第25話:ひどいことをしちゃった。私、臆病だから
ひとしきり泣いた所で綺羅はようやく泣きやんだ。
ソファーの隣に座る七海が綺羅の涙をハンカチでぬぐう。
「……どうかしら、綺羅? 落ち着いた?」
「うん……なんとか」
「そっか。よかった」
ひとしきり泣いて目を腫らす娘を慰めるように、
「夢逢に意地悪されたの? いつもみたいに、キツイお仕置きしておく?」
「ひ、ひぃっ!?」
「今度は反省するまで許さないパターンでどうかしら? バカな子だもの」
七海にそう言われてソファーの端で縮こまっていた姉が顔をあげて脅える。
「……や、やめれ。私、何も悪いことしてないのに」
「妹をいじめて楽しんでたんでしょう?」
「し、してない。してないよ? 私はただ、一般論をですね……」
お仕置きという言葉に反応して、びくびくと子ウサギみたいにびびる。
昔から七海のお仕置きに泣かされてきた夢逢である。
「いい。お姉ちゃんが悪いけど、彼女に泣かされたわけじゃないから」
「……ふぅ。お姉ちゃん、危うく冤罪でお仕置きされるところでした」
その言葉にホッとする夢逢であった。
よほど七海に怒られるのが怖いらしい。
彼女は普段は温厚なのだが、怒るときはものすごく怖いのである。
「それなら、どうして泣いていたの?」
七海に尋ねられて綺羅は泣いた理由を思い返す。
泣いた理由は姉の言葉だ。
彼女にとっては悪ふざけ程度の軽い気持ちの言葉が綺羅に突き刺さった。
『綺羅ちゃんみたいな我が侭で素直じゃない子じゃ嫌われちゃうんじゃないの?』
弘樹に嫌われる。
想像しただけでこんなにも気持ちが折れそうになる。
「……っ……」
綺羅はココアを飲みながら気持ちを落ち着かせる。
七海の淹れてくれたココアは美味しいから好きだ。
綺羅はようやく、自分の気持ちを言葉にする。
「……ヒロ先輩に嫌われたくなかったから」
「何をしちゃった?」
「ひどいことをしちゃった。私、臆病だから」
やがて、綺羅は七海達に昨日の話をしていた。
デートを楽しんでいたら、キスされそうになって拒んでしまった。
そのまま逃げて帰ってきてしまい、嫌われたんじゃないかって不安になった。
喧嘩別れしてしまうのではないか、その不安が消えてなくならないのだ。
「逃げちゃったんだ。そんなに弘樹君からキスされるのが嫌だった?」
「……ううん」
フルフルと首を横に振って否定する。
「それとも、弘樹君が怖かった?」
「……それは、どうなのかな」
一瞬ではあったけども怖いと思った気持ちはあった。
けれども、それは弘樹が怖いんじゃなくて。
キスと言う未知の体験に対してのもの。
「いきなり、キスされるとは思わなくて」
「びっくりしちゃったんだ」
「……うん」
思わず、拒絶してしまった。
キスされる、キスをする。
どちらにしても、綺羅は想像していたつもりだったのに。
――キスに興味はあったし、いずれはしたいと思ってた。
なのに。
あんなにいきなりされたから、びっくりしたのが本音かもしれない。
「キスされるのが嫌じゃなくて単純にびっくりしただけね」
「……うん」
「それなら、ちゃんと弘樹君にもそう言えばいいじゃない。彼は綺羅の事を好きでいてくれる男の子なんだから、理由を話せば喧嘩なんてしないですむわ」
「でも、嫌われたらって思うと怖い。面倒くさいやつって思われたら嫌だ」
相手の反応を確かめずに綺羅は逃げた。
それが何よりも不安だったのだ。
「お話してみれば、案外何でもなかったりするものよ。弘樹君は優しい子だもの。話せば分かってくれるはず。彼が言った『綺羅を大事にする』って言葉を信用しなさい」
「信用……?」
「どんな時でも相手を信じるのも”恋”なのよ。愛を信じてこその恋愛でしょ」
七海の言葉に綺羅は小さく頷いた。
――ヒロ先輩は私を嫌いになんてなっていない。
今はそう信じることにする。
「ちゃんと謝る。逃げて、ごめんなさいって」
「そうね。それが大事な気持ちだものね」
「うん。先輩が悪かったわけじゃないって誤解を解かないとダメ」
「それだけで仲直りできるわよ。悩むよりも行動する。物事ってのは難しく考えると無駄に辛くなるだけなの。綺羅の本音を伝えれば弘樹君も納得するわ」
「……本当にそうだといいな」
綺羅は不安な気持ちを抱きながらも弘樹を信じることにした。
飲みかけだったココアを一気に飲み終えて、空になったカップをデーブルに置く。
そんな綺羅の頭を彼女は優しく撫でる。
「でもね、綺羅。ちゃんと恋をしてるんだって言うのはお母さんとしては嬉しい」
「え?」
「だって、好きな人を想って涙が出るっていうのは本当に相手を好きな証拠じゃない。綺羅が本気の恋をしてるってことの証拠でしょ。うふふ」
相手の反応が気になって、眠れなかったり。
嫌われたくなくて、辛くて、涙が出たり。
こんなのは今まで綺羅が経験したこともないし、想像したこともない。
彼女は今、人生で“初めての恋”をしている。
「私はずっと綺羅が心配だったのよ」
「え?」
「昔から他人と距離を取ったりする子だから、ちゃんと恋をしたりできるのかなって」
「ママ……」
「でも、やっぱり人って大切なのは縁なのね。弘樹君と出会って綺羅が恋をすることができたもの。恋をして貴方は変われてるわ」
人を好きになるのがこんなにも大変なんて思わなかった。
でも、心が満たされたりするものだって言うのも知らなかった。
恋をしている今のは綺羅は、恋を知らなかった過去の綺羅と全然違うもの。
成長しているのだと実感できていた。
「先輩の事、本気で好きなんだ、大好きなの」
「……ふふっ。明日にでも、お話する時間を作りなさい。せっかく綺羅が初めて好きになった人だから、その関係を大切にしていかないとね」
喧嘩したり、すれ違ったりして。
少しずつ、いろんなことを経験しながら自分の恋を進展させていく。
その一つずつのステップこそが、成長するために何よりも大事なものなのだ。
「……キスひとつでびびって泣いちゃうなんて、綺羅ちゃんは子供だねぇ」
今まで黙って様子を見ていた夢逢がポツリと本音を漏らす。
すると、七海は笑顔を浮かべながら、
「夢遭には無理ね。キスをする相手もいない夢逢には想像しかできない事だもの」
「はぐっ!?」
「想像しかできず、実体験もする機会もない。それはとても悲しいことね」
「やーめーて。ち、違うの、私の人生って暗闇じゃないの」
「暗いトンネルを抜けた先は雪山でした。ホワイトアウトで何も見えない」
「ま、まだ光は残ってるってばぁ!?」
母からの耳の痛い言葉に夢逢は表情を曇らせた。
何もかも自業自得である。
「貴方もいずれ、経験をするようになればその気持ちも分かるわ」
「はい」
「まだ経験がないから分からないだけよ。想像じゃない本物に触れなさい」
「うぐっ……痛い、痛いよ。お母さん、今の一言はちょっと胸が痛い」
自分に跳ね返ってきた言葉にうなだれる。
だが、姉としても妹の成長は見て取れる。
「なんか、綺羅ちゃんって知らない間に変わったね」
「恋は女の子を短期間に簡単に変えてしまうものだもの。……私の新しい悩みは出会いを逃し続けてる夢逢の方かしら」
「やだ、こっちに変な憐みの視線を向けないで。傷つくから」
「だったら、もう少しお母さんを安心させてちょうだい」
夢逢はそう言われて、「私だって、私だって」と拗ねていじける。
見た目が美人でも妙にプライドが高いだけの彼女はまだまだ縁がなさそうだ。
「わ、私よりも兄さんの方を心配したらどうなのよ。あっちはいいの?」
「あの子はよそ様の女の子を“大きなお腹”にさせないかの方が心配なのよ」
「うわぁ、数年以内にリアルでありえそう」
「私、相手の親御さんに『うちの息子がすみません』って頭を下げに行くのはだけは嫌だわ。そして、それが容易に想像できるのものねぇ」
「ですよねぇー」
「……兄、最低」
彼女たちの悩みは女好きの兄へとシフトしていく。
綺羅もその頃にはすっかりと気持ちが落ち着いていた。
悩みを延々と考えていても答えはでない。
――実際に会って、ちゃんと話し合わなきゃ何も解決しないもの。
会って謝罪すれば、あっさりと解決する問題かもしれない。
そして、今度こそ綺羅は自分の想いを伝えるのだ。
――悩んで、苦しんで、泣いてしまうほどに先輩を好きなんだって言わなきゃ。
恋に悩む、その経験は綺羅を大きく変えようとしていた――。




