狩魔冥に見る、「逆転裁判」の演出の見事さ
私がエンタメ御三家と勝手に呼んでいる作品がある。
①逆転裁判123 (1、2、3は連続しているシリーズ作品。3で一旦完結)
②ダンガンロンパ123 (こちらも1、2、3で連続していて、3で完結)
③シュタインズ・ゲート(アニメ)
この三つが御三家となる。尚、これらの作品はあくまでもエンターテインメントとしての評価で、芸術としての評価ではない。そこは分けている。
この文章では①の逆転裁判123を取り上げる。知らない人に説明すると、逆転裁判は、ゲーム業界では一世を風靡した作品で、この作品以降「法廷で相手の矛盾を暴いて犯人を追い詰める」というスタイルができあがった。ダークソウルという作品ができて、「ダークソウルライクな作品」というスタイルができたように、ゲームの世界では一つのジャンルを開拓した作品だ。
逆転裁判は私が大学生の時に最初にプレイした。友人が貸してくれたのだが、その時から面白く感じた。大人になっても数年に一度通してプレイする。段々と脳が劣化してきて、記憶がいい感じに消えていくので、それなりに楽しくプレイできている。
逆転裁判に関しては、既に色々な情報が出ていて、作品自体も安価で手に取りやすいので、ここで細々と説明する気はない。未プレイで興味のある人はAIに聞くなり、ウィキペディアに聞くなりで自分で情報を取ってもらえばいいかと思う。
こちらは、以前に扱ったセラフィックブルーのようにマイナーなゲームではなく、既に高い評価を受けている作品だ。
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さて、私はこの文章では、個人的に(逆転裁判やるなあ)と思った箇所を取り上げようと思う。その箇所を読んで、興味のある人は実際にプレイするなり、プレイ動画を見るなりしてもらえばよいと思う。
そもそもで言うと、私が逆転裁判という人が好きなのは、「エンタメとしての芯を感じる」からだ。この「エンタメとしての芯」というのはなかなか説明し難い。
エンタメの芯とは何か、理屈で言うと「色々苦しい事や悲しい事があっても頑張れば必ず道は開ける」みたいな事ではないかと思う。これはかなり簡単な理屈だ。私はエンタメにはこうした芯がある方が好ましいと思っている。
こうしたエンタメの基本的な理念みたいなものはどの作品にもあるではないか、と人は言うかもしれない。ただ、最近私が首を傾げたのは「サイレントヒルF」というホラーゲームだった。これは中村悠一という声優のプレイ配信で見た。
「サイレントヒルF」のシナリオは竜騎士07という人が担当している。この人は「ひぐらしのなく頃に」を作った人で、この作品は同人作品から有名になった。
私は「ひぐらしのなく頃に」を名前しか聞いていなかったので、(どうなんだろう)と特に期待もせずに中村悠一のプレイを見ていた。
「サイレントヒルF」はネタバレ厳禁なタイプの作品なので、説明が難しいが、私は見ていて、シナリオとしてはあまり良くないと感じた。そしてこれは私が「龍が如く」の最近の作品に感じてきた違和感と通じるものがあった。
どこに違和感があったかと言うと、「どんでん返し自体が目的になっているのではないか」という事だった。これは「龍が如く」にも感じた事だが、どんでん返しそれ自体が目的にされると、私自身はコントローラーを投げ出したくなる。
最近、「魔法少女ノ魔女裁判」というゲームをプレイして、文字通りコントローラーを投げ出して、途中で遊ぶのをやめた。
なぜどんでん返し自体が目的になるとやる気がなくなってしまうのだろうか。それはおそらく、その作品を構成しているキャラクターやそれまで積み重ねられてきたストーリーが疑いの対象でしかなくなり、その作品のフィクションとしての世界を信じられなくなるからだろう。
これと比べた時、逆転裁判123はどんでん返しはそれほどない。犯人も序盤からわかっているパターンが多いし、どんでん返しがあるとしても、キャラクターの性格が突然変化したりしないように注意がされている。私はこの事は重要だと思う。なぜならプレイヤーや観客は、それがフィクションだとしても、そのフィクションをある程度実在だと感じられなければならないからだ。
そしてフィクションが実在だと感じられる為には、キャラクターはある程度の性格の統一が求められる。またストーリーも、急激な変化ではなく、一つずつの積み重ねとして感じられる必要がある。私はどんでん返しに驚くよりも、どんでん返しの為に奉仕しているキャラクターやストーリーの姿が見えてしまうと、もうその世界を信用できなくなる。その世界で何が起ころうが知ったこっちゃない、と思う。
逆転裁判はそうした点では、リアリズムに徹している。逆転裁判は、超能力的要素が一つ取り入れられていて、それは主人公で新米弁護士の成歩堂龍一の助手の綾里真宵が、霊媒能力があって死者を降臨して語らせる事ができるという事だ。
これだけ聞くと、綾里真宵に被害者を降臨させて、犯人について語らせたら話が早そうだが、実際にはこの要素もきちんと謎の解明ではなく、謎を深める方向にも奉仕されている。つまり、この超能力は作品内で気ままに動くのではなく、作者の手できちんと作品内の一要素に収まっている。これは重要なポイントとなっている。
雑多にゲーム全般のリアリティについて語ったが、冷静に考えると、逆転裁判123は、一見荒唐無稽な設定がされているように見えて、実際にはリアリズム的に描かれている。また、そうでなければ法廷で、証拠を提出したり、相手の発言の矛盾を突いたりして、犯人を発見するというゲームの根幹の部分が弱くなってしまう。
これはダンガンロンパ123も同じで、設定は荒唐無稽に思えるが、作品内部ではリアリズムが守られている。ダンガンロンパはキャラクターはみんな高校生なのだが、これらの生徒には「超高校級の才能」が与えられている。これは特殊能力のようなものだが、実際には全てをひっくり返す力はない(終盤を例外とするが)。また、そうでないと逆転裁判と同じように、裁判で犯人を見つけるというリアリズム部分が弱くなってしまう。
よく、「エンタメだから嘘で何が悪い」と言う人がいる。しかし、私はこの意見はおかしいと思う。
この「嘘」は現実に対する「嘘」として雑にしか考えられていない。しかし嘘つきの嘘とフィクションとして構築された嘘は違う。しか
「エンタメだから嘘でもいい」ではなく、エンタメだからこそ、制作者は観客に「事実と感じさせるような嘘」をつかなければならない。そうでないと観客は作品に没入できない。
作品内に超能力のようなものを入れる場合も、その能力が無軌道に作品全体を壊してはならない。また、観客をあっといわせる為に、作品内で無理な転調を繰り返すなら、その作品のフィクションとしての信用度が下がる。全体が嘘っぽくなってしまう。優れた作品ほど、観客にとって真実と感じられる。
そしてそのように丁寧に構築された作品だからこそ、作品全体を通した「哲学」のようなものも一つの実体のように観客は感じる事ができる。どんでん返しの為に全てが奉仕している作品では、フィクションの強度によって何かを語る事ができない。
残るのはどんでん返しからくる観客の驚きと、フィクションそれ自体が作者によって信じられなかった事によって生じる、破片としてのキャラクターやシナリオだけという事になる。
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周辺の話が長くなってしまったが、本論にかかる。
逆転裁判123というのはシリーズもので繋がっている。1、2で張られた伏線が3の最後のストーリーでつながる。
逆転裁判で印象的な場面といえば、おそらく既プレイ勢は3の最後の場面で、主人公の成歩堂が、相手の検事に「アレ」を投げつける場面を思い浮かべるのではないかと思う。あの場面こそ、これまでのシナリオが全てつながる感動的なフィナーレであるからだ。
これに関しては私も完全同意なのだが、このシーンは既プレイ勢は誰でも思いつくところなので、私は私しか取り上げないだろう、あるキャラクターについての演出について取り上げようと思う。私はこのキャラクターの構築の仕方がエンターテインメント作品として見事だと思っている。
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取り上げるのは狩魔冥というキャラクターだ。彼女は18歳だが、主人公の弁護士・成歩堂のライバルとして現れる。これは「逆転裁判2」の話だ。
狩魔冥は、ある事で成歩堂に恨みを持っており、成歩堂と対決する為に日本に戻ってきた。逆転裁判2は基本的にはライバル役はこの狩魔冥が務める事になる。
この狩魔冥はアメリカで13歳で検事になり、五年間無敗で日本に帰ってきた天才検事という設定になっている。13歳で検事は無理だろうと思うが、アメリカでは飛び級があるから可能、というような理屈で検事になっていたと思う。
狩魔冥は天才検事という事でプライドが高く、成歩堂にも敵意を剥き出しにしている。また、父親の狩魔豪も凄腕の検事であり、このあたりも狩魔冥のプライドを強めるのに一役買っている。
狩魔冥自身はそういう「プライドの高い若き天才検事」という形で成歩堂と法定で争う。もっとも、逆転裁判自体はコミカルな要素があるので、そこまで強面のキャラクターではない。何故か法定に鞭を持ち込み、証人や裁判長や成歩堂を鞭でよく打ったりしている。このあたりはコミカル調の演出となっている。
狩魔冥はそのようなキャラクターなのだが、とはいえ、実際は「18歳の普通の女の子」だったりする。そして、法定で見せている強気のキャラクターの裏では弱さとか、苦しさとかがあったりする。これは優れた検事であり続けなければならないというプレッシャーから来ている。
私が感心したのは、この「狩魔冥に秘められた弱さ」が爆発するシーンがたった一シーンしかない、という事だ。
狩魔冥はシリーズとしては2と3に出てくる。2は成歩堂のライバル役。3ではライバル役からは降りるがそれなりに重要なポジションで出てくる。ただ3を足しても、狩魔冥が本当に弱い自分を全開で見せるシーンはたった一シーンしかない。
この一シーンでは、当時はゲームボーイアドバンスだったからドット絵だが、ドット絵で狩魔冥が泣きじゃくる絵が一瞬だけ表示される。そこで、狩魔冥は自分が背負ってきた「検事として完璧でなければならない」というプレッシャーに耐えられない姿をはじめてみせる。
この一シーンが起点となって、それまでの狩魔冥の言動に違う意味が与えられる。つまり、実際にはそれほど強くはない普通の女の子の狩魔冥が、努力して天才検事であり続けたという事だ。
私が感心したのは、繰り返すが、狩魔冥の「本心」が見えるのはこのたった一シーンしかないという事だ。
この一シーンがあるから、狩魔冥というキャラクターは十分に掘り下げられたキャラクターとなっている。だが、この「実は18歳の普通の女の子」という場面がもし繰り返し現れれば、普段強がっている狩魔冥のキャラクター性も嘘くさくなってしまう。そして本心と仮面との差異がなくなり、キャラクターとしては平板になってしまうだろう。
ここでは本心を見せるシーンがたった一つしかないという抑制により、狩魔冥というキャラクターを魅力的に描く事に成功している。
私がこれと逆に感じたのは「鬼滅の刃」のアニメで、最初からキャラクターが泣き叫んでいるのを見て、私はすぐに視聴をやめてしまった。
(もっとも「鬼滅の刃」自体はエンタメ作品としては悪くないと思っているので、これはあくまで心情描写の話だ)
最近の傾向としては、俳優の藤原竜也への扱いなんかが代表だが、「いい俳優は泣いたり叫んだりしてキャラクターの内面を外に表す」という考えが一般的になっているのではないかと私は感じている。これは昔の「いい俳優は抑えた芝居をする」という考えとは真逆なものとなっている。
私はこうした「役者は泣いたり叫んだりして内面を吐露する」という考えが一般的になっているのは、視聴者の方でキャラクターの内面を感じる力が弱くなってきているか、そういうエネルギーを無駄に使いたくない、そうした傾向が支配的になっているからではないかと思う。
これは「内面の透明化」とでも言うもので、キャラクターの内面が視聴者に筒抜けの状態だ。私はこれはあまり良い傾向ではないと思っている。
狩魔冥の描き方は、こうした傾向とは反対のものだと私は考えている。狩魔冥は、たった一シーン、ドット絵で泣きじゃくるシーンを入れただけで、十分に内面と外面の差異がある、生きた存在になった。
私はこの描き方は優れていると思う。この描き方が優れたものになったのは、作者がキャラクターへの描写を十分に抑制した為に他ならない。全てを表す事が優れているとは限らない。ただ、隠されたものを感じる力も、エンターテインメントとはいえ、観客に要請されている能力の一つなのかもしれない。




