落語声劇「権助提灯」
落語声劇「権助提灯」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約20分
必要演者数:3~4名
(0:0:3)
(0:0:4)
(0:3:0)
(1:2:0)
(2:1:0)
(3:0:0)
(4:0:0)
(3:1:0)
(2:2:0)
(1:3:0)
(0:4:0)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
旦那:どこかの商家の旦那。本妻公認の妾持ち。
押しが弱く流されやすい。
権助:落語における権助は、たいていが田舎から出てきた飯炊き男の役回
りを与えられる。今回は旦那の供で提灯持ち、妾の家へいざ行かん
。
女房:旦那の本妻。
普通なら妾の存在に嫉妬なり激怒なりするはずなのだが、着物や
芝居の切符を送るなど、あまり仲が悪そうには見えない。
風が強い晩だから妾が心配と、旦那を行かせるほど。
妾:旦那の愛人さん。
いつも気を使ってくれる本妻に恐縮しきり。
●配役例
【3人】
旦那:
権助:
女房・妾:
【4人】
旦那:
権助:
女房:
妾:
※枕は旦那役以外の誰かが適宜兼ねてください。
枕:「悋気は女の慎むところ、疝気は男の苦しむところ」なんてことを
言います。
焼きもちってのは女の専売特許のように言われがちですが、
これはとんでもない間違いで、野郎でもずいぶん焼きもちを焼くとい
う事がありますが、これは陰にこもって嫌なもんでございます。
かたや女でも、焼きもちを焼かないという方もいらっしゃる。
そうすると男というものは調子に乗るもので、他にお妾さん、愛人を
作っちゃったりなんかする。今だと大問題ですな。
不倫だ、浮気だ、慰謝料だ!とくるわけでございます。
江戸の昔でも不倫、いわゆる不義密通というものは重罪として扱われ
、場合によっては死罪もありえました…が、これは建前で、
現実には不倫された側、サレというそうですが、不倫相手に間男代…
現代での慰謝料を払わせることで示談にして、表ざたになる事はあま
りなかったそうです。
だから不義密通は当時、かなり横行してたわけです。
だからこんな噺もできあがって、現代に残っちゃったりしてるわけな
んですな。
ことに奥さんもお妾さんも焼きもちを焼かない、一部の男にとっては
夢のような話もできあがっちゃったりするわけでございまして。
旦那:あぁあぁ、くたびれた…。
ようやく帳面が付け終わった。
もう目がしょぼしょぼしょぼしょぼしてるよ。
そうだ、お湯がまだ冷めてないようだったら、すまないがお茶を
煎れてくれるかい。
女房:はい、お仕事はもう済んだんでございますか?
旦那:うん、だいたい片が付いた。
毎月の事なんだけどもね、いや、番頭さんに任しちゃえばいいんだけ
ども、月末くらいはやっぱり主の私が帳面を見ておかないとね。
別に疑っているわけじゃないんだけども、これも私の仕事だから
仕方がない。
あ、そうだ、濃いお茶よりもほうじ茶の方が美味しいから、
ほうじ茶をひとつ煎れてもらおうかな。
女房:さようでございますか。
少々お待ちを…。
【二拍】
どうもお疲れさまでございました。
それであの、今日は夜分からずいぶんと風が強くなるようですよ。
旦那:そうだね、西北の風ってやつだ。
あぁ表の戸をバンバンバンバン叩いてるな。
こういう時は火事が多いなんて事を言うからね、
気を付けてくれなくちゃ困るよ。
女房:それよりも、さっきからあたしが気がかりなのは、あの子のとこな
んですよ。ばあやと二人っきりとあと狆が二匹でしょう?
狆が何の役に立つわけでもなし、ただただくるくるくるくる回って
るだけでしょうし。
ですから今晩あたり、向こうへ行ってお泊まりになってあげたら
よろしいんじゃないですか?
男手の一つもないと、あの子が安心して寝られないんじゃないかと
思うんです。
そういう時に来てくれると女というものは嬉しいもんですし、
あたしもそのぐらいの事はしてやりたいんですよ。
どうです、お前さん?
旦那:えっ、お前、それは本気で言ってるのかい…?
これは驚いたね…お前が焼きもちを焼かないのは知ってはいたけ
ど、まさかお前からそういう言葉が出てくるとは思わなかったよ。
ふぅむ…お前がそう言うならまぁ…うん、うん……けどお前、
本当にいいのかい?
女房:ええ、ぜひそうしてあげてくださいな。
うちは大ぜい奉公人がいるから男手もございます。
だから大丈夫ですよ。
旦那:うん、そう言ってくれるなら、わかった。
それじゃ、行ってくるかな。
女房:そうしてくださいな。あたしもそれでいいんですから。
あ、着物を着替えて下さいね。
結城ものがありますよ。
旦那:いやあ、夜だからいいよ。
女房:いけませんよ、あたしが嫌なんです。
表へ敷居をまたいで出ると、男には七人の敵があると言うじゃあり
ませんか。
あたしもちゃんとしてあげたいんですから、どうか着替えてくださいな。
お願いしますから。
旦那:まあ…確かにそう言うな。
うん、わかったよ。着物を出してくれ。
女房:はい、ただいま。
旦那:あ、それからね、供を一人頼むよ。
いやね、横丁の角が暗い上に、誰が何のために掘ったか知らんが、
大きな穴があるんだ。
つまづいて転んで怪我をしても馬鹿馬鹿しいし、穴に落っこっても
実にくだらないからね。
だから誰か供を一人つけてくれ。
長松でも定吉でもいいよ。
女房:それなんですけど、みんな寝込んだとこなんです。
弱りましたね…起こしましょうか?
旦那:むむ、起こすってのもなんだな…誰かいないかな。
一人でいいんだ、誰かしら起きてるだろ。
女房:あ、一人おります。
旦那:おぉそれでいいや。そいつを起こしてきてくれ。
ところで誰だい?
女房:飯炊きの権助ですよ。
旦那:権助ぇ?
そりゃ勘弁しておくれよ。
女房:え、でも誰でもいいっておっしゃったじゃありませんか。
旦那:いや実はね、こないだ真っ昼間に連れて歩いて懲りたんだよ。
尻っ端折りしてるところに汚い越中ふんどしの布がだらーんって
垂れてるんだ。
すり切れた草履を履いて、醤油で煮しめたような汚い手ぬぐいでほっかむ
りしてる。穴が空いてるもんだから、そこから毛がぼうぼうと生えて出て
るんだ。夕立の後の雀みたいで実にざまあないよ。
おまけに手を後ろに組んで唾は吐くし、手鼻はかむし、立小便はするし
、品なくゲラゲラ笑うしで、私はたいそう恥をかいた。
もうあれだけはご免だよ。
女房:そうですか…。
じゃあどうします?誰か起こしますか?
旦那:うぅぅん……あぁまぁいいや…、あれでいい。夜の事だし、
権助でいいよ。
女房:それじゃあたしが呼んできましょうか。
旦那:あぁいや、いいよ。呼びつけるから。
権助!権助や!
権助:ぅう~えぁい。
さっきから返事してるべよ。
なんか用かい!?
旦那:聞き返してる暇があったらこっちへ来なさい。
権助:行かなきゃダメかい?
うっかり行って夜夜中に変な所を見せられても困るでよ。
旦那:~~いいから早くこっちへ来な。
権助:へえい。
こんばんわ、なんだね?
旦那:なんだい、ぼーっとつっ立って。
なんで座らないんだ。
権助:立ったままの方が動きやすいでよ。
用ォ言いつけられりゃあすぐ行けるから、この方がよかんべ。
旦那:いいから座んなさい。
いや、大した用じゃないんだ。
ちょいと提灯持ちで、あたしの供をしておくれ。
権助:はあ、供かい。
それァかまわねえけんど、どこさ行くんだべ?
旦那:どこでもいいだろ。
権助:ダぁメだァ、そりゃよかァねえだよ。
旦那様ァ行く先わかってるけんど、おらァ分からねえだからなァ。
どこへ連れて行かれるか、心許なかんべ。
鹿児島へ連れてかれるか、台湾に連れてかれるか、はたまた北京か
上海かーー
旦那:この野郎、そんなとこへ連れて行くわけがないだろう。
そんなバカな事があるか。
権助:へへへ、ダメだよ。
バカな事があるだなんて思わねえ事が、世の中には起きるだでなあ。
あんな堅え堅え言ってた番頭さんが、女ァこしらえたくれえだで。
旦那:うるさいね。
なんだな…うん、横丁のアレのとこへ行くんだから、ちと付いて
きなさい。
権助:あははァ、あぁアレかい?
えぇよろしゅうございます。
まぁどこへでも供するけんど、どんな具合になるだね?
旦那:うん、これからすぐに行くんだ。
だからお前は提灯に火を入れてくれ。
権助:あぁ分かっとるで。
そいだら高張提灯下げて行くべか。
旦那:お前ね…どこの世の中に高張を下げて女のとこへ行く奴があるんだ
い。
権助:別によかんべぇ。おらァ聞いたど?
この話はおかみさんも知っとるだし、ご親類も取引先もみぃんな
知ったうえでもらったっちゅうことでねえか。
なに一つやましいこたァねえし、隠す事もねえべよ。
旦那:ああ、その通りだよ。
権助:ならよかんべぇよ。
こせこせ裏から行くよりも堂々と高張立てて行きなせえ。
こういう者がいるちゅう事を世の中の野郎に堂々と見してやったら
よかんべぇ。
「一人ぐれえはこういうバカが、いなきゃ世間の目が覚めぬ」
てな、歌の文句にあるべや。
旦那:何を言いやがるんだこんちきしょう。
ふざけんじゃないよ、まったく。
いいからそこのぶら提灯に火を付けて、支度しな。
権助:…なんでごぜえますだ?
旦那:~~だから、ぶら提灯に火をつけろってんだよ。
権助:はぁそうでごぜえますか。
このぶら提灯に火を付けたら燃えるけんどええべか?
旦那:~~ッあのな、なんでいちいちそういう理屈を言うんだ。
わかりそうなもんだろ。
ぶら提灯の中のろうそく立てにろうそくを立てて、そのろうそくの
頭に火を付けろってんだよ!
権助:ははは分かっとるだよォ。
からかっただけでねえか。ムキになって大人げねえなあ旦那様は。
旦那:~~…ったく、しょうがないやつだ。
それじゃ、行ってくるよ。
女房:はい、よろしく伝えて下さい。
たまには遊びにくるようにと。ええ、わたしは構わないんですから。
旦那:ああ、わかった。
おい権助、支度はできてるかい?
権助:もうできとるだよ。
旦那:…あのな、できてたらなぜできましたと言わないんだ。
権助:言おうと思ったがね、名残を惜しんでるようで可哀想だったでな。
さ、出かけべぇ出かけべぇ。
旦那:~~…はぁ。
じゃ、留守を頼んだよ。
権助:ははは、こらァ風がびゅーびゅー言ってるだなァ。
鼻がもげそうだでよ。
しかしなんだべ、旦那様も嬉しかんべえ。
旦那:何がだよ。
権助:おかみさんもええ女にゃあ違えねえが、だいぶトウが立ってきたで
なァ、若えアマっこにはかなわねえってやつだなァ。
旦那:うるさいね。
さぁさぁさぁ、どんどん歩きな。
どんどん歩くんだよ。
権助:へいへい、歩いとるだよ。
旦那:歩いとるってお前、あたしの後ろを歩いてちゃしょうがないだろ。
前に立って歩きな。
権助:へへ、よかんべ。
「三尺下がって師の影を踏まず」と言うでな、
おらァ家来だから出しゃばっちゃいけねえと思ってな。
旦那:提灯持ちが後ろから歩いてきてどうするってんだよ!
暗いんだから、お前があたしの先を歩かなきゃしょうがないじゃな
いか。
権助:はは、そうかねえ。
先を歩かなきゃしょうがねえなんてな事を言って、何か出てきても
おらに任して逃げんべぇと思っとるだべ。
旦那:そんな事をする奴があるか。
権助:そりゃあまあ冗談だがな。
なんのかんの言うけんど、旦那様ァなんだね。
よくおらァ起こして供にしようと思っただね。
この間の立ちしょんべんで懲りてるはずだけんど。
旦那:なんだとこの野郎。
お前、承知のうえでやってたのか。悪い奴だな。
みんなぐっすり寝てるんだ。起こすのも可哀想だろ。
権助:ははは、そうだんべなァ。
【つぶやくように】
寝てるのをおこしてこれから妾ンとこ行くから提灯持ててえのは、
いくらなんでも恥があって言いにくかんべぇ。
旦那:何かいったか、権助。
権助:あぁいや、なんでもねえ。
ほんのわずかなこった。
旦那:この野郎、男らしくない奴だな。
なんかあったら大きな声で堂々と言いな。
権助:ははは、そうかい。大きな声で言って構わねえか。
じゃあまぁ、大きな声で喋るかな。
【クソデカ声で】
えぇ~一年ぐれえあのアマっこと続いてるが、夜寝た味はどうだべ
ェ!?
旦那:ぉっこっ、この野郎、はっきりした事を言いやがるな…!
なんてこと言うんだ!
権助:へへ、まあ気にすることはねえ。
わずかなこった。
旦那:急に小さくなりやがったよ。
どうも嫌な奴だなお前は。
こまごました所へ気が付いてなかなかいい子だよ。
権助:何がこまごましたとこに気が付いてだ。
そんな事はおらァ別に聞きてえわけでねえだよ。
話をそらしたってダメだァ。逃げようったってそうはいかねえべ。
うちのおかみさんだってなかなかいい女でねえかい。
旦那:あぁなかなかいい女だよ。
権助:そうだんべなぁ。
なんでまた脇に一人持つ気になっただ?
旦那:そりゃあ男というもんにはな、いろいろ欲の深い所があるんだ。
権助:はは、そうかねえ。
欲の深すぎるような気もするべ。
この夜夜中、達者なもんだ。
旦那:何を言ってるんだこの野郎。
権助:はは、でー何けぇ?こうやって供してくと、いくらか小遣いくれる
んだべな?
旦那:なんだ?欲が深いな。
権助:男は欲の深いもんだって、旦那様がそう言ったでねえか。
言ってることが時々違ってくるってのはだらしねえもんだべ。
旦那:~~ぐずぐず言わないで、ちゃんと照らして歩きゃそれでいいんだ
よ。
権助:へへへ…お、着いたけんど旦那様、どうするべ?
旦那:起こしなさい。
権助:起こして構わねえかい?
【ドンドン戸を叩きながら】
起きれェ―いッ!
おぉーいッ!起きれェーーーいッ!!
アマっこ起きろほれェ!
旦那が来たってなァ!
月づき金を持って来る旦那が来たから起きろォ!
眠たがらねえで起きろォほれ!
金の冥利だァ!
旦那:ッなんて起こし方をするんだ、バカ!
妾:はぁい、どなた…?
旦那:ああ、あたしだ、あたしだよ。
妾:!まあ、どうなすったんですか、こんなに遅くに。
お仕事のお帰りなんですか?
旦那:いや、別に帰りでも何でもないんだ。
家で寝ようとしてたんだ。
すると家のやつが、「風も強いし、こんな晩こそ向こうへ泊まって
やると、女というものは心強く思うから」なんて言うんでな。
まあ、家のに言われてきたようなもんだ。
妾:そうなんですか。まあ嬉しいじゃありませんか。
なんのかんのと…私みたいに幸せな者はございませんよ。
いつもいつもまあ世話になって…そればかりじゃありませんのよ。
ふつうこんな事をしていたら白い目で見られるとか、意地悪されるとか
、嫌がらせされるのが当たり前なのに、やれ着物だ帯だと頂戴して…
こないだなんて、芝居の切符が入ったからどうだなんてお誘いを
受けたりしたんですよ。
その上こんな晩に行ってやれだなんて…本当にもう私は果報者で
ございます。
旦那:お前がそう思ってくれてありがたいよ。
それじゃ、上がらしてもらおうか。
妾:ぁっちょっ、ちょっと待ってください。
旦那:?なんだい急に。
妾:お願いがあるんです、聞いて下さいな。
その、大変にありがたいんですけど、そのお気持ちを私がそのまま
受けてしまったら、本当に甘えっぱなしで、物の分からない女に
なり下がります。
お願いですから、今晩だけはお宅へ帰って下さい。
旦那:うぅん…そんなに気にしなくたっていいんだが…そうか。
まあ分かったよ。戸締りをちゃんとして寝なさい。
おい権助、提灯に火を入れろ。
権助:おぇあ?どうしたんだい?
旦那:なんでもいいから、先を歩きなさい。
権助:なんでおらが先を歩くんだ?
どうした、泊めてくれねえのか?
そんなバカな事なかんべぇ。てめえのもんなんだから、押し入って
入ったってよかんべ。
それとも何け?ここんとこの月づきの払いが溜まったりなんかして
んのかい?
旦那:そうじゃないよ。あれの言う事ももっともだ。
良いところがあるよ。
権助:へへへ、良いところがあるだなんて…ま、振られて褒めてりゃあ
世話ァねえべ。
さてどうするだ?今さら帰らなかんべえ?
おらと遊びにでも行くかァ?うん?もう一人こさえるかァ?
旦那:うるさいな。
権助:へへ、なんか言うとうるせえうるせえーーっほれ危ねえ!気を付け
ろ!穴があるでな。
旦那様がおっこって死んじまうと、二軒店が潰れちまうべ。
…さ、着いたけんど、どうすべ?
旦那:ああ、起こしなさい。
権助:【ドンドン戸を叩きながら】
起きれェ―いッ!
おぉーいッ!
起きれェーーーいッ!!
出戻りの旦那様が帰って来たでェ!
無駄足踏んで帰って来たァ!
女房:はい…あれ、どうなすったんですか?
留守だったんですか?
旦那:いや、いたんだ。で、話をしたんだよ。
お前の事を言うと大変喜んでたよ。
それで、いろいろ気を使ってくれてるらしいな。
大変にありがたいって嬉しがっていたんだけど、あまりそれに甘え
て物の分からない女になるのが嫌だと言うんだ。
それで今晩だけはお宅へ帰ってくれと、そう言うから帰って来たん
だ。
女房:まぁそうですか…あの子は立派ですね。
旦那:ああ。で、あたしもそう思うからこうして帰って来たんだ。
女房:そうでしたか…これは驚きました。
お話は分かりました。けど、それはそれです。
あちらへ泊まって下さい。
旦那:えっな、なんでだい…!?
いいじゃないか。
女房:いいえ、いけませんよ。
気持ちはわかります。気持ちはわかりますとも。
でもだからと言って私が家へ泊めたら、今後お前さんの示しが
着かなくなりますよ。
こうしておめおめと帰って来られたら、私の立場もないじゃありま
せんか。
後生ですから、向こうへ泊まって下さいな。
旦那:うぅむ…わかった。
権助、提灯に火を入れろ。
権助:ああ、消さずに待ってただよ。
旦那:お前ね、何て無駄な事をするんだバカ野郎。
なんだって一つで済むものを二つも使って。
それを無駄と言うんだ。
権助:こりゃあすまねえべ。言われりゃもっともだべ。
一つで済むものを二つも使ってなんてな、近所にある話だ。
旦那:皮肉を言うんじゃないよ。
権助:うへへへ、皮肉に感じるところを見ると、これでもわかるか。
旦那:わかるよ、バカ野郎っ…!
権助:向こうもダメでこっちもダメか。
いよいよ住むところが無くなったべ。
おらァの村でも来いや。
旦那様一人の世話ぐれえするでな。
おらの村は米もうめえしよ、ドジョウもたんといるし、
タニシも獲れるべ。
旦那:そんなことはどうでもいいんだよ。
権助:へへへ、あっち行ってダメ、こっち行ってダメ…、
ほれ、着いたべ。
【ドンドン戸を叩きながら】
おぉ―いィッ!
また来たぞォーぃッ!
開けろやほれェーーーッ!!
寝たふりすんなァーーッ!!
旦那:寝たふりする奴があるか。
妾:…どうなすったんですか、旦那様?
旦那:ああいやな、お前の事を話したら大変に喜んでたよ。
それで、女には女の示しがつかない道があるから、やはりこっちへ
泊まってくれてな事を言われてな、こっちへ来たんだ。
今日はここで泊めてもらおうか。
妾:まあ…涙が出るほど嬉しいです…!
でも、奥様の気持ちは分かりますけど…それでもし私が泊めたら、
明日からもう二度と奥様に顔向けができなくなります。
どうかお宅へお戻りになってください。
旦那:うぅぅん……。
権助、提灯に火を入れろ。
…何にも言わずに黙って歩けよ。
権助:へえい。
【二拍】
旦那様、着いたで。
【ドンドン戸を叩きながら】
おぉ―いィッ!
また帰って来たぞォーぃッ!
開けろォーーーッ!!
旦那:あー、あたしだ、あたしだ…!
女房:あら、どうなすったんですか。
旦那:いや…向こうも泊めてくれないんだ。
明日からお前に顔向けできなくなるからお宅へ戻れって言うんだ。
女房:そうはおっしゃっても、私も泊めるわけには参りません。
一度言い出したんですから、どうか向こうへ泊まってください。
旦那:~~権助、提灯に火を入れろ。
権助:はあぁ行ったり来たり忙しねえべ。
【ドンドン戸を叩きながら】
おぉーーーいッ!
また来たぞォーーーッ!
妾:後生ですから、今晩だけはお宅へ戻って下さい。
旦那:【だんだんベソをかき始める】
権助ェ、提灯に火を入れろ!
権助:まるで飛脚だべ。
やっぱり小遣いもらわにゃ割にあわねえだよ。
【ドンドン戸を叩きながら】
ぅおぉーーーいッ!
開けろォーーーいッ!!
女房:何べん言わせるんです。女には女の道があるんですから、向こうへ
お泊まりになって。
旦那:【半泣きになっている】
ッ権助ェッ、提灯に火を入れろォ!
権助:ぁ~それには及ばねえべ。
旦那:どうしてだ?
権助:夜が明けたぁい。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
立川談志(七代目)
柳家一琴
※用語解説
・悋気
男女間の事で(主に女が)焼くやきもち。
・疝気
男性特有の、下腹部や睾丸が痛む病気の総称です。
現代医学では、脱腸や睾丸炎、神経性腸炎、寄生虫症などの
病気を指し、当時の人々はこれらの症状をまとめて「疝気」と呼んでいた
。
・妾
愛人。二号さん。
・狆
日本原産の愛玩犬種。
他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきたため、
体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬。『狆』という文字は和製漢字
で、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫
の中間の獣の意味から作られたようである。開国後に各種の洋犬が入って
くるまでは、姿・形に関係なくいわゆる小型犬のことを狆と呼んでいた。
庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた。
・結城もの
結城紬の着物の事。
茨城県・栃木県を主な生産の場とする絹織物。単に結城ともいう。
奈良時代から続く高級織物で、本結城の工程は国の重要無形文化財。
近現代の技術革新による細かい縞・絣を特色とした最高級品が主流。
元来は堅くて丈夫な織物であったが、絣の精緻化に伴い糸が細くなってき
たため、現在は「軽くて柔らかい」と形容されることが多い。
・敷居をまたいで出ると、男には七人の敵がある ませんか。
正しくは「男は敷居を跨げば七人の敵あり」
一歩家を出れば社会には多くの敵(競争相手や困難)がいるため、
油断してはならないという意味。この「七人」は特定の7人を指すのでは
なく、多くの敵がいることのたとえである。
・越中ふんどし
長さ三尺(約91 cm)、幅一尺(約30 cm)の布の端を筒状に縫い、
その筒に腰紐を通した下着である。一部ではクラシックパンツ、
サムライパンツとも呼ばれている。
・高張提灯
長竿の先に大きな棗型の提灯を掲げる提灯の一種。
江戸時代初期に武家の照明器具として使われ始めたのが起源で、
現代では祭礼や葬儀の行列、飲食店の看板、店舗装飾などに目印として
広く用いられている。
・ぶら提灯
まっすぐな柄の先につけてぶら下げるようにした提灯。
ぶらりちょうちん、またはぶらとも言う。
・三尺下がって師の影を踏まず
弟子が師を敬うために、三尺(約90cm)ほど下がって歩き、
師の影さえも踏まないようにする、という意味。
師匠を尊敬し、常に礼儀を正しく保つべきであるという戒めの言葉。
・トウがたつ
人が若い年頃や盛りの頃を過ぎてしまうこと。
もともとは野菜が「薹が立つ」状態から来ている比喩表現。




