第10話:子猫たちだけが見ていた
夕方の7時過ぎ、食事を終えた後、伊月は再び亜衣の家に行こうとしていた。
これ以上、亜衣との亀裂を広げるわけにはいかない。
『……興奮した』
場を和ますための冗談だったのがひどく怒られたのだ。
――アイツが気にしてるの分かってたから、冗談っぽく言ったつもりが変態発言に。
「電話にもでてくれないし、直接会いに行くしかないか」
ここ最近、伊月の電話に亜衣は一切出ない。
言いたいことがあるのなら直接話にこいとでも言いたげだ。
「亜衣にこれ以上、嫌われるのだけは勘弁だぜ」
家に咲綾を残していくわけにいかず、一緒に連れていく。
「亜衣と話をしている間は保奈美さんに預けておこう」
保奈美も咲綾を可愛がってくれているので問題はなかった。
亜衣の家を訪ねると、保奈美が出迎えてくれる。
「あら、伊月君。本日2度目ね? また亜衣を口説きに来たんだ」
「……すみません、こんな時間に。亜衣とは今日中に話をつけたいことがあって」
「いいわよ、あがって。あっ、咲綾ちゃんも一緒なのね」
「すみませんが、亜衣と話をしている間は任せてもいいですか?」
「もちろん。今日も可愛いねぇ、咲綾ちゃん~」
保奈美さんは咲綾を抱き上げると満面の笑みを見せる。
「ホント、咲綾ちゃんは天使みたいな可愛さだわ。そういえば、この時間帯はいつも伊月君が咲綾ちゃんの面倒を見てるんだっけ」
「えぇ。そうですね。母さんは父さんの手伝いで店に出てますから」
「凛花の代わりに咲綾ちゃんのお世話してるなんて、ちゃんとお兄ちゃんしてるんだ。ほらぁ、咲綾ちゃん。猫にも会いたいでしょ」
「うんっ。にゃんこ、好き」
咲綾を連れてリビングに入ろうとする前に保奈美は、、
「うちの子、今日は一日中元気がなかったけど、それは伊月君のせいなのかな?」
「それを含めて話がしたいんですよ。そろそろ、亜衣と決着つけます」
「……あの子はもっと素直になるべきね。素直になれる相手がいるんだから」
柔らかな微笑みを見せる保奈美。
――話をしなくちゃ始まらないよな。
今はただ亜衣の本当の気持ちを知りたい伊月だった。
「咲綾ちゃん。プリンあるけど食べる?」
「食べる~っ」
「ふふっ。にゃんこもいるよ。しばらく、私と遊んでようねぇ」
咲綾を保奈美に預けて、伊月は亜衣の部屋へと向かおうとする。
だが、行く手をふさぐように廊下に一匹の黒猫がのんびりと歩いてくる。
「げっ、ノワール?」
亜衣の家の裏ボス的存在、ノワールである。
毛並みの良い黒猫で、血統もいい種類の猫だ。
子猫たちの親猫でもあるノワールは基本的に男子に懐かない。
伊月も会うたびに何度も引っかかれてしまっているのだ。
逆に亜衣や咲綾には素直に懐いて、されるがままにされている。
――猫のくせに高飛車っぽい雰囲気があるんだよな。飼い主さんに似たのかも。
まさに保奈美の猫バージョンという印象が強い猫である。
「ど、どうぞ、お進みくださいませ」
苦手意識があるせいか、猫相手に道を譲る伊月だった。
「ノワールの姉御。中に妹もいるんで遊び相手になってやってくださいな」
そんな伊月をノワールは一瞥するもツンっと無視して、リビングに入っていく。
――俺にはホント懐かない猫だなぁ。
いきなり飛びかかってこないだけ今日はマシともいえる。
リビングからは咲綾の嬉しそうな声が聞こえる。
「あーっ。のーちゃんだぁ♪ にゃん、にゃん」
「ノワール、こっちにおいで。咲綾ちゃんだよ」
「にゃぁ♪」
機嫌よく鳴く猫の声に伊月は「解せぬ」とため息をつくのだった。
「亜衣、俺だ。さっきの話の続をしに来た。あれは……冗談だ。うん」
本題である亜衣の部屋の扉をノックするも返事はない。
怒りが尾を引いてる様子に気が重くなる。
「冗談から許してくれ。なぁ、まだ怒ってるのか? 亜衣? 今日は時間もあるし、ちゃんと話をしようよ。お前の話が聞きたいんだよ」
事件には罪悪感もあるが、それに勝るのが幼馴染としての心配だ。
亜衣が傷ついているのを黙ってみていることはできない。
伊月には自分でできる事なら、何でもしてやりたい気持ちがあった。
廊下に座り込む伊月は扉越しの会話を続ける。
「何回も言うようだが、あの事件はもう忘れて、学校に来ないか?」
「……」
「みんなも気にしてるし、心配もしている。いつまでも落ち込んだって、何も解決しないと思うんだ。亜衣、俺はお前が心配なんだよ」
返事すらせずにいるが、きっと中で亜衣は彼の言葉を聞いている。
伊月は自分の想いを口にする。
「お前がいないと学校が全然、楽しくないんだよ」
嘘偽りのない本音だった。
これまでずっとともに学校生活を送ってきたが、こんなにも離れた経験がない。
自分にとって必要不可欠な存在であると改めて伊月は自覚させられていた。
――やっぱり、俺にはお前が必要なんだ。
だからこそ、早く亜衣には学校に復帰して欲しい。
「――亜衣。俺は、お前の事が……」
そんな言葉を口にした、その時だった。
「……は? 何で、アンタが私の部屋の前にいるの?」
唖然とした驚きの声を上げる亜衣。
約2週間ぶりに姿を現した幼馴染はまさかのタオル一枚で廊下に突っ立っていた。
「あ、亜衣!? お前、なんで部屋の外に?」
まだ濡れた髪、ほんのりと紅潮する頬。
「……お風呂に行っていたんだけど?」
「部屋にいなかったんかいっ!?」
――俺、ひたすら独り言を呟いてたのかよ、がくっ。
てっきり、部屋の中にいると思い込んで話を続けていた。
道理で反応がなかったわけである。
「って、なんだ、その姿は。た、タオル一枚じゃないか、はしたない。きゃーっ!?」
「何でアンタが叫ぶのよ!? 叫びたいのは私でしょ!」
「す、すまん。動揺しすぎた」
子供の頃には数え切れないほど一緒にお風呂に入った仲。
だが、この年になれば当然、羞恥心くらいはある。
タオルから見え隠れするのは白い肌。
控えめながらも膨らみのある胸。
腰からお尻にかけてのラインがタオル越しにはっきりと分かる。
美人な亜衣の色っぽい姿にごくりと唾を飲む。
――やべえ、もう誘惑されてるとしか思えん。
あまりにも無防備な姿に伊月もドキドキが止まらない。
「さ、さっと、そこをどいて!」
彼女は手で肌を隠しながら慌てて部屋に戻ろうとする。
「おぅ……って、やっぱり待て。せっかくのチャンスだ。話をしよう」
「この状況で、できるわけがないでしょ! バカじゃないのっ!?」
部屋に逃げ込もうとする亜衣を、伊月は思わず手で掴んでしまう。
「逃げないでくれ。ちゃと話がしたいんだ」
「だ、だから、この状態では無理っ!? 離して~」
「ええいっ。俺は離さんぞ。今日と言う今日は話をしようと決めてきてるんだ」
混乱に混乱を重ねて、タオル一枚である状況を放置する伊月であった。
顔を真っ赤にする亜衣は「バカ伊月!」と暴れる。
亜衣が逃げ込んだのは子猫の専用の部屋だった。
ゲージが置かれており、そこには子猫たちが無邪気に遊んでいる。
「逃がさんぞ、亜衣。部屋に閉じこもるのはもう認めんっ」
「――いい加減にして。あっ!?」
「ぬおぉ!?」
勢い余ってそのまま床に押し倒してしまう。
「いたた……す、すまん。大丈夫、か……?」
ハッと伊月は今の状態に気づいて顔をこわばらせる。
タオル一枚の亜衣を馬乗りになり、覆いかぶさるこの光景。
「……幼馴染を押し倒しているかのようなこの状況。はて、なぜこんなことに?」
「私が知りたいわよ、バカ伊月っ! 変態っ。死ねっ!」
顔を真っ赤にさせて涙目の亜衣。
――この状況を保奈美さんに見られたら俺は間違いなく責任を取らされるぞ。
背が寒くなり冷や汗が止まらない。
――欲望もあるが、それ以上に保奈美さんが怖いっす。
社会的な責任を取らされる危機感。
高揚感が吹き飛び、伊月は慌てて身体をどけようとする。
「……うぅ」
だが、亜衣本人は唇をかみしめるだけだ。
その気になって抵抗すればできるはずなのに、何もしない。
ほぼ無抵抗の状態で、伊月のされるがままになっている。
――この子、めっちゃ可愛いんですけど。
久々に見た幼馴染の顔をマジマジと間近で見つめてしまう。
異性の香り、伊月の思考を惑わせる魅惑。
――柔らかそうな唇だよな。キス、とか……してみたい……。
薄桃色の濡れた唇に視線が逸らせない。
「亜衣、俺は……」
まるで惹かれるように、伊月は亜衣の唇を奪っていた。
そして、その光景を子猫たちだけが見ていた。