表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/17

10 対立



 シュレンが屋敷を辞したのは、夜もすっかり更けた頃だった。

 ようやく泣きやんだセシリアは、醜態をさらした事を小さく詫び、足早に去った。代わりに現れたマゼンタに見送られ、シュレンは再び訪れた時と同じ馬車に乗った。

 行き先をゼハルドの錬武館に指定したシュレンは、月明かりの下を進む馬車の中で、剣を手にしたまま緊張の時を過ごした。輪立ちにはまり大きく馬車が揺れるたびに、柄を握りしめる手に汗がにじむ。

 分不相応な者が、片鱗とはいえ王家の内実に触れたのだから、口封じされてもおかしくない。セシリアがそう考えなくても、彼女の周囲にいる者がそう判断すれば瞬く間に刺客は送られる。人一人葬る方法などいくらでも存在する。

 圧倒的な組織や権力の前には、いかに剣技を極めたところで個人の力量などたかがしれている。

 不安と警戒心で張りつめたシュレンの内心をよそに、馬車は彼の指定どおりに錬武館の前で車を留めた。シュレンを下ろすと黒塗りの馬車は、ゆったりと闇の中へと姿を消していく。それを見送ったシュレンは用心深く、周囲の気配を探った。特に異常を感じられぬまま、路地裏へと回り裏口の門を叩いた。出てきたゼハルドの家人が、驚いた様子で中へと招き入れる。

 門が再び閉じられ閂がしっかりとかけられるのを目にして、シュレンはへなへなとその場に崩れ落ちた。慌てた家人に肩をかり、礼を言って立ち上がる。思っていた以上に緊張していたらしい。

 いつ現れるかもしれぬ想像上の刺客の存在は、眼前に立ちふさがる現実の敵よりも恐ろしい。相手が巨大な権力であるならなおさらである。ゼハルドあたりならいかなる状況にも対応する心構えと術を持つのであろうが、まだまだ未熟なシュレンにはとても真似出来るものではない。

 己の身の安全をようやく確かめると、わずかに震える足をなだめながら、シュレンは老人の私邸へと向かった。




「遅かったのう。一体どこで道草を食っておった?」

 客間に入ったシュレンの顔を見るや否や、ゼハルドは問うた。彼にしては珍しくどこかいら立った様子である。傍らにはナルビスの姿がある。

 王国に名をとどろかせる剣聖とその後継者である一番弟子が座るその場所は、見る者が見れば贅沢な光景といえた。多くの者達が緊張とともに背筋を正すであろうその場所は、シュレンにとって幼いころから見慣れた当たり前の景色だった。

「ちょっとばかり珍しい招待を受けてな。お陰で、至福の極みって奴を味わって来たよ」

「ほう」

 老人が目を細める。シュレンの姿をじっと眺めると、しばし考え込むかのように口を閉ざした。

 軽食を勧める家人の申し出を丁重に断り、代わりにシュレンは薬草茶を求めた。ゼハルドの傍らにある空いた椅子に座り、背負った剣を外して傍らにおく。ふと、ナルビスの視線を手元に感じたものの、気付かぬふりをした。

「ところで、いいのか、俺がここにいても? 二人で何か大事な話があったんじゃないのか?」

 シュレンの問いにゼハルドが答えた。

「ワシらはお前が現れるのをずっと待っておったんじゃよ。昼過ぎにこちらに向かったと聞いておったのに、肝心のお前は一向に現れぬ。ナルビスの奴は少しあせっておったようじゃの」

「それはご心配をおかけしました、ナルビス卿」

 形ばかりに頭を下げる。

 大立ち回りの日以来、さんざん待ちぼうけをさせてくれたのだから、半日程度は我慢してほしいものだ。昔から知るナルビスではあるが、三年前の一件以来、シュレンの彼に対する感情は余り良いものではない。

「よい、それよりもシュレン。身の回りで変わった事はないか?」

「別に何も。お陰さまで《白獅子団》もあの通りで、今のところ報復の心配はないようですし……」

 あたりさわりなく事実を小出しにする。第一王女からの接触について、ナルビスに報告する義理はない。彼自身が推測し、調べるべき事であり、そこに至れぬのならば、ナルビスはその程度の力しかないということになる。王族の力と世の複雑さの一端を垣間見てきた今のシュレンは、言動に用心深くあらねばならなかった。

 暫し、訝しげに見つめていたナルビスだったが、その視線に気づかぬふりをしてシュレンは薬草茶をすすった。

「そういえば、シュレン、この度はずいぶんと暴れたようじゃな」

 うってかわった楽しげな声で老人が、話題を変える。

「それほどでもないさ。ジジイにはまだまだ、敵わねえよ」

 昔、ゼハルドが語って聞かせた武勇伝をヒントにして、シュレンは《白獅子団》との大立ち回りを演じていた。少数でいかにして大軍を倒すか。机上の作戦では決して得られない生々しい体験から得られる教訓は昔も今も変わらない。人間という生き物の本質とは、いつの時代も結局のところは同じなのだろう。シュレンの勝利は彼の技量だけでなく、先達である老人の経験の賜物でもあった。

 似たような状況でゼハルドは百人以上を斬り倒したというのだから、まだまだシュレンの及ぶところではない。

 事の顛末の一切を身振りを交えて熱く語るシュレンとそれを楽しげに聞くゼハルドの傍らで、ナルビスは黙って酒を飲む。お世辞にも楽しんでいるといえないその表情には、想い含むところがあるように見えた。シュレンの話を一通り聞き終えると老人はナルビスに向かって尋ねた。

「ところで、ナルビス、お主はシュレンに用件があったのであろう?」

 その一言で楽しい時間が終わりを告げた。再び沈黙が訪れる。グラスを空にしたナルビスは、おもむろに告げた。

「シュレン、此度のことで陛下より謁見のお許しが出た。三日後、正装にて登城せよ」

「謁見って、俺が陛下に?」

 シュレンは驚いた。国王より直接シュレンが何らかの言葉を賜るということである。

 異例の事態といえた。

 そのような栄誉を賜れるのは一部の貴族か、あるいは国王の為に何らかの武勲や功績を上げた騎士に限られる。叙任の際を除けば、若く功績のない未熟な騎士ですら正式な場で謁見を許されることはまずありえない。騎士階級の出身とはいえ、シュレンは正式な騎士ですらない。この決定は異例中の異例である。

「そうだ、不服か?」

 強い視線でナルビスは問う。

 昨日までのシュレンならば複雑な想いを重ねつつ、結局はその栄誉を一つの喜びとして受け止めていただろう。ブランと乾杯をしていたかもしれない。だが、今のシュレンは違った。セシリアに出会い、王家の内実を僅かなりとも知る事になれば、そこに何らかの意図があるのは明らかである。

 黙りこんだシュレンに代わり尋ねたのは、ゼハルドだった。

「ナルビス、それはまことに陛下の御意志か?」

「そうです。師よ。ここに正式な通達書もあります」

 一枚の書面をテーブルの上に広げる。国王の署名入りのそれはシュレン宛ての正式な文書だった。だが、ゼハルドは取り出されたそれを歯牙にもかけずに、再び問うた。

「わしが言いたいのはそういうことではない。ナルビス。分かっておるだろう。お主、シュレンを一体に何に利用するつもりじゃ?」

 厳しい声だった。

 抑えているものの、そこに僅かな怒気を感じた。眼前の書面を前に二人の間でシュレンは沈黙を守る。ナルビスが答えた。

「師よ、この度のシュレンの活躍は、宮廷内でも大きな話題となっています。多少の不都合はあれども、謁見は恙無く行われることでしょう。これは我らゼハルド門下にとって大きな機会なのです。四年前、そして三年前と、我々は屈辱に甘んじて参りました。今こそ失われた名誉を回復すべきであると、門下の者達は皆、期待しているのです」

 ナルビスはこの機会に乗じて何かをしかけるつもりのようだ。

 武勇に優れているだけでなく、用意周到なナルビスの事である。すでに根回しは終えていると見るべきであろう。シュレンの為という訳ではなく、門下の為、ひいては己自身の為、彼は着々とその野望に従い、終局を見据えて、盤上の駒を並べつつある。

「四年前のあの出来事で、我々は地方派と中央派の貴族の政争に我々は巻き込まれた。そして貴方は王太子指南役の地位を、そして私は近衛兵団副団長の地位を失った。あなたはいい。もう年だからと隠居すれば、面目が立つかもしれない。だが、門下の者達はどうします。この数年の間、多くの者達が肩身の狭い思いをしてきた。国の要職からはずされ、生活を失った者もいます」

 ナルビスの言葉にゼハルドは厳しい表情で答えた。

「そこまで門下の者達を大切に思うのならば、なぜ、三年前、主はシュレンを助けてやらなかったのじゃ。近衛から外されたとはいえ、主は竜鱗騎士団の団長であったはず。シュレンを引き受ける事は出来た筈じゃ。なぜ、そうしなかった?」

「それは……」

 ナルビスは言葉に詰まった。ゼハルドは続けた。

「己とすでに己の周囲にいる者達の立場と未熟なシュレン一人の未来を天秤にかけたのであろう? シュレンを擁護すれば宮廷内に無用な敵を作るやも知れぬ。暗殺事件よりまだ一年しかたっておらぬというのに事を荒立てれば、おかしな推測をした者に足をとられかねんからのう。シュレン一人を犠牲にする事で主達は己の現状を守ろうとした、そうであろう」

「そ、そのような事は……。百歩譲ってそうであったとしても、今、我々は過去を清算する大きなチャンスを得たのです。此度の件を期に、陛下の御前で真実をさらし我が門下の不名誉を晴らし、改めてシュレンの近衛兵団への入団を進言すれば事は済むはず……」

『近衛兵団への入団』――その言葉にシュレンの心臓がドキリと跳ねた。二人に気取られぬように下を向く。かつて手に入れ損ねたものが目の前に転がっている。そのことに気づき、シュレンの心が大きく揺れた。

「シュレン一人を……、か?」

 ゼハルドの言葉にナルビスは眉を潜めた。シュレン意外に一体誰がいるのか? ゼハルドの意図が分からずナルビスは小さく戸惑いの色を浮かべた。ゼハルドは溜息を一つつくと続けた。

「この者の仲間達はどうなる。三年前、シュレンと共に栄誉を掴むはずだった者達は……」

 しばし、虚をつかれた表情を浮かべたナルビスだったが、ようやく師の言わんとすることを理解する。

「平民など……。従卒の代わりなどいくらでもおります。第一、シュレンを除く彼らが皆平民だったからこそ、それを面白く思わぬ者達が……」

「たわけが!」

 ゼハルドが一喝した。周囲の空気がびりりと揺れる。

「何のためにワシが錬武館において平民にも門戸を広げておると思う! ナルビス! 主はそれを忘れたか!」

 珍しく激しい剣幕でゼハルドは続けた。

「生まれながらの特権に安穏と居座る者達のせいで、国が停滞し、無用な策謀に明け暮れ、結果、他国につけいられる。型にとらわれぬ平民達の考え方が、偏りがちな貴族共の思考を大きく揺さぶり、時に国に活力を与える。シュレン達はそうやって、大きな成果を上げたのであろう」

「ならば彼らを呼び戻せばすむことでしょう」

「ナルビス、あれからもう三年たっておるんじゃぞ!」

「だから、何だというのですか?」

 その言葉にゼハルドは溜息をつく。

「貴族ならば所領や家の財産で食いつなぎ、時を過ごす事もできよう。だが、平民は違う、皆、新たな生き方をせねばならぬのじゃ。シュレンの仲間達も皆、それぞれの道を歩んでおる。うまくいっておる者達ばかりではない。中には無念のまま、すでに命を落とした者も……」

 シュレンは驚いて顔を上げた。

 ゼハルドは、目を閉じ腕を組んでいる。彼は縁も所縁もないかつてのシュレンの仲間のその後の事をずっと胸に留めていたのだろう。

 ナルビスは答えなかった。重い沈黙が訪れる。

「我が門下をまとめる者として、主の選択は誤ってはおらぬ。シュレンには悪いがの……。だがのう、体裁ばかりを整えたところで、失った時は永遠に戻ってくる事はない。協力者も信頼する者もいないたった一人のシュレンを近衛にねじ込む事が、この者にとって本当によい未来であるといえるのか?」

「近衛にもわが門下の者はまだ残っております」

「門下の者達が、今、シュレンに対して皆良い感情を持っている者ばかりと主は本当に思っておるのか? 三年前、己を見失いかけたこの者に手を差し伸べることすらしなかった者達を、この者が信じると思うか?」

 ナルビスは言葉に詰まった。

「情けない話じゃ。同門じゃ何じゃと言いながら、いざという時には助け合うどころかしり込みし、足を引っ張り合う。剣聖だのとおだてあげられても、己の弟子たちに本当に大切な事を叩きこめんかった我が身の不徳の致すところじゃ」

 腹立たし気にゼハルドは呟いた。老人の言葉にナルビスは不快感を示した。

「師よ。貴方はいつもそうだ! そうやって己だけは高みにあろうとする。己の優れた技を等しく弟子たちに伝えようともせず、一部の者のみを分け隔てる。そんなあなたのやり方が我が門下の者達に、どれほど不満を持たせているか分からないのですか!」

 声を荒げたナルビスに、老人は静かに答えた。

「ワシは弟子を分け隔てしたことなぞ一度たりとてない。技の伝授をケチったこともな。ワシの教えを分け隔てするのは、教授される側の弟子の方じゃ。シュレン、主なら分かるじゃろう。ワシの言いたい事が……」

 突然、話題を振られ、シュレンは僅かに戸惑いを浮かべながらも曖昧に答えた。

「まあ、一応な。言いたい事は分からんでもないよ」

 教えを分け隔てするのは弟子の方。なかなかうまい事を言うと、思わず感心する。

 やり取りをかわす二人の姿を僅かににらみつけると、ナルビスは荒々しく席を立った。

「まあいい。シュレン。三日後の謁見、必ず来てもらうぞ。事の一切は我が家の者に仕切らせる。お前は黙って任せておけばいい。よいな!」

「待て、ナルビス。まだ主との話は……」

「結局のところ……」

 老人の言葉をナルビスは遮った。

「貴方は、未だに私を許せぬのだ。だから……」

 ナルビスの視線はシュレンの傍らにある剣に向けられている。それは先日、老人がシュレンに贈ったものだった。

「待て、ナルビス。それは誤解じゃ。あやつの事はとっくに……」

 老人は言い淀む。互いに言葉を失った。暫し、視線を合わせたまま沈黙する。二人の間に埋めようのない深い溝があるようにシュレンには感じられた。

 しばらくして一つ大きく息をつくと、ナルビスが口を開いた。

「今宵はもう帰ります。師よ。我が門下のために、私は私の全力を尽くします」

 二人に背を向け、ナルビスは部屋を後にした。去ってゆくその背をシュレンとゼハルドは無言で見送った。重苦しい空気が室内に残る。

「人は所詮、一人ということか……」

 ナルビスが閉じた扉に目をやりながら老人はぽつりと呟いた。誰に同意を求めるでもないその言葉は、ぼんやりと室内に広がった。

 傍らにあるシュレンの剣を手に取ると鞘から僅かに引き抜き、その刃を懐かしげに見つめる。かつての持ち主である老人はその剣にどのような思い出を持っているのだろうか? ほとんど伝説といってよい鋼で作られたその剣を譲られるという事の意味をシュレンは改めて考える。




 《剣聖》ゼハルド――。

 王国最強と謳われる彼の門下に入らんと願う者は多い。身分を問わず多くの者達がその伝説に憧れる。《疾風の剣》――目で捉える事の出来ぬその剣さばきこそ、ゼハルドの《剣聖》と呼ばれる所以である。

 ゼハルドの指導のもとで、剣速を極め、それを使える者は《剣聖の後継者》と門下の者にみなされる。だが、そのような者は五指に満たないといわれる。ゼハルドのあらゆる技術を正確に受け継ぎ、彼に匹敵する強さを持つ弟子はおらず、門下で最も優れた使い手であると門人たちに評価されるナルビスですら、及ばないと言われる。

 剣速を極めたその先にさらに深い真の境地がある。

 剣の先達としてゼハルドが遥か遠い場所に立つ事を、シュレンがおぼろげに感じられるようになったのは、まがりなりにも《疾風の剣》が使えるようになって、ようやくの事だった。《疾風の剣》を身につけて初めて、スタート地点に立てたというところだろう。

 ゼハルドは多くを弟子に語らない。只、基本的な事のみを繰り返させるだけである。

 ――全力で剣を振れ。

 ――夜が明けるまで剣を振れ。

 ――倒れるまで剣を振り続けよ。

 誰もがその言葉を耳にするが、それを実行できるものは少ない。ただ黙々と己と向き合うだけの労力に見合わぬ膨大な鍛錬は、退屈で苦痛を伴う。

 門下の若者達が望むのは分かりやすい強さだった。

 勝利を目に見える形で実感する事。あいつよりも俺の方が優れている。勝負事で優劣を決し、優越感に浸り、己の利己心、虚栄心を満足させるものであればなんでもよかった。強さを極める事こそ己の加虐性の充足の手段ととらえ、時に道を誤る者もある。

 得てして、それらは薄っぺらく安直なものであるのが相場といえた。

 強さを求めながらも、敗北を繰り返し己が高みに立てぬと諦めた者も又同じ。己の未熟から目を逸らし、下らぬ理屈にとらわれる。

 武器の優劣、間合いの理、実戦と模擬戦の差云々――。

 薀蓄を語らせれば右に出る者はいないという者は数え切れない。だが、己の技量に見合わぬ理屈にとらわれ、彼らは徒に時を過ごす。愚直に剣を振り、己を高める事なしに、小手先の技に走り、全てが中途半端なままに終わる。

 剣聖に憧れながら、眼前に実在する剣聖の在り方に向きあうのでなく、己の中の勝手な理想像に剣聖の姿を重ねて満足する。それが、ゼハルドの言うところの、『教えを分け隔てする』多くの弟子たちの姿だった。


 シュレンの技が《疾風の剣》の領域に至る事が出来たのは偶然だった。彼も又、他の門下の者達と同じく、飛び抜けた才能があった訳ではない。

 その反抗的な性格に目をつけ、先輩風を吹かし訓練と称して無理難題をおしつける愚か者達の要求に負けぬよう、意固地になって剣を振り続ける日々を送った結果だった。偶々、それをゼハルドに見出され、彼に可愛がられるようになっただけである。

 師の言葉を身勝手に解釈し、己の虚栄心を満足させたいが為に師の偉大さを盾にして、後進を痛めつける。無知蒙昧な輩はどこにでもいる。強きに媚び、弱きを挫くその姿は、およそ誇りや名誉を重んじる王国騎士の在り方には程遠いものだが、そのような輩が上手く世渡りしていくのが今のこの国の現状だった。

 ――全力で剣を振れ。

 ――夜が明けるまで剣を振れ。

 ――倒れるまで剣を振り続けよ。

 ゼハルドの言葉の本当の意味を知ったのは、シュレンが戦場に立った時だった。

 いつ終わるとも知れず、常に相手が一人とは限らぬ極限状態のその場所では、文字通り倒れるまで剣を振り続けることでしか生き残れない。力尽き倒れた時は死ぬ時だった。頼れるのは小手先の技でも、多様な武器術でもない。無意識の領域に刷り込まれた武器を振るうことで苦難を切り開く意思と、危険を肌で感じる己の感覚、そして困難な状況を覆す機転である。

 疲労の限界と心身の苦痛のその先の世界を体験して初めて、常識を超える速度が身についた。《疾風の剣》をもって繰り出される技は、同じ技でもまったく意味合いが異なる。

 己の未熟と真摯に向き合い、なりふり構わぬ鍛錬で愚直に反復を積み重ね、そこに己の工夫を加えて初めて得られるものがある。そしてそれこそが武の道を生きる原点となる。

『人は己の内なる世界のあり方で、見るもの全てが変わるのじゃ』

 いつだっただろうか? ゼハルドがぽつりと呟いた言葉の真意の片りんがおぼろげに見えた時、剣士としてのシュレンの全ては始まったのだろう。

 権威、年功、縁――。

 心の内にそれまでと別の視点を持つ事ができた時、如何に人の世という物が嘘偽りに支えられて存在しているかという事が理解できる。否、嘘偽りこそが人の世の真実であるといっても過言ではない。

 本物である事。そしてその存在に耐えられぬ者。

 弱き人々は皆、その現実から目をそらして生きていかねばならない。心地良い嘘の中に身を置き、互いにその嘘を認め合いながら寄り添って生きる。

 そして、不幸にも本物と呼ばれうる人の身に余る世界を垣間見た者は、誰にも理解されぬ孤独の道を歩みつづけることとなる。

 ゼハルドの歩んできた道のりの孤独さと険しさがほんの少しだけ見え始めたのは、シュレンにとってつい最近の事だった。




「シュレンよ」

 物思いにふけっていた彼にゼハルドは問うた。

「主はやはり近衛に身を置く事に未練があるのか?」

 ゼハルドの問いにシュレンは僅かな沈黙の後で答えた。

「さあな、全くないっていえば、ウソになるな。でも、今更それがかなったところで、全てが元通りになる訳ではない事も十分に承知してるさ」

「ならば、何故、陛下にお会いする?」

 再びシュレンは黙りこむ。やがてぽつりと呟いた。

「セシリア……殿下に会ったよ」

 その言葉にゼハルドは僅かに目を見張った。いつもひょうひょうとしている老人にしては珍しい表情だった。

「そうか……。やはりな……」

 大きくため息をつく。かつてゼハルドは亡き第一王子の剣術指南役を務めていた。当然、母を同じくする妹姫のセシリアとも浅からぬ縁がある。彼女の気性も承知していることだろう。

「殿下は……、笑っておられたか?」

 そうあってほしい、という願望の込められた言葉にシュレンは首を振った。

「そうか……」

 ぽつりとした老人の呟きは重かった。

 明かりの消された闇の中で泣き崩れたセシリアの声が、未だにシュレンの耳の奥に残っている。王女という立場にあるからこそ周囲に本当に信頼できる者を見出せぬ孤独に押し潰されそうな日々を、その姿から感じられた。

「どうなるかは分からないけどさ……、ケリをつけてこようと思う」

 三年前の一件は、シュレンの知らぬところで多くの人々の運命に影響を与えていた。

 己の中でとっくに決着がついていることは実感できたが、他者もそうである訳ではない。渦中にいたシュレンこそが、陰謀に翻弄され、巻き込まれた多くの人々の心に決着をつけるのが最もふさわしい。

 所詮、一度は全てを失った身である。いまさら失くすものなどたかがしれている――と開き直ったところで、王都に関わる仕事にありつけぬようになるかもしれぬのは痛いかな、という不埒な考えが、ふと、浮かんだ。

「そうか……」

 シュレンの決意にゼハルドは大きく息をつく。

「ならば、もう止めはせん。行くがよい。そして……」

 どこか遠くを見るかのような眼差しを閉じると、ゼハルドは続けた。

「人の形をした、人ならざるものを斬ってこい」

 あの時と変わらぬその言葉に、シュレンは小さく頷いた。




2013/04/13 初稿




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ