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13 異変



 人とは実に打算的な生き物である。謁見を終えたその場所で、シュレンは改めてそのように実感しつつ周囲を見回した。

 全てが終わった後、シュレンに近づく者は誰もいなかった。室内の誰もが彼を遠巻きにして、目を合わさぬようにしている。だが、それでいて、彼の挙動を意識しているのだから性質が悪い事この上ない。

 唯一、シュレンより少し離れた場所に控えていたナルビスのみが、まるで信じられぬ物を見るかのような目でシュレンを見つめている。期待を大いに裏切ることとなった彼に一礼すると、シュレンはその場を歩み去る。もはやこの場所に用はない。すたすたと歩み去るシュレンの先を阻む者は、誰もいなかった。

 近衛への入団を辞退した今のシュレンには、何の利用価値もない。謁見前には先を争うかのように彼のもとを訪れた者達は、皆潮が引くように離れて行った。己が打算に忠実なその振る舞いは、呆れを通り越して、実にすがすがしい。

 それでも立ち去ってゆくシュレンに多くの者達が意識を向けていたのは、国王陛下が最後に残した言葉故である。謁見を終えた非公式の状況だったとはいえ、一介の傭兵に国王自らが謝意を示した。その事実とその裏側に隠された意図に、誰もが興味深々であった。だが、それを確かめようとする豪気な者は皆無である。好奇心は猫をも殺すなどとは言うが、保身に長けた者たちは皆、己が身を滅ぼしてまで事の真相を知るつもりはないようだ。


 もしかしたら身を置く事になったかもしれぬ、その禍々しい思考の交錯するその場所に別れを告げ、シュレンはその場を歩み去る。ふと眼前に一人の婦人が立ち塞がった。

 壮年といった年頃であろう彼女は、その身なりから社交界に出入りする特権階級の者と推察される。どこか見覚えのあるような気もするが、今一つ思い出せない。その物腰と立ち居振る舞いに、なぜか『場違い』という言葉がポツリと思い浮かぶ。

 シュレンの前に立ち塞がった婦人は、鬼の如き形相でシュレンを睨みつけ、口を開いた。

「どうしてよ?」

 意図が読めずに眉を潜める。さらに彼女は続けた。

「どうして、お前は、ようやく転がってきた折角のチャンスを自分から棒に振ろうとするんだい」

 どうやら、謁見の場での一連のシュレンの行動に疑義を訴えるつもりのようだ。ただ馴れ馴れしいその態度はどこか癇に障る。

 とはいえ、多くの者達の視線がある以上、無碍にはできない。

 世の中には様々な価値観がある。シュレンの一連の行動が彼女の何かを刺激した可能性もある。

 この『場違い』な人間には関わるべきではない――そう判断したシュレンは、女に黙したまま丁寧に一礼し、その場を速やかに歩み去ろうとする。

「待ちなさい!」

 シュレンの肩を掴もうとする手をするりとかわした拍子に、彼女は態勢を崩して己のスカートの裾を踏みつけ床に転んだ。

 無様に倒れ伏した彼女に対して、なぜか手を貸す気にはなれなかった。僅かに溜息をつくとシュレンはその場を黙って歩み去る。

「この親不孝者!」

 背中にかけられた呪いの如き響きを帯びたその言葉に、ようやく全てを理解する。

 ――ああ、そうか。そういうことか。

 心の中で合点しながらもシュレンは足を止めなかった。そのまま扉の向こうへと歩み去る。己の都合と立場だけを大事として、遠い昔に過ぎ去っていったその存在は、今のシュレンにはもはや不要なものでしかなかった。

 周囲の失笑を買っている事にも気づかず、何事かを喚き続ける場違いな存在の怨嗟の声は、重々しく閉じられてゆく扉によって遮られた。静寂につつまれ閑散とした廊下に身を置き初めて、シュレンはその場を振り返る。

「哀れだな……」

 閉じられた扉に向かってぽつりとかけられたその言葉を、彼の傍らで唯一耳にした衛兵は、そっと首をかしげるだけだった。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 石造りの壮麗な建築美にあふれるどっしりとした王宮の姿は、東と南の国々から流れ込んだ文化が混ぜ合わさった象徴だと言われている。陽光にきらめく王宮の建物を眺めながら、シュレンは三年前の出来事に思いを馳せていた。その時は気付く事もなかったが、この景色はあの時も同じだったのだろうと、ふと気付いた。

「終わったな」

 ぽつりと呟くと感慨にふける。それまでの重苦しい空気を振り払うかのように大きく伸びをすると、軽やかに歩き出すそうとする。ふと、聞き覚えのある声が彼を呼び止めた。

「シュレン様」

 現れたのは宮廷女官姿の見覚えある女。セシリアの側付きのマゼンタという名の女である。初めて会った時の怪しげな雰囲気は完全になりを潜め、ありふれた女官として振舞う彼女は、静かな口調で続けた。

「殿下がお呼びです。御足労頂けるでしょうか」

 再びの突然の招待に不思議と拒否の意思は浮かばなかった。むしろ、もう一度会いたいとすら願う自身の心に僅かに驚きを浮かべつつ、首肯する。

「こちらへ……」

 相変わらず奇異の視線が向けられる王宮の通路を、シュレンは彼女に導かれるままに付き従って、再び歩き始めた。




 案内されたのは本宮殿から少し離れた場所にある離宮だった。

 華やかさとよそよそしさが交錯する空気が蔓延する本宮とは異なり、ひっそりと静寂に包まれた離宮の一室で彼はセシリア王女と再会した。互いに礼を交わした後で、差し出された手の甲にそっと唇を付ける。実に自然な仕草だった。

 己の中で三年前の出来事や王家に対するわだかまりが消えつつある事に、今更のように気付いた。シュレンの接吻を受けて柔らかく微笑んだセシリアは、彼をテラスへと誘った。デカンタへと移された白葡萄酒と空のグラスが置かれたサイドワゴンが彼らの座る小さな丸テーブルの傍らに置かれた。

「先程は素晴らしい戦いぶりでしたね。近衛騎士を相手に圧勝というべきか……」

 わずかに興奮したかのようにセシリアは口をひらく。

 剣を交えた当時者以外の者から見れば、ハザードとの決闘はおそらくそう見えたのだろう。冷や汗ものの勝利であったが、内なる世界のやりとりや駆け引きを言葉で説明する事は難しい。ハザードの意思が全く見えなかっただけになおさらである。それよりもセシリアがあの謁見の場にいたのに己が気付かなかった事の方に驚きを覚えた。当然といえば当然であるが、そのような事にすら気付けぬほどに、あの時の己が冷静さを失っていたと改めて気づいた。

「どうやらあの場に私が居た事にすら、お気づきにならなかったようですね……」

 シュレンの表情を読み取ったかの如く、セシリアは小さく拗ねて見せる。慌てて詫びるシュレンの姿に今度は朗らかに微笑んでみせた。その日の彼女は、何かが吹っ切れたかのように年相応の華やかな振る舞いで、シュレンを翻弄した。

「それにしても……、貴方が近衛への入団を断った事にはずいぶんと驚かされました。今になって貴方の言動を考え直してみれば当然の結果だった訳ですが……」

「そうでもないさ。迷いが全くなかった訳じゃない」

 初めから断ると決めていた訳ではない。最後まで気持ちが揺れていたのは事実である。

「何故、そう決断なされたのですか?」

 セシリアの問いにシュレンは僅かに首をかしげた。

「さあな。多分、それは言葉では言い表せないと思う。ただあの決断に後悔はしてないのは確かだな」

「貴方の決断を私は少しばかり残念に思います。私専属の警護武官となっていただく事もできましたのに……」

 心底残念そうに、セシリアは言う。

「俺程度の腕前なら、王宮にはいくらだっているだろうさ」

 その答えに、セシリアは首を振った。

「貴方の腕前だけを必要としているのではありません。王族の者が心を許す事ができるもっと別の要素があるのです」

「別の要素?」

 セシリアは小さく微笑んだ。暫しの沈黙の後で、セシリアは表情を改めると静かに切り出した。

「お呼び立てしたのは他でもありません。シュレン殿にお伝えしておきたい事がございます」

 その表情はつい先ほどまで浮かべていた年齢相応の少女のものではなく、一国の王女のものであった。

「昨日、私はデルティニア第二皇子との婚姻を了承した事を国王陛下に申し上げました」

 その言葉に僅かに目を見張る。

 百年近く前に結ばれた不可侵協定は形がい化しつつも、未だに有効である。だが、国力も兵力も勝る東の大帝国と第一王女との婚姻は、両国の未来にとって明るいものとなることは間違いない。

「ずいぶんと急な話だな」

 シュレンのあたりさわりない感想に、セシリアは微笑みながら小さく首を振った。

「急なことではありません。これは私が幼い時より決められていたことなのです。ただ、私が私自身の事情でそれを長らく拒み続けてきました」

 彼女自身の事情――それはおそらく第二正妃への復讐についてなのだろう。セシリアが他国へと嫁げば、王宮の実権は完全に第二正妃に握られる。亡き母と兄の無念とその居場所を守らんが為、長らく彼女なりの抵抗を続けてきたのだろう。何故、彼女は心変わりをしたのか。その変遷の過程にシュレンは興味を持った。

「復讐はもうやめるのかい?」

 シュレンの問いに、セシリアは淋しげに笑って首を横に振った。

「あの者の行いを許したわけではありません。ただ貴方の言葉を聞いて、私は少しだけ思い直したのです。あの者への憎しみが私の目を曇らせ、王族としての視野を狭くさせていた――その事実に私はようやく気付きました」

 その淋しげな笑みは消える事はない。

「私の立場、周囲の思惑、そして政治的な力。あらゆる要素をもう一度私なりに鑑み、出した答えです。この思い出深い地を離れ、遠い異国の地で冷静になって、私は私自身の置かれた立場をもう一度考えてみたいと思います。その上で……」

 僅かに言葉を区切り、顔を上げる。そこには強い一つの意思が現れていた。

「尚、私の心から暗闇が晴れぬのならば、その時は……、私は、私自身の手によって、魔道に踏み込もうと思います」

 それは己が正義の実現の為に誰かの力を頼り期待する夢見がちな子供の言葉ではない。己の責任においてその身を滅ぼさんとする事も厭わぬ一人の意思ある人間の言葉だった。

 彼女の決意が人の道に反するかどうかという事は問題ではない。彼女が己の目で見て、耳で聞き、その足で歩いてその決断を背負う覚悟をしたことにこそ大きな意味がある。二国の間に暖かな平和の機運が広がるか、あるいは大きな戦乱を呼び寄せる事になるか、それは後の歴史家の手にゆだねられるべき事である。

 ふと、国王の最後の言葉を思い出す。

『余の国の難事を救ってくれた事、心より感謝する』

 その言葉に秘められた真意をようやく理解する。

 セシリアの決断は国の混乱を回避するだけでなく、結果として彼女自身の身の安全をも約束する事になる。彼女が嫁ぐ事で、大国《デルティニア》との平和の架け橋の役目を果たすことになる以上、《ヴォーダルファ》は国の総力を挙げて、異国に生きるセシリアの後ろ盾とならねばならない。

 国王が最後に一瞬見せた人間らしい表情は、我が子の身の安全とその幸せな未来を願う親の顔だったことに、ようやく気づいた。威厳や権威にばかりに気をとられ、肝心な事を見落としていた己に苦笑いする。国王が謝意を示したのは、国の未来だけではない。亡き第一正妃との間に唯一残された愛娘の未来に対してでもあったのだろう。

「まだまだ未熟だな」

 シュレンの何気ない呟きにセシリアはその真意を尋ねる。あいまいに返答するシュレンに対して、彼女はさらに物騒な事実を披露した。

「陛下御自慢の食材をふんだんに使ってシュレン殿をおもてなししたのですから、国難の一つや二つ救っていただけなければ、割に合わぬとお考えになったのかもしれませんね」

 その言葉に一瞬、絶句する。シュレンの様子に微笑を浮かべながらセシリアは続けた。

「実は、先日貴方をおもてなしした品々は、どれも陛下自ら御目をかけられ、国賓待遇の賓客へのもてなしに使われるものばかりでした。そのうちでも超一級品のものを、第一王女の権限で拝借させていただいたのです。最高の食材を扱えるとあって、あの日は私の料理人も実に張り切っていたようです」

 どうだと言わんばかりに胸をはるその姿に目眩を覚えた。自身への愛情が疑わしい父親に対する娘の八つ当たりにシュレンは利用され、気付かぬうちに王宮内の壮大な親娘喧嘩に巻き込まれていたらしい。

 自慢の食材の価値も知らずにたらふく口にした一介の傭兵を、《謁見の場》において、国王はいかなる心持で眺めていたのかという考えに至り、シュレンは青くなる。あのまま近衛に入団していたら、きっといびり倒されていただろうな、などというよからぬ考えがちらりと脳裏をかすめた。

 傍らで赤くなったり青くなったりを繰り返すシュレンの様子を、暫し楽しげに眺めていたセシリアだったが、やがて再び表情を改めるとおもむろに口を開いた。

「もう一つ、貴方に伝えておきたい事があります。むしろ、こちらの方が本題だと思っていただきたいのです」

「これ以上、何を聞いても驚く事なんてないだろうな、おそらく……」

「そうだとよろしいのですが……」

 そう前置きしてセシリアは語り始める。

「この国の対立の構造はご存知ですか」

「中央と地方の貴族がいがみあってるって事くらいならな」

 自国の領土の安寧の為に他国の一部を侵害し続ける。そのような手法によって、《ヴォーダルファ》は長らく安寧を保ってきた。結果として、王都やその周辺に所領をもつ貴族たちは大いに繁栄し、他国と領地の境目を接する地方の貴族たちは常にその安全を脅かされ続けていた。地方貴族たちの不平不満が鬱積する事は当然である。

「両派の諍いが一気に表面化したのが、兄上が亡くなられたあの一件でした。王太子である兄上に近づく地方派の貴族たちの力を抑える為に、中央派の貴族たちが第二正妃と手を組んだ、それがあの出来事の真相です」

 微笑むのでもなく、顔を歪めるのでもなく、セシリアは坦々と事実を語る。

「三年前のあなたの時も同じでした。二つの錬武館の対立が生んだ出来事。先程の謁見ではそういう形で決着をつけられることとなりましたが、問題の根はもっと深い所にあります」

 二つの事件の思わぬ繋がりにシュレンは眉を潜める。どことなく腑に落ちぬ事はうすうす承知していたシュレンに、セシリアはその裏事情を教えるつもりらしい。

「栄えある近衛兵団に入団の決まった貴方達の多くが伝統や格式とは無縁の出自だった。それはそれらをなによりも重んじる者達には受け入れがたい事実だった。彼らは恐れたのです。これからもそのような者達が現れ、やがて新たな勢力となることに大きな危機感を覚えた……。血縁のしばりや後ろ盾もないままに存在する有象無象の彼らが現状に不満を持つ勢力と手を組めば、国内の政情は容易く変動しかねない。ゆえに災いを芽の内に摘み取ったのです。都合のよい事に錬武館同士の対立という実に利用しやすい状況があった。《聖宝珠の儀》での仕掛けをわざと黙認し、中央派の貴族たちとつながりの深い者達を支持して、国内の不満分子の希望を根絶やしにした……」

 シュレンに言葉はなかった。自身の運命が想像だにしなかったところで弄ばれていたことを、あの頃の彼が気付くはずもない。セシリアは続けた。

「ナルビス殿はこの事実に早い時点で気づいておられたようです。だから、三年前のあの時、大きな動きを起こされる事はなかった。シュレン殿を犠牲にし、勢いのある敵と真正面からやり合う事を避け、混乱の火種を大きくせずにやり過ごし、時を待った。政治という面からみれば正しい判断だった……といえるのかもしれません」

 セシリアはそっとシュレンの顔色を窺う。シュレンは沈黙したまま、視線で彼女に続きを促した。

「謁見の際に提出された書面が焼かれていたのは、ナルビス殿によって行われたものだったと聞いております。焼き捨てる前の物をナルビス殿から直接、陛下とその信頼されるごくわずかな側近にのみ、先に提示し、しかるべくしてあのような茶番を演じた。おそらく、バロンズ伯とその後ろ盾となった方々の関係を断たせる事を条件にして、二つの錬武館同士の対立という図式を鮮明に打ち出し、名誉の回復を図った……もっとも完全な結末を迎えられたわけではありませんが……。」

 その言葉にシュレンは小さく苦笑いを浮かべた。だが、セシリアは意外な言葉を口にした。

「シュレン殿が近衛への入団を辞退したのは正しい判断でした。はっきりと決着が付けられてしまえば、再び新たな諍いの火種が生まれていた事でしょう。そして、それは……貴方御自身の未来にも大きな災いとなっていた……はずです」

 結果として再び多くの血が流れる事になる。己が望むと望まざるとにかかわらず剣を振う者にはつきまとう宿命である。暫しの間を置いて、セシリアは静かにその話を締めくくった。

「これが王女としての立場にある私が知る事実のあらましです。最も意図的に都合の悪い事実を捻じ曲げて伝えられている可能性もありますから、全てが真実であるとは保証しかねますが……、大方の本筋に誤りはないでしょう」

「どうして、俺にこんな事を……」

 シュレンの問いにセシリアは暫し沈黙する。やがて意を決するかのように口を開いた。

「一言で言えば、感謝と償いといったところでしょうか。私は三年前の事件の当事者である貴方の存在そのものを己の復讐に利用するつもりでした。でも貴方は私の誘いにのろうとはしなかった。それどころか私の過ちを指摘し、目を開かせて下さった。貴方に出会わなければ、私は道を踏み外すどころか多くの過ちを重ねていたでしょう」

「そんなに大げさなものじゃないさ。己の過ちを認めることができたのは、他でもないあんた自身の力だ」

 分かっていても認められない、否、己が誤っていると考えることすら避けようとするのが、並みの人間である。名誉、立場、誇りが絡めば、なおさらである。

「それでも私は貴方に感謝いたします。そしておそらくは陛下も……同じ気持ちに違いありません」

 国王が謝意を示すという事。

 公式の行事の外での出来事であったとはいえ、その意味合いは重い。

 立ちあがったセシリアは傍らにあったデカンタを取り上げる、手ずから、二つの空のグラスに葡萄酒を注ぐ。

「今日を境に、私達は互いに新たな道を歩む事になります。門出の祝いにお付き合い願えませんか」

 シュレンも又、立ちあがり、微笑を浮かべるセシリアの差し出すグラスを手に取った。

 静かなテラスにチンと澄んだ音色が響く。

 なみなみと注がれた葡萄酒のグラスにシュレンが口を付けようとした瞬間、足元に何かがぽとりと落ちる気配がした。視線の先にあったのは、腰に収まっていたはずのダガーだった。謁見前から金具の緩みが気になっていたのだが、ここにきて、ついに外れてしまったらしい。

 ――こんな時に。

 小さくため息をつき、拾い上げようとそっと前かがみになる。瞬間、彼の右手が強くはたかれ、手の中のグラスが床面に叩きつけられて音を立てて砕けた。グラスの中の葡萄酒が一面に広がる。おどろいて見上げたその先には、真っ青になったセシリアの顔があった。

「姫様?」

 尋常ならざる様子の彼女の手元からポロリとグラスが落ち、再び音を立てて砕けた。ぐらりと態勢を崩して倒れる彼女の身体を慌てて支えたシュレンの腕の中で、セシリアは喉を苦しげにかきむしり大きく喀血した。シュレンの白いシャツが、彼女の吐き出した血で真っ赤に染まる。

「姫様、しっかりしろ」

 慌てて、彼女に呼びかけるが、全ては遅すぎた。

「どうぞ……、お気を……つけて……」

 小さくそれだけを言い残して、彼女は眼を閉じる。苦しげな表情を浮かべていたが、やがてすぐにその呼吸は止まった。

「誰か、来てくれ! 姫様が、セシリア殿下が……」

 シュレンの声が周囲に響きわたり、異変を察知した者達が血相を変えて駆け寄ってくる。

 駆けつけてくる近従の者達の足音をどこか遠くに聞きながら、シュレンは動かなくなったセシリアの身体のぬくもりを、呆然と抱きかかえていた。




2013/04/23 初稿




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