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05 来客




 今日はとても良い日である――市場を歩くシュレンの機嫌は実に良かった。

 その日、シュレンは装備の新調の為に、様々な工房が軒を並べる職人街へと向かった。特に贔屓の店がある訳でもなく、ふらりと一軒の店に立ち寄った。品ぞろえは豊富で、想像していたものよりも遥かに拵えのよいガントレットを手ごろな価格で購入した。通常、直接身につける防具というものは体格や用途に合わせての細かい調整が必要である。オーダーメイドの品でなければ、購入時に調整の為の代金と時間を巡って、面倒臭いやり取りを店員と行うのが常である。

 それらの手間を一切省略し、需要と供給双方の事情がぴったりと合ったが故に、シュレンの値引きの要求は快諾され、労せずしてあつらえたかのようなその品を手に、彼は店を出た。

「さすがに王都だな」

 根城の《ティヒドラ》や様々な地方都市に比べても圧倒的に流通量と価格が異なる。王都への禁足処分が解けた以上、仕事のついでに立ち寄って、贔屓の店を見つけるのも悪くない選択肢である。愛想の悪さと腕のよさが比例するなじみの職人達の顔がふと思い浮かぶが、これも世間の厳しさ。『お客様は神様なのだよ』と呟きつつ、安くて良質な物を気持ちよく購入したいと流れてしまう買い手の心を誰が責められよう。


 ふわふわと浮きがちな心の赴くままに市場を歩いていたシュレンは、どこからか漂ってくる甘く香ばしい匂いに懐かしさを覚え、ふと足を止めた。少し離れた場所にある見覚えのある屋台からその匂いは漂ってくる。

 木の実の粉と小麦粉を練り上げ、乳や蜜を加えて焼き上げたその焼き菓子はクルケと呼ばれる。この国の子供にはなじみ深い。地方では混ぜ物をすることで、様々な味のバリエーションがあるが、やはり、この焼き菓子は基本に忠実なシンプルな作りが最も味わい深いというのがシュレンの見解だった。結局のところ混ぜ物は木の実の粉や小麦粉の質をごまかす為であり、物量が豊富な王都では、そのような必要はないというのが、通の言葉である。


 ふらふらと匂いに引き寄せられたシュレンは、屋台の前に立つ。狭い屋台の中では、見覚えのある老店主がシュレンの子供時分と変わらぬ姿で、クルケを焼いていた。炭火で暖められた鉄板の熱にあおられ、ふうわりと漂う香ばしい香りがシュレンの胃袋を刺激する。香ばしく懐かしい匂いに迎えられ、シュレンはふと幼い時分の夢を思い出した。

 ――いつかクルケを腹いっぱいに飽きるほどに食べてみたい!

 子供なら誰でも一度は見る夢であり、いつの間にか忘れてしまうものである。

 ふと、今の己がそれを実現させるだけに十分な資力があることに気付いた。あの頃と変わらぬ老店主の愛想笑いに迎えられるまま、クルケを注文する。僅かな銅貨で買えるそれを、わざわざ銀貨を出して買おうとするシュレンに店主は目を丸くする。

「これで買えるだけ頼む」

 突然の無茶な大量注文に答えるべく奮闘する老店主の手付きを眺めながら、シュレンはふと子供の頃を思い起こした。同年代の子供たちと無邪気に過ごせたあの頃は、窮屈な現実などに気づきもしなかった。ゆったりと流れる変わらぬ時の中を、永遠に過ごす事が当たり前だったあの頃は、今思えば、幸せだったのだろう。

「できたよ、慌ててこけるんじゃないよ」

 遠い昔にかけられた言葉そのままを繰り返す老店主から包みを受け取ると、シュレンは店を離れた。子供の夢を実現させ、一抱えもあるクルケの包みを抱えて去っていく見慣れぬ客の背にふと昔見た小さな背中を重ね、老店主は小さく微笑んでそれを見送った。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 甘く香ばしい匂いを漂わせる大きな包みを片手に、クルケを頬張りながら、シュレンは道を行く。

 大の大人が子供のおやつを満足気に頬張るその姿に、子供達は羨望の視線を向け、大人たちは呆れた視線を送る。行き交う人々の奇異な視線を全く気にも留めずに、子供時代の夢の実現に夢中になっていた彼は、市場の外れの空き地で足を止めた。

 少々歩き疲れた彼は休憩に適した場所を探して周囲を見回す。と、周囲に幾つかの不審な者達の姿があることにふと気付いた。クルケを頬張ることに夢中で、気付くのが遅れた己の失態に苦笑いしつつ 、視線を合わさぬようにその気配を窺う。


 彼の周囲の不審者達はシュレンを輪の中に取り囲むようにして徐々に距離を詰める。

 その数六名――。

 シュレンより年長であるもののまだ若い男達の姿は、明らかに堅気のそれではない。奇抜ともいえる外連味のある柄の鞘に収まった短剣をこれ見よがしに腰に下げ、肩や腕には同じく奇抜な柄物の革製の防具を付けている。傭兵としての目から見れば、全体的にちぐはぐなその姿は実戦的というよりむしろ、素人を威圧するためのハッタリの類いに見える。

 一目でならず者といわれる者達であることは見て取れるが、その姿に小さな違和感を覚える。彼らから発せられる暴力の匂いは明らかに街中の喧嘩レベルのものであり、集団として統率されている訳でもない。野良犬の集まりというのが適切な表現であろう。だが、彼らのハッタリ豊かな身なりからは明らかにカネの匂いがする。シュレンの知る人種とは大きく異なるその要素が、彼を警戒させた。

 通常、カネに貧するならず者は徒党を組み、己よりも弱い者を獲物にする。一目で傭兵と見て取れるシュレンにちょっかいを出すようなマネはなかなか出来るものではない。リスクを負わずに良い思いを――そんな思考が己をならず者たらしめていることに気付かぬまま、彼らは型どおりの行動をとる。

(街を歩いてたまたま目を付けられた、って訳じゃなさそうだな)

 男達に何らかの目的があるであろう事を感じ取ったシュレンは、指についた焼き菓子の粉を舐め取りながら、周囲に気を配る。

 一見ばらばらの風体の彼らだが、その左腕にそろって白色の腕章をしている事にふと気付いた。

 シュレンをじわじわと取り囲んでいく者達の生み出す、ただならぬ空気を感じ取ったのだろう。空き地で一休みしていた街の住人たちが、慌ててその場を後にする。閑散としたその場所にシュレンと六人の男達の姿が残された。

「いい天気だな! 調子はどうだ?」

 片手に焼き菓子の包みを抱えたまま、親しげな様子でシュレンは無造作に正面の男に歩み出し、声をかける。男の顔に一瞬、当惑の色が浮かぶ。素早く周囲の者達と視線を合わせるとすぐさま彼は返答する。

「兄ちゃん、なかなか景気が良さそうだな。俺達にもピカピカ光る物を少し分けてくれねえかな……」

「いいぞ、まだまだたっぷりあるからな、一人一つずつくらいなら恵んでやろう」

 無造作に男の眼前に焼き菓子の包みを差し出した。同時に男とシュレンが睨み合う。

 周囲の者達の気配が小さく揺らぐ。空いた右手をいつでも右腰のダガーへと伸ばせるように気を配る。

「なんだ、いらないのか、遠慮なんてしなくていいぞ。今日の俺は機嫌がすこぶるいいんでな……」

 包みで男の視界を遮りながらさらに歩みを進め、彼らの作る輪の外へと身を移す。いかに闘い慣れしていようとも、周囲を囲まれ数で押されては圧倒的に不利となる。彼らとて只の素人ではない。そんな彼らがシュレンをあっさりと輪の外へと逃がした所をみると、彼らの目的が即座に暴力へとつながるものではないようだ。何らかの警告を発しに来たと見るべきだろうか。

 香ばしい匂いの包みを突きつけられた男は、無表情のまま、己の視界を塞ぐそれをさりげなくそらした。

「兄ちゃん、俺達が欲しいのは、ガキのおやつじゃないんだがな」

「お前らにはこっちがお似合いだろ、なかなかうまいぜ? 遠慮するなよ」

 さらに包みを鼻先へと突きつける。度重なるシュレンの挑発にいら立ちを見せたのは、傍らに立っていた別の男だった。

「テメエ、いい加減にしねえか! 下手に出てりゃ、つけ上がりやがって!」

 突きつけられた包みを力任せにはたき落とす。周囲にバラバラと焼き菓子が散らばり、男はそれらを踏みつけた。香ばしい匂いが風に舞った。その様子を目の当たりにしてシュレンの顔から表情が消えた。

「まあまあ、落ち着けよ。俺達は事を荒立てようって訳じゃ……」

 最初の男の言葉が途中で途切れる。肩掛けカバンの中に手を伸ばして中を探り始めたシュレンの姿に、眉を潜めた。

 男達の視線を無視して、購入したばかりのガントレットを取り出したシュレンは、それを素早く手に嵌めた。ギシリと拳を握りしめ、具合を確かめる。

「何の真似だ! テメエ!」

 戸惑いつつ興奮した男の声を取り合わず、ぐるぐると右腕を振り回してさらに具合を確かめる。最初の男の間合いに無造作に踏み込むと同時に思い切り右拳を振り抜いた。

 グシャリという手ごたえと共に男の鼻梁が砕けた。不意の一撃をまともに受け男は倒れる。すかさず、側に立つ焼き菓子をはたき落した男の股間を蹴りあげた。股間を抑えて堪らず前のめりに崩れる男の後頭部に、ガントレットを付けたままの両拳を叩き落とし、気絶させる。

 あっという間に二人の仲間を倒され、男達はいきり立った。

「よくもやりやがったな!」

 シュレンよりも大柄な男が飛びかかる。さらに二人の男たちが襲いかかってくるのを視界の端に捉えながら、シュレンは巧みに男のタックルを捌く。同時に襲いかかってくる二人の顎と鼻梁を、右拳と頭突きで砕いた。

 タックルをかわされた男が起き上がる。

 さらに二人の仲間が倒され、男は完全に頭に血が上った。

 体格と腕力に自信があるらしく腰のダガーを抜く事もなく素手のままで襲いかかる。その突進をシュレンは真正面から組みとめ。同時に膝蹴りを男の鳩尾に叩き込んだ。だが、男の巨躯はびくともしない。わずかに顔色を変えながらも、圧し掛かる様にシュレンに自重で圧力をかけた。

 男の力に一瞬、逆らうと同時に、シュレンはその場に勢いよくしゃがみこむ。つんのめった男の身体が宙で一回転して大地に叩きつけられた。すかさず立ちあがったシュレンは、間髪をいれずに倒れた男の顔面に肘ごと倒れ込んだ。体重の乗った一撃に耐える術はなく、男の身体は動かなくなる。すばやく起き上がってシュレンは周囲を警戒した。

 五人の男が倒れ伏し、残るは一人。

 瞬く間に仲間達を倒されて残った男の顔には怯えの色がありありと映っている。シュレンと視線が合うと同時に、慌てて腰に手を伸ばそうとした。

「やめとけ!」

 シュレンの放った言葉にびくりと手を止める。

「抜いたら……、斬るぞ!」

 背中の剣の柄に手をかけながら、倒れ伏した男達と距離をとりつつ、残った男を牽制する。

 しばし逡巡した男だったが、短剣を抜くのをやめ、へなへなとその場に崩れ落ちる。男の顔に戦意がない事を確認して、シュレンは警戒を解いた。

 ふと崩れ落ちた男の向こうに幾つもの視線を感じ取る。空き地の入口から野次馬が人垣を作って、恐る恐るこちらを覗き込んでいる様子が見て取れた。その中に見覚えのある顔を見つける。錬武館の師範であるサガロだった。

 ――そういう事か。

 シュレンの視線を感じたのか慌てて、サガロの姿は人垣の中に消えて行く

 六人をけしかけたのは十中八九、彼だろう。ただ、その意図が見えなかった。

 シュレンを取り囲んだ六人は、昨日、錬武館の帰りに彼を取り囲んだ者達よりも遥かに腕は悪い。そんな者達をけしかけた所で結果は一目了然のはず。

 あるいはシュレンにわざと殺しをさせ、それを王都の警備隊にでもたれこむつもりだったのだろうか? 只の喧嘩ならともかく、昨日の暗殺ギルドの刺客の場合と異なり、王都内における殺しの正当性を証明するのは、例え傭兵であっても厄介な事この上ない。今回のように目撃者が多数あれば、大きな心配はないが、それでも下手をすれば再び追放処分を免れない。

 ふと、倒れている男達の白色の腕章に目が行く。どんな意味があるのかは分からない。六人ともが同じ物を身につけている事に気を引かれた。

 ――まあいいさ、帰ってブランに聞いてみるか。

 喧嘩の原因となった食べ損ねた焼き菓子の無残な姿に未練を覚えつつ、シュレンはその場を後にする。空き地の入口のヤジ馬たちが慌てて譲った道を通って、シュレンの姿は堂々と消えて行った。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 昼時を終え、夕食の仕込みに入ろうとしつつある《赤髭亭》の店内は、客の入りもまばらでのんびりとした空気が漂っている。

 せっかく買ったにも拘らず、半分も食べぬ間に無くなってしまった焼き菓子を思いだし、空腹感を覚えた。さすがにあれだけの量を買い直す気にもならず、倒れた男達から損害分を取り返す事を忘れて立ち去ってしまったのは、痛恨の極みだった。

 今度出会ったら、請求してやるか、などと考えながらテーブルに着いたシュレンの元にやってきたのは、愛層のよい女給仕ではなく、僅かに眉をしかめたブランだった。シュレンの元にやって来るや否や、ブランは率直に用件を告げた。

「お前に客が来てるぜ」

「客?」

 ブランの言葉に眉を潜める。シュレンが王都に戻ったのは昨日の事。そして、彼がここに滞在しているのは偶然の結果である。二日も立たずに争い事に巻き込まれたことはともかく、彼の所在を割り出して尋ねてくるには余りに早すぎる。

「それで、そいつはどこだ」

 周囲を見回すシュレンに、ブランは戸惑った表情を浮かべて上を指さした。宿の一室を借りきっているらしい。

「どんな奴だ?」

 シュレンの問いにブランは表情を変えることなく簡潔に答えた。

「怪しい奴だ……」

 ブランらしからぬ奥歯に物が詰まったような物言いにシュレンは再び眉を潜める。ブランは続けた。

「危険な奴じゃねえ……、と思う。ただ、俺がどうこう言うのもなんだから、自分で判断したほうがいいと思ってな……」

「そうか……」

 仕方なくグラスの水を一杯飲み干すと腰を上げる。ブランに案内されて、シュレンは食堂を後にした。突然の来客のお陰で、シュレンと争いになった白い腕章の男達の事をブランに尋ねるタイミングを逸したシュレンは、結局、彼らとのいきさつを忘れてしまう事になった。


 案内されたのは宿で最も良い部屋だった。

 ポンと肩を一つ叩いて立ち去るブランに礼をいうと、シュレンは扉をノックする。ドア越しのくぐもった声で「どうぞ」と招かれたシュレンは、扉を開いて中に入る。程々に上質な家具の置かれたその部屋で彼を待っていたのは、ブランの言う通りの怪しげな風体の人物だった。外套のフードを目深にかぶったままの姿で、その人物は椅子に座ったままでシュレンを出迎えた。

「あなたが……、シュレン……殿ですか?」

 男にしては高く、女にしては低い声でフードの人物はシュレンに問う。シュレンは即座に返答しなかった。室内に沈黙が訪れる。

 わずかに目を細めるとシュレンは外套に包まれた人物の全身を観察する。姿勢正しく椅子に座ったその姿には、特権階級に身を置く者が持つ独特の気品が漂い、全体的に細めの身体のラインは、どこか女性的な物を感じさせた。シュレンの視線に怖じる事もなく、己が値踏みされる事に慣れているかのように堂々としている。暫しの沈黙の後、シュレンは答えた。

「初対面の相手に顔を隠して挨拶するのが、あんたの流儀か?」

 シュレンの言葉を聞くや否や、フードから僅かに垣間見える口元が小さく動いた。

「これは……、失礼しました。なにぶん、緊張していたものですから……」

 立ちあがり優雅な手付きで外套を脱ぐ。宮廷楽師のような指の細さに一瞬目を奪われた。

 現れたのは整った若い男の顔だった。十代の半ばを少し過ぎたあたりか。亜麻色の髪を後ろで縛ったその姿は中性的であり、身につけたものから、おそらく彼が男であろうと推察される。だが、その推察にシュレンは小さな違和感を覚えた。

「俺がシュレンだ。あんたは?」

 一つ呼吸をおいて、男は答える。

「訳あって、身分を明かす事も本名も名乗れません。リドルとお呼び下さい」

 外套を傍らのテーブルの上に無造作に置き、再び座り直す。シュレンは空いた椅子を一つ取り上げると、男から離れた場所に腰を落ち着けた。背の剣を外し、いつでも抜けるように己の傍らに置く。リドルと名乗った若者の佇まいから、彼が武に長けた者には見えないが、用心に越した事はない。椅子に座ったシュレンは彼と向き合うと徐に尋ねた。

「で、どこの誰かも分からぬリドルさん、俺に何の用だ?」

 暫しの逡巡の後、少し思いつめた表情を浮かべたリドルは、思い切ったように切り出した。

「あなたにある人物を暗殺していただきたいのです」

 ほんの一瞬、垣間見せた暗い表情が心に焼きついた。怨念を背負っている――己よりも年若い彼の人生に訪れた闇の匂いをシュレンは感じ取った。関わり合いになるべき話ではない、即座に判断したシュレンは拒否の意思を示した。

「悪いが、相手を間違えてるぜ。誰かを殺したいなら自分でやるか、暗殺ギルドにでも頼むんだな」

 腰を上げようとするシュレンを、リドルは慌てて引きとめる。

「ま、待って下さい」

 一瞬、僅かに声質が変わる。それがシュレンの中の小さな違和感の正体へとつながった。

「あなたは傭兵だと窺っています。ならば、お金次第でどんなことでも引き受けるのでしょう。謝礼ははずみます。貴方が興味を持つはずの情報も……」

 リドルの言葉が途中で途切れた。彼を睨みつけるシュレンの視線に気圧され、僅かに怯えの色を見せる。シュレンの表情にはそれほどの凄味があった。己の言葉がシュレンを怒らせた事は理解できるが、何故、彼が怒ったのかは理解できないといったところだろう。暫しの間、リドルを睨みつけていたシュレンだったが、やがて静かに口を開いた。

「あんたは傭兵ってのが、どういうものかって事を少し勘違いしているようだな。たしかに俺達は金で動くが、そこには俺達なりのルールがある。少なくとも俺達の周りにいる奴らはそうだ。金さえ出せば何でも引き受けるなんてのは、大きな勘違いだ」

 リドルに返事はない。

「仕事上、結果的に相手を殺す事もない訳じゃない。でもな、そうするには悪事を働くこととは全く意味合いが違う、大義ってのが必要だ。他人のつまらん怨念を安易に背負えばそれに取りつかれる。そして一旦、悪事と仕事の境目のルールを捨ててしまった奴は、いずれ人の世の流れに淘汰されちまうもんだ」

 常に限りなく黒に近いグレーゾーンの世界に身を置くシュレンは、道を踏み外す者達の姿を幾度も目の当たりにしてきた。その恐ろしさも身に染みている。言葉を用いて明快な論理で区分される事はけっしてない世界。厳密な言葉で言い表せぬ感覚の中でそれを判断し、自身の価値観に少しでも反する事柄には関わるべきではないというのが彼の信条だった。

 暫し黙りこんでいたリドルだったが、やがて重々しく口を開く。

「大義なら……、あります」

 真剣な声だった。吐き出すように言い放つと共に僅かな憂いの表情を浮かべる。年若い彼に似合わぬその表情は僅かにシュレンの興味を引いた。

「どんな?」

「それは……」

 リドルは言い淀む。暫くの沈黙の後に続けた。

「それは……、仕事を引き受けてくれればお話します」

 シュレンは小さくため息をついた。

「悪いが帰ってくれ。あんたとこれ以上、話す事はない」

 話を切り上げようとするシュレンに、リドルが食い下がった。

「ま、待って下さい。貴方が得る事になる報酬は決して……」

「あんた、全然、分かってないな」

 シュレンはリドルを睨みつける。その視線の強さにリドルはわずかにたじろいだ。

「大義ってのはな、そこに誰もが納得し、共感する理由があり、例え、どんなにちっぽけでも、胸を張って言えなきゃならないんだ。誰かに押し付けられたわけでも、刷り込まれたわけでもねえ。『生きたい』『未来を切り開きたい』っていう命の欲求に必要不可欠なものだ。街や村の生存の為、家族の未来の為、己の良心や信条の為――一人じゃ決して生きられない事を知る弱い人間が縋るもの。それを失ってしまえば、決して人として生きてはいけぬもの。人によってまちまちだが、そいつの為なら己の命なんてちっぽけなもの、いくらでもくれてやる、そう言えるからこそ他人の心を引き付ける。訪れる未来に何らかの魅力がある事で他人は納得する。ああ、こいつが大切にしようと思うものの為なら、俺の力を貸してやろう、ってな」

 正対して座るリドルに向かって、シュレンは堂々と言い放つ。

「報酬は大事だ。生きる糧がなけりゃ死ぬだけだ。大切な物も守れない。大義や理想じゃ腹は膨らまねえ。それが現実だ。だが、どんなに報酬がよくとも、カネには現実を留める力しかない。希望へとつながる手段の一つにはなりえても、希望そのものになる事は決してない。そうやって状況に応じ、現実と大義や理想を天秤にかけて生きるのが人間だ。大半は前者に傾くがな」

 小さく息をつく。

「大義や理想のない現実の中じゃ、人は漫然と生きて死ぬだけだ。弱者から順々に強者に喰らわれて。生き残った強者も最後は己を食いつぶして死ぬ。後には累々たる屍の山が残るだけ」

 リドルの顔色は心なしか青ざめている。その人生の中に思い当たるふしがあるのだろうか?

「一人の人間の命を、別の人間が消し去るという事。それは特別なことなんかじゃねえ。ずっと昔から当たり前にある事だ。だから、人が輪の中で生きるため、それは禁忌とされる。時に神の教えなんてものをでっち上げてな。だが、それでもその行為が消え去ることはない。例え倫理の鎖で雁字搦めにしばられた人間でも、目の前の己の利益の為ならあっさりとその行為に手を染める」

「大義を振り回しても同じでしょう」

「だから俺達はその境目を見極めなきゃならない。それが武器を振い、他者の命を奪うものの義務だ。あんたは己の大義を堂々と語る事は出来なかった。そして、己に代わって私怨を晴らしてもらおうという相手とカネだけでつながろうとした。そんな奴を俺は信じるつもりはないし、そんな奴の為に剣を振うつもりも、命をかけるつもりもない。これが俺の答えだ」

 シュレンの辛辣な言葉にリドルは両の肩を小さく震わせた。お前がいかなる身分のものであろうとも所詮は取るに足らぬ人間だ、という言外の侮辱に気付いたのだろう。

 立ちあがり、テーブルの上に無造作においてあった外套を身にまとう。フードから僅かに垣間見える整った顔立ちは怒りで赤く染まっている。そのまま荒々しい足取りで、椅子に座ったままのシュレンの傍らを足早に歩き抜ける。嗅ぎ覚えのない柔らかな甘い香りがシュレンの鼻孔をくすぐった。

 そのままリドルは廊下へとつながる扉に手をかけた。ふと、何かを思いついたかのように立ち止まる。小さく深呼吸すると、シュレンに背を向けたまま彼に尋ねた。

「三年前、貴方は無実の罪を着せられ、輝かしい未来を失った、そう聞いております。真実を知りたいとは思いませんか?」

 リドルの不意打ちにシュレンは小さく息を飲む。その動揺は、僅かに揺れた室内の空気を通して、確実にリドルに伝わった。

 暫しの沈黙が流れる。

 大きく跳ねた心臓を落ちつけるかのように一つ大きく深呼吸すると、シュレンは背中越しにリドルに答えた。

「悪いが、とうに過ぎ去った事だ。どうでもいいな」

 シュレンの拒絶に、リドルは拳を握りしめる。振り返るや否や、座ったままのシュレンの背に向かって詰問した。

「それは本心ですか? 誉れある騎士の家柄のあなたに意地というものはないのですか? メンツをつぶし、踏みにじり、今ものうのうとしている者達を糾弾し、己が身の潔白を証明したいとは思わぬのですか?」

 フードの中にある顔にはいかなる表情が浮かんでいるのか。背後に立つリドルの表情は、シュレンには知る由もない。

「誉れある騎士の家柄……か」

 ポツリと呟いて、宙を仰ぐ。特権階級の出自の者にはそれは重い言葉のはずだった。年を重ねるほどに人は己の出自に重きを置く。地位、名誉、誇り。それらを貶められれば皆、憤る。代わりなどいくらでも利く人の世で生きるには、多くの者達が己についた記号や肩書で互いを値踏みする。だが、その輪を外れたシュレンにとって、それは何の意味もなさなかった。

 暫しの時をおいて、シュレンは静かに答えた。

「思わないな。俺達にとって、全て過去の出来事だ」

 シュレンの答えにリドルは小さく歯を食いしばる。全身を小さく戦慄かせた後で、彼は絞り出すようにシュレンを詰った。

「貴方は……、貴方は、嘘つきの卑怯者、ただの臆病ものです!」

 背を向けたまま座るシュレンの背に動揺は見られない。己の言葉がシュレンに届かぬ事を知ったリドルは、暫し、その背を睨みつけると扉を開いて外へと出ようとした。と、シュレンが呼び止めた。

「リドルさん」

 返事をすることなくリドルは振り返る。椅子に座ったままのシュレンの姿勢は変わらない。顔を見せる事もなくシュレンは続けた。

「つまらない事だが……」

 小さく前置きをしてわずかに間を置く。

「変装をするときは身に纏う香りにも気を付ける事だ。あんたがどこの家の御令嬢かなんて一発でばれちまうぞ」

 シュレンの不意打ちにリドルの頬がさらに赤く染まる。しばしシュレンの背を睨みつけていたが、小さく呟いた。

「気を付けましょう」

 開かれた扉が、叩きつけられるように閉じられ、乱れた足音が徐々に遠ざかってゆく。彼が通りに出た頃を見計らってシュレンは窓からそっと表通りを覗いた。

 己の怒りを明らさまに隠そうともせずに歩き去っていくリドルと思わしき外套の姿が、通りを行く。その後ろを僅かに離れて後を付ける訓練された3つの人影に、シュレンは気付いた。おそらく護衛であろう。道行く人々の流れを僅かに乱れさせるその一行の姿が通りの向こうに消えるのを見送ると、シュレンは窓際から離れ、ベッドに倒れ込む。

「厄介なお嬢さんだな、全く……」

 天井を眺めながらポツリと呟く。

 男装しリドルという偽名を名乗った彼女は、間違いなく貴族、それも相当に身分の高い家の生まれなのだろう。彼女の言葉の端々から名誉や誇りを重んじる特権階級ならではの力みが感じられる。と同時に、シュレンが騎士階級の出であると知って尚、見下す傲慢さが鼻についた。身分の高い己の要求は了承されて当然、異論などあろうはずもないという環境に育った故に、シュレンの拒絶と手痛い反撃はその誇りを著しく傷つけたに違いない。

 ギブアンドテイク、報酬次第で仕事を引き受ける。それは間違ってはいない。むしろ当然の感覚である。だが世の中には言葉に言い表せぬルールや決して金に代えられぬものが存在し、生死の境に近づき命の危険が脅かされるほど、その存在は大きくなる。

『人の形をした人ならざるものを斬ってこい』

 かつてゼハルド老師はシュレンに言った。未だに真意の読めぬその言葉の重さがシュレンのこれまでを確かに支えていた。

 斬ってよい者とそうでない者――。

 リドルの怨念を引き受ける事は、時にその選択を誤りながら己の感覚に自答してきたシュレンにとって、後者であるといえた。

 仕事ではなく悪事――。

 そのような物をやすやすと引き受ければ、得られる物以上に厄介な物がついて回るのは目に見えている。僅かな施しを盾に法外な要求を突きつける者は、世の中に満ち溢れているものだ。いかに報酬が高くとも、それがすぐさまあの世への渡し賃となってしまえば目も当てられない。

「縁がなかったのさ」

 ぽつりと呟くとリドルとの邂逅を忘れる事にする。王都を離れてしまえばもはや思い出す事はないだろう。そう考えながら、シュレンは上質な寝具の上で目を閉じる。

 少しずつ遠のいていく意識の外側で、ふと、聞き覚えのある足音を感じ取った。足音の主はシュレンのいる部屋の前で暫し躊躇った後、扉をノックした。我に帰ったシュレンは、寝台に横たわったまま招き入れる。

 入ってきたのはブランだった。仕事着に染みついた甘いソースの香りがふわりと室内に広がる。

 寝台の上でくつろぐシュレンを一瞥すると、ブランはニヤリと笑みを浮かべて切り出した。

「ずいぶんと怒ってたみたいだが、一体、何をやらかした、あの女に?」

 シュレンは小さく驚いて身を起こす。

「よく分かったな、あれが女だって」

「当たり前だろ。ウチは客商売だぜ。どんなに隠しても、しつけの行き届いた振る舞いや気品あふれる優雅な物腰ってのは、早々隠せるもんじゃねえ。一体どこの止事やんごと無き御貴族様の御令嬢だ?」

「さあな、世間知らずっぷりの凄まじさから相当なもんだとは思うが……」

「その割には……」

 室内の様子を眺め、二つの寝台の様子を代わる代わる見比べる。

「寝台がきれいなままだな。無理矢理手籠めにして怒らせたんじゃないのか? 手もあっちも早いのは、相変わらずか……」

 ニヤリと笑うブランの顔面に枕が飛んだ。

「勘弁しろよ。見かけがどんなに良くても、自意識ばかり強いワガママ女なんて楽しめねえ。鬱陶しいだけだ」

 うんざりした口調のシュレンに、ブランは枕を拾い上げながら畳みかける。

「遠慮するなよ。部屋代は前金でたっぷりもらったからな」

「たっぷり……って、一体どのくらい?」

「一週間ってとこだな」

「そんなにか?」

「一番上等な部屋、って言えば、聞こえはいいが、ここはそれなりの身分の人間が色々とやらかすのに使われる事が多いからな」

 シュレンは眉を潜める。

 薄板一枚の他の客室とは違って、この部屋の壁はそれなりに厚く、調度品や寝具も上質なのはそういうことかと合点がいく。そんな場所を僅か数刻使うために一週間分の宿賃を支払ったというのだから、相手の懐事情は相当なものであろう。大義だなどと格好をつけてやせ我慢したものの、実はおいしい大口のお客だったのかもと小さく残念がる。

 尤も過ぎ去ってしまえば後の祭り。この街に長く居座るつもりのないシュレンにとって、もはや過ぎ去った出来事の一つである。

 酒と共に遥か彼方へと流し、別の厄介事(飯のタネ)を探すのが正しい傭兵の生き方といえよう。

「何はともあれ腹が減った、少し早いが晩飯にしたいな……」

「只飯のくせにずうずうしい奴だな」

「臨時収入があったんだろ? 旨いのを頼むぜ」

 ニヤリとシュレンは笑う。

「いいだろう、俺様特製の新作料理を堪能させてやろう」

「まさかコゲてんじゃ、ねえだろうな」

 不敵に笑いかえすブランが差し出す手をとり、寝台から起き上がる。腕は確かだが妙なこだわりを見せるこの男の並べる皿には、時として驚きと混乱が食べる者に襲いかかる。

「時にシュレン」

 扉を開けたブランが、ふと真面目な顔をして振り返る。

「なんだよ?」

「女を連れ込むんだったら遠慮するなよ、部屋代は……」

「しつこいんだよ、お前は」

 軽く繰り出されたシュレンの拳をあっさりとかわしたブランの笑い声が、開かれた扉から廊下へと広がった。




2013/03/29 初稿




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