02 帰還
王都《ソヴィアーヌ》――。
麗しの都、永遠の青、とも謳われる水と緑豊かなこの街が、ヴォーダルファ王国の中心地である。建国王にして大王マーセウスが若き頃に見染めた美しき愛人の名がその由来と言われる。両者ともに早世し、その原因は嫉妬に狂った正妃による毒殺だったとささやかれるが、真実は定かでない。王国の他都市につけられた名が大王の愛人たちの名であったなどというまことしやかな噂もあり、歴史家たちの議論の分かれ目である。
ともあれ、経済の中心地でもあるこの街から、陸路、水路を通じて日々出入りする人や物の量は莫大なものだった。その警護依頼に携わる傭兵達の仕事の報酬は、他都市間でのそれの2割増しといったところだろう。
三年前、とある事情でシュレンは生まれ育ったこの街からの追放処分を受けた。それは、シュレンの仕事にも影響し、同業者達より腕が良いにも拘らず、稼ぎに響いた。幸い、所属する傭兵団の団長に理解があり、仲間たちと都合をつけ合う事で大きな問題にはならなかった。だが、事あるごとにじわじわと圧し掛かる過去の事情は、シュレンにとって重荷以外の何物でもなかった。
その処分がようやく解かれたのがつい先日の事。処分解除の正式な手続きをする為に、彼は王都を訪れていた。
頑丈な城壁で守られた街の検問所に辿りついたのは早朝だった。シュレンは検問所に設けられた一室で昼すぎまで待たされた。人と物の出入りの激しいこの街では、密輸や流浪者達に対する検査は厳しく行われ、それらの仕事に多くの人員が割かれている。にも拘らず、シュレンが長く待たされたのは、やはりかつて彼の身の上に起きた事情ゆえであろう。
提出した書類を一読した検査官達が騒然とし、シュレンは速やかに建物の奥へと通され、厳重な見張りが付けられた。役人達の好奇の視線に、彼は忍耐の時を過ごした。昼過ぎになってようやく通行許可が下りたものの、待たせたことに対する詫びなどあろうはずもない。厄介事をおこすなよ、という横柄な役人たちの態度に内心むっとしながら、その場を後にする。処分解除の手続きは遅滞なく終了したため、そのまま根城にとって返す事も可能だった。だが、良い思い出が少ないとはいえ、久しぶりの故郷。溢れだす懐かしさと共に、シュレンは街の中へと歩みを進めた。
子供の頃に遊び回った想い出深い場所を振り返りながら、彼が一番に向かった先は、王宮近くに門を構える錬武館の一つだった。
国王より『指南師』の資格を与えられた者達によって開かれるその場所は、国内の富裕層や大貴族の援助によって成り立つ私塾のようなものである。貴族や騎士階級の者達がその子弟を預け、学問、武術、礼儀作法を学ぶ。多くの特権階級の者達にとって、この場所で培われる人間関係は、後々、王国内で生きていくための複雑な人間関係の基盤となる。 シュレンが過ごしたこの錬武館の代表指南師の考えは一風変わっており、特権階級だけでなく平民達にもその門戸を開放していた。騎士階級の出身で宮廷星導士であった今は亡き父親の伝手により、似た境遇の同年代の子供達と共に、シュレンは幼年期から少年期をここで過ごした。
鍛錬場から、幼い子供達の元気な気合が聞こえる。
鍛錬の際に、石造りの床や壁面に幾度も叩きつけられた痛みを、ふと思い出す。武術の鍛錬は厳しい。気を抜けば取り返しのつかぬ事故につながる事もままある。故に指導する者もされる者も皆、真剣に取り組む。その上で尚、一年に一人は必ず、大きな怪我と共に退場者が出る。真剣な場所で生まれる人間関係は尊く、多くの者達はそれを誇りにする。 だが、時にそれが行き過ぎ、混乱と災いを招くのも世の常である。
入口から見える後輩たちの姿に、幼い時分の己の姿を重ねる。小さく笑みを浮かべたシュレンに、声をかける者が現れた。
「お前、もしかして、シュレンか?」
振り返ったその先には、見覚えのある男の姿があった。
「サガロ……師範?」
声をかけたのは、サガロという名のこの錬武館の師範の一人だった。熱血漢といえば聞こえは良いが、頭に血が上りやすく、己の非を認められぬ性格の彼は、若干反抗気味だった子供時分のシュレンを念入りに可愛がってくれたものである。既に壮年に達しつつあり、武人としての腕は悪くないが多くの子弟達の間での人気は低い。それでも錬武館の師範であり続けられるのだから世の不思議といわざるをえない。
厄介な奴に出くわした、とばかりに早々にその場を立ち去ろうとする。シュレンを引き止めたのはサガロの怒声だった。
「何しに来た! 我が錬武館の恥さらしめ!」
大きな声だった。場内に響き渡ったその声に、子供達の声が止み、しんと静まり返る。
相変わらずだな、と苦笑いを浮かべたシュレンは、彼を無視して歩き出した。その肩をサガロは掴んだ。反射的に振りほどき、サガロを睨みつける。シュレンの態度にサガロはさらに怒りを深めた。
「お前のせいで、この錬武館に関わる者達がどれだけ肩身の狭い思いをしたか分かってるのか! よくもまあ、おめおめとここに戻ってこれたものだな!」
言いたい事は分からぬでもないが、シュレンにも言い分はある。だが、興奮すると他者の言葉に耳が入らぬ性格は相変わらずのようで、一人で盛り上がっていくその姿に溜息をつく。
「悪いが、アンタに会いに来た訳じゃない。そこを通してくれないか? あの子達も見てるんだぜ」
シュレンの示す先には、成行きを見守る子供達の姿がある。教育者としての己の立場を自覚させ、自重を促したものの逆効果だった。
「帰れと言っているのが分からないのか! それとも叩き出されたいか?」
手にした模擬剣を突きつける。訓練用として刃引きされているものの、金属製のそれは、当たり所が悪ければ大怪我につながる。毎年、訓練時の事故原因の最大要因ともなっている。ここはおとなしく引き下がるのが賢い選択である。しかし、朝からずいぶんと役人の横柄な態度に我慢を重ねてきたためか、その時のシュレンは冷静な対応ができなかった。
「叩きだす? 俺を? あんたがか? しばらく見ないうちに冗談がずいぶんと上手くなったじゃないか? 師範」
シュレンの言葉にサガロはその顔をさらに赤く染める。
「シュレン、お前……」
怒りに震えるその姿に、シュレンは腹をくくった。
「少し、相手してやろう。アンタには昔、ずいぶんと可愛がってもらった事だしな」
サガロは嘲笑した。
「いいだろう、後でほえ面を掻くなよ。念入りにやってやる。この錬武館に関わる者達の恨みをたっぷりとこめて……」
自称、錬武館代表としてシュレンに正義の鉄槌を下すつもりらしい。平和な頭だ、きっと悩みはないんだろうな、とシュレンは僅かに羨んだ。
シンと静まり返った鍛錬場内で二人は対峙していた。
周囲には突然始まった二人の試合に興奮を抑えきれずにざわめく子供達の姿がある。彼らの眼前でシュレンを叩きのめし、師範としての己の力を見せつけるつもりらしい。
やる気満々の構えのサガロに対して、シュレンは自然体で立っていた。手にはサガロと同じく模擬剣がある。それが勝負に対するシュレンのやる気を一気に削ぎ落した。
――つまんねえ。
所属する傭兵団内では仲間内の争いはご法度である。私闘の制裁は重い。にも拘らず、周囲に噛みつく者はいるものだ。
闇打ち、仇討ち、騙し打ち。
そのような輩との争いでは真剣勝負が当然である。それが日常と化しているシュレンにとってこの勝負は茶番でしかなかった。
錬武館の師範である以上、実戦の経験がない訳ではないのだろうが、平和な場所で己の力よりはるかに劣る者達を相手に得意がる日々は、彼の武人としての感覚を鈍らせたようだ。虎も飼いならされれば猫同然である。
「どうした、何故構えない?」
やる気がでねぇんだよ、という言葉を飲み込み、シュレンは無言で対峙する。サガロに対し、正対したまま右手にだらりと模擬剣を下げたその姿は、決して眼前の敵を侮っているからではない。
無駄に力めば、剣速は鈍る。構える事で最初の手を相手に読まれる。一見隙だらけのシュレンの構えは、サガロの攻撃を誘いこみ、カウンターを仕掛ける理にかなったものだった。
対峙するサガロは、性格はともかく腕は一流である。だが、同時に剣士として技が洗練されるほどに、その動きは画一化する。ただ、画一化されたからといって弱体化する訳ではない。玄人と素人とでは一撃の質の意味合いが全く異なる。
相手の攻撃線を封じ、己の必殺の技を持って勝利する。そこに至るまでの過程は武を極めんとする者達の数と同じだけ存在する。最も理にかなった技を持つ者こそ最強の称号を得、その足元には多くの屍がならぶのは戦いの理に身を置く者の必定だった。
挑発に一向に応じぬシュレンに業を煮やしたサガロが、シュレンに攻撃を仕掛けた。片腕での牽制の打ち込み。届くか届かぬかの距離感でのその攻撃は実に巧妙だった。
受けるか、巻き込むか、あるいは鍔競り合うか。
シュレンの出方次第で、サガロは経験に裏打ちされた技巧をもって一気に畳み込むつもりだろう。長剣同士の戦いでは、刃と刃がぶつかり合った次の瞬間の仕掛けが全てである。
だが、シュレンの一手はサガロにとって予想外のものだった。
突き出されたサガロの模擬剣の半ばを銀の閃光が斜めに走る。甲高い金属音と共にサガロの模擬剣が砕けた。折れた刃が弾き飛び、音を立てて転がった。
守るでもかわすでもなく、攻撃を選んだシュレンはサガロの模擬剣をあっさりと破壊した。強引すぎる力技の軌跡は、目で追う事も出来ぬほどに速かった。遠巻きに眺めていた子供達の間に小さなざわめきが生まれる。折れた剣を手にしてサガロの顔色が変わった。
「お前、まさか、《疾風の剣》を……」
その言葉に二人の争いを見守っていた子供達がざわめく。シュレンはわずかに眉を潜めた。
「知らなかったのか? 俺が『使える』ってことを……」
「バカな……。お前ごときが……」
サガロの顔色が真っ青になる。シュレンの言葉は、サガロよりも年若い彼が、はるかに高い段階にいる事を示していた。武術で身を立ててきたサガロにとって、それは屈辱だった。
――やっぱり甘いな。
屈辱に拳を震わすサガロの姿をシュレンは見つめる。
最初の一撃は必殺の一撃を打ち込むべきだった。相手の予想のさらに上を行く強力な一撃を打ち込んで初めて、次の技が生きる。受けられる事や、かわされる事を前提に技を出した時点で、それは相手の心に余裕と反撃の意思を持たせることになる。
それは闘いの中に身を置く者の思考ではない。中途半端な平凡の中で周囲の顔色を窺って生きる者の思考である。
制裁を加えるといいながら、やっている事は手合わせや試合と同等。どんなに真剣にやろうともそれは実戦とは全く異なる。頭では分かっていても、己の身体が日々の生温い感覚にどっぷりと支配されていることに、サガロは気付いていない。
「お前ごときにそんな事、あり得るはずが……」
折れた模擬剣を投げ捨て、壁面に立てかけられた模擬斧槍を取り上げる。正しい判断だった。武人としての本能がその選択をさせたのだろう。だが、やはり甘い。手合わせという枠から己の意識を外す事の出来ぬサガロは、シュレンの敵ではなかった。
とはいえ、侮ってばかりもいられない。刃引きされているとはいえ、模擬斧槍はその間合いに注意が必要だった。
長物の長所である破壊力をまともに受ければ大けがは免れない。さらにその複雑な形状から生み出される厄介な小技は、それを使いこなす者に意外なアドバンテージを与える。
如何にシュレンの剣が速かろうとも、当たらぬ間合いにあっては意味がない。
シュレンにその間合いを計らせぬよう、サガロは斧槍を後方に構え、己の巨体で隠している。
振り回しての一撃か、あるいは裏を掻いて石突きでの鋭い突きか――
サガロの僅かな挙動からそれを見抜くべく、模擬剣を中段に構えて動きを誘う。
二人の間に生まれた尋常ならざる緊張感を敏感に感じ取った子供たちの間に、動揺が生まれた。眼前の大人たちが生み出す日常とは全く異なる空気の中に放りこまれ、湧きあがる不快感に耐えきれずにざわめいた。
と、二人の対決に水を差すように声が掛けられた。
「ずいぶんと熱の入った訓練じゃな。じゃが、教導の最中である事を忘れておらんかの?」
年老いたものの凛とした響きだった。武道場全体の空気が一瞬にして変わる。戦闘とは異なる緊張感が場を支配する。
二人の戦いに興奮していた子供たちが一斉に身を起こし、サガロは慌てて直立する。シュレンは用心深く数歩後方に下がると、そっと構えを解いた。
鍛錬場の入口から一人の小柄な老人がひょこひょこと現れた。穏やかな空気を身に纏った彼は、この錬武館の代表指南師であり、かつて王国最強の剣士と謳われた剣聖ゼハルド老――その人だった。若い時分からの様々な武勇伝は数え切れず、老いたりといえどもその実力はあなどれない。数年前までは王太子の剣術指南役をも引き受けていた。その一方、変わり者としても名を馳せ、その奇行も又、群を抜いている。
大貴族達の集まるサロン内で、マナーの悪い婦人達の尻を次々にひっぱたき、礼儀作法のなんたるかをこんこんと解いた話はあまりに有名である。
「飾り立てただけの醜いカラス共が、鬱陶しかっただけじゃよ」
後にしれっとした顔でその時の事を振り返った老人に、なぜか人の世の奥深さを感じたのをシュレンは思い出した。
錬武館内で最も尊敬を集める指導者の登場に、一同が規律を正した。濁った熱気が徐々に冷めゆく空気の中を、ひょこひょこと老人は歩く。やがて、シュレン達へと歩み寄り、今度はのんびりとした声で告げた。
「楽にして構わんよ」
老人の言葉に子供達の顔に笑みが戻る。サガロは直立不動のまま、微動だにしない。
彼を一瞥すると老人は笑みを浮かべ、振り返ってシュレンに声をかけた。
「久しぶりじゃな、シュレン。ずいぶんと逞しくなったの」
「ご無沙汰しております。老師」
シュレンの取り繕ったような態度に老人は僅かに眉をひそめる。
「なんじゃ? ずいぶんと礼儀正しゅうなったのう、お前」
――空気を読めよ、このクソジジイ。
視線で内心を訴えつつ、シュレンは態度を崩さない。しばしシュレンの全身をねめまわすように眺めていた老人は、振り返るとサガロに告げた。
「シュレンはワシの客人じゃ。連れていってもかまわんかの?」
「はっ! それは、しかし……」
直立不動のままサガロは口ごもる。しばし、老人にじっと見つめられるとやがてそわそわし始め、しぶしぶ承諾した。
「では行くとするか、シュレン。お主達もしっかり励めよ」
周囲の子供達に声をかけると、老人はシュレンを伴いその場を後にする。二人の背を見送るサガロの唇の端が小さく歪んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
錬武館の奥にゼハルドの私邸はある。三年ぶりに訪れたその場所は何一つ変わっていなかった。その一角のみ、時が止まったように感じられる。
「ずいぶん早い帰還じゃったな」
「仕事に不都合がありすぎるんだよ。王都に関わる仕事ってのは、報酬額が違うんだ。別にジジイに会いたかったって訳じゃないから安心しな」
周囲に視線がない事を確認して、シュレンは口調を崩した。
「まあ、そういう事にしておこうか」
シュレンの答えを受け流し、ゼハルドはニヤリと笑った。
「着いた早々、一悶着とは、やんちゃぶりは相変わらずじゃな」
「俺は何にもしてねえよ。あいつが勝手に熱くなっただけだ。ジジイも変わってねえな。それより、何故あんな奴をいつまでも置いてるんだ?」
「不満かの?」
「不満だね。ガキ共にだって受けが悪いだろうに……」
ゼハルドはからからと笑った。
「毒を食わねば人は育たぬよ。大人の言うなりに育った穢れない子供なぞ、後々世の為になぞなる訳がない。そんな事も分からぬとは、なりは立派になってもまだまだじゃな」
「反面教師かよ」
「もっとも最近はその毒も薄まりかけておる様じゃ。そろそろ変え時かもしれん」
「長生きするよ、アンタは」
シュレンはあきれ果てた。この老人、人の悪さは相変わらずだ。かつてのシュレンと同じく、サガロの犠牲になるだろう後輩たちに僅かに同情した。
並んで歩く二人はやがて中庭へと出た。手を入れられた趣のある庭の景色の中で、中央に不自然にパックリと二つに割れた大きな庭石がある。
「さて、シュレン。三年分の成果、ちょいとやって見せい」
ゼハルドが僅かに目を細める。身にまとっていた穏やかな空気が一瞬にして消えた。背を押されるようにシュレンは庭の中央へと進み出て、二つに割れた岩の一方の側に立つ。腰の長剣をすらりと引き抜き、だらりと下げた。
そのまま眼前の岩の全体をぼんやりと眺めた。呼吸は自然に、ただぼんやりと眺め続ける。
暫くすると岩に一本の細いラインが生まれた。ぼんやりとそれを眺め続けるシュレンの視界の中で、ラインは徐々に伸び、ついに一つの面となって繋がった。
瞬間、裂帛の気合と共にシュレンの長剣が振り抜かれた。手ごたえが全くないまま、眼前の岩が真っ二つに割れ、音を立てて崩れ落ちた。
長剣を鞘におさめたシュレンはその場に片膝をつく。己の荒い呼吸音だけが周囲に響き渡り、全身から力が抜け落ちるような感覚にじっと耐える。
ひょこひょこと近づいた老人は、膝をつくシュレンの傍らに立って、割れた岩を一瞥するとぽつりと言った。
「《岩斬りの剣》、まだまだのようじゃな」
その言葉にシュレンは苦笑いを浮かべる。
「まだまだ……ね。こんなの、何の役に立つんだ?」
いかに大岩を断ち割れようとも、実戦では敵は立ち止まっている訳ではない。瞬間の判断が命取りになる闘いの場において、このような曲芸は意味をなさない。ましてや、極限まで集中して全身の力を放出した後の虚脱感は何度やっても慣れるものではない。実戦ではいついかなる状況でも即応できねばならず、うずくまってしまっていては、とてもではないが生き残る事は出来ぬだろう。
シュレンの疑問に老人は穏やかに答えた。
「答えを探すのも鍛錬じゃ」
「左様ですか」
予想通りの簡潔な一言に、シュレンは溜息をつく。
三年前、生きる道を見失い荒れるシュレンの眼前で、老人は元は一つだった大岩を気合と共にあっさりと一閃して見せた。その時に全身を駆け抜けた戦慄は、今も忘れられない。
「この程度やってみせてくれねば、一流とは言えんな」
それが老人なりの励ましだった。己の生きる道を失ったシュレンに、武の奥の深さを実践して見せる事で、その迷いから抜け出る新たな道を指し示した。
『人の形をした、人ならざるものを斬ってこい』
その言葉と共に老人はシュレンを送り出した。
以来三年間、シュレンは傭兵稼業の傍ら、暇さえあればこの大岩を断ち割る技について工夫を重ねた。へし折った長剣の数は数え切れない。大枚をはたいて入手した良質な長剣を一振りでへし折った夜は、立ち直れぬほどに落ち込んだ。一向に成果の上がらぬことに業を煮やし、大岩に向かって奇声を上げてバトルアックスを叩きつけた事すらある。飛ぶように消えて行く武器の購入費用は、カネにがめつくなった一因だった。シュレンの奇行は仲間内でも有名であり、誰もが正気とは思えぬそれについて、見て見ぬふりをした。
高価な長剣を幾度もへし折りながら、不思議とその挑戦をやめようとは思わなかった。目を閉じれば、己の眼前で二つに割れた岩の姿がすぐにも浮かびあがる。剣聖と謳われる老人も所詮は人間。特別な力がある訳ではない。同じ人間ならきっと己にも出来るはずだ――そう考えたシュレンは暇さえあれば工夫にいそしんだ。
そのような経験を重ねて、ようやく初めて成功したのがつい二カ月ばかり前だった。以来、何度か成功を重ねたものの、それに何の意味があるのかは相変わらず見出せぬままだった。つまらぬオチがつかぬ事を祈るばかりである。
自宅に向かって再びひょこひょこと歩き始めたゼハルドは、ふと思い出したように振り返ってシュレンを誘った。
「どれ、ちょいと茶でも付き合わぬか?」
「それよりもさ、なんか食わせてくれねえか? いい加減、目が回りそうなんだ」
何かと立て込んでいたせいか、朝からほとんど何も食べていない事を思い出し、胃袋が猛烈に空腹を訴えた。
「相変わらず、遠慮のないやつじゃ」
呆れた声でゼハルドは笑った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ゼハルドの家で食事を馳走になり、シュレンは食後の茶を楽しんでいた。
そろそろお迎えが近いであろう老人の健康を心配する家人の用意した薬草茶は、その香りまでもが飲む者の心を癒した。
大きなお世話なんじゃがな、と苦笑しながらも老人は楽しんでいる。意外にお気に入りらしい。
剣聖と謳われる老人の私室内には、意外な事に武具の類は一切ない。手慰みに彼自ら描いた絵画が数点、壁面を飾るだけである。尤も出すところに出せばそれなりの値打ちになるらしいという噂だったが、老人はあまり興味を示さなかった。
あの頃と全く変わらぬ部屋の様子を一つ一つ確かめながら、シュレンは昔の記憶を思い出していた。
「これからどうするつもりじゃ?」
老人の質問にしばし、黙考してシュレンは答えた。
「すぐに根城に戻るさ。遠征も始まった事だしな」
「この街に留まるつもりはないのか?」
「俺の居場所はここにはないよ」
シュレンは淋しげに笑った。
それは疑いようのない事実である。この街に留まる限り、サガロのようにシュレンを目の敵にする者はさらに現れるだろう。信じ込んでしまった事実をもう一度見つめ直そうとする思慮深い者は、そうそういるものではない。一度、不利な役割を演じさせられれば、それを演じ続けるのを望まれるのが人の世というものである。
そうか、と一言呟くと老人は席を立ち、部屋を出ていった。戻ってきた彼の手には一振りの剣があった。
「持っていくがよい」
手渡された剣がずしりと重みを感じさせる。標準的なものよりも重く、柄の形状にも特徴があった。両手持ちが十分に可能なグリップには、護拳用のナックルボウが取り付けられており、柄頭の重りの細工には独特の重厚さがある。シュレンの知る物とは全く異質の思考が感じられた。
剣をすらりと鞘から引き抜いた。一目見て刀身から感じられる違和感に眉を潜めた。
先細りの両刃の刀身は直刃であり、昔の主流だった広刃剣ほどではないが、それでも通常の長剣よりも2、3割ほど広い。さらに異質なのはその材質だった。刀身に控えめに浮かぶ縞のような模様は全く未知の物だった。これまで多くの長剣をへし折り、さらにその倍以上の長剣を目にしてきたシュレンだったが、手の中のそれは、そのどれとも異なった。鈍い輝きの中に濃い密度の何かを感じさせる。あえて分類するならバスタード・ソードといったところだろうか?
軽く振ってみる。ずん、という手ごたえが身体の芯に響き、背筋に何かが走った。心音が跳ね上がる。
「どうじゃな」
にやりと笑って老人が尋ねる。
「いいな。クセがあるが悪くない。でも何なんだ、これ?」
「《ルーツ鋼》というのを聞いた事はないか?」
シュレンは驚愕した。
「幻の鋼じゃねえか。たしか南方の国の秘伝だとかいう……。一体どうやって……」
東の大帝国《デルティニア》のさらに南にある砂漠の遥か向こうに、幻の地が広がるという。その技術を求めて多くの武具技術者が旅立ったものの、帰って来たものはないと云われる。
固く、それでいて粘りがあり、折れにくく錆にくい鋼。武器の材質として、これ以上のものはないだろう。
改めて手の中の剣を注視する。その材質が噂通りの物ならば、シュレンの剣技の幅は大きく広がるはずだ。
「昔、若い頃に南方で知り合った者に幾振りか譲ってもらっての……。その一つじゃ。それよりもどうかの? あまりに畏れ多過ぎて、尻込みしてしもうたか?」
意地の悪い笑みを浮かべた老人の挑発に、シュレンは苦笑する。
「使いこなしてみせるさ。このくらい、使えねば一流とはいえないんだろ」
かつての老人の言葉を借りてシュレンは答えた。老人は満足気に頷いた。老人の私室から中庭に出ると、軽く剣の型を演じてその感触を確かめる。老人は忠告した。
「腕力で使ってはならんぞ。腕を痛める事になる。剣と己の重さを使いこなすのじゃ」
「ああ」
異なる思想の元に造られた道具である以上、これまでとは異なる技術を要求される。徐々に没頭していくシュレンの姿を満足気に眺めながら、老人は手元のカップを一口すすった。
2013/03/20 初稿