゃんも困るんだ」
千秋が恋人を作ったのは優那の後押しがあったからだ。
自分の気持ちを誤魔化して、誰かと付き合って。
だが、それで心が満たされたことは一度もなく。
千秋の本心は、今も昔も変わらない。
「そろそろ、覚悟を決めなきゃダメじゃない?」
「……恋愛絡みは優那が嫌がるからさ。ちゃんと話もできずにいる」
「勇気を出して話してみなきゃダメなこともあるじゃん」
「その通りだな。俺はいつまでもあの苦い記憶を引きずりすぎてるのかもしれない」
優那に告白してフラれたという事実。
その事実と向き合い、もう一度、考えてみなくてはいけない。
優那と千秋はこれからどうあるべきなのか。
幼馴染として終わってしまうのか。
それとも、これからの関係に変化をもたらせるのか。
「俺がしっかりしなきゃ優那も苦しいだけなのかもしれないな」
改めて、二人の関係をどうするのかを悩む千秋であった。