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終焉の十三階段  作者: 速水静香


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第七話:虚像

「行きましょう。」


 私は強がった声を出した。今は動き出さなければ。

 この部屋に留まっていては、私たちまで、この世界に取り込まれてしまいそうな気がした。


 二人で部屋を出ようとしたとき、階段から微かな音が聞こえた気がした。

 私とユイは顔を見合わせる。下には誰もいないはずなのに。


「行きましょう。」


 私の声には、少し震えていた。

 階段からの音は気のせいだと思おうとしたけれど、確かに何かが下にいるような予感が消えない。


 ユイの表情が強張るのを見て、私は彼女の手を取った。二人で部屋を出る。

 階段を降りる時、私たちの足音だけが異様に大きく響いた。


 リビングには誰もいない。

 昨夜の私たちの夕食の痕跡も、まるで遠い過去の出来事のように感じられた。それほどまでに、ここにあるものから、生活感が急速に失われていた。


 玄関で靴を履きながら、私は外の様子を窺った。

 見慣れた住宅地なのに、どこか違和感がある。

 

 その違和感の正体を、よくよく考えてみる。

 そして、気が付いた。


 生活音がないことに。

 車の音、誰かの会話する声…。

 すべての色彩が脱落し、無人になった住宅地がある。


「アイリ、私…。」


 ユイの声が震えていた。


「大丈夫よ。私が一緒だから。」


 強がった言葉を口にしたけれど、私自身も不安で押しつぶされそうだった。


 外に出ても、相変わらず、住宅地は静まり返っていた。

 ただ整然と並ぶ家々が、まるで展示品のように続いている。


「私の家に行きましょう。」


 私は提案した。目的もなく歩き回るよりは、まず私の家で状況を確認したほうがいい。

 両親が戻っているかもしれない。

 そう願いながらも、その可能性が低いことは分かっていた。


 ユイは私の腕にしがみついたまま、足早に歩く。

 街全体が赤褐色の色調を帯びているかのように感じた。


 だから、私は後ろを振り返る勇気はなかった。

 ユイの家が私たちの背後で、どんな様子になっているのか、確かめたくなかった。


 時折、風が吹き抜けていく。

 砂ぼこりを含んだ乾燥した風。

 朝の心地良い風からは、まるで正反対のそれ。


 けれど、その音さえも虚ろに響くだけ。


 まるで世界から命が抜け落ちていくような感覚に襲われる。

 

 私たちは黙々と歩き続けた。新興住宅地の中を進んでいく。

 本来なら、この時間帯には通勤や通学の人々で賑わっているはずの道路に、私たちの足音だけが響いていた。


 住宅街の様子は、さらに異様さを増している。建物だけでなく、道路の色合いも不自然に見える。まるで夢の中の風景を歩いているかのようだ。

 しかも、この夢は間違いなく悪夢だ。


「アイリ?」


 ユイが不安そうに私を見つめている。私は首を振った。


「大丈夫。すぐそこだから。」


 歩みを進める。けれど、足が重い。まるで空間そのものが粘り気を帯びているかのよう。


 やがて、私の家が見えてきた。白いモルタルの壁に平たい陸屋根。

 見慣れた我が家の姿なのに、どこか異質に感じられる。

 まるで模型のように、どこか何かが欠けている。


「玄関の鍵…。」


 私はポケットから鍵を取り出した。

 鍵穴に差し込む。

 カチリと音がした瞬間、背後で何かが動いた気配がした。振り返る勇気はなかった。私は急いでドアを開け、ユイの手を引いて中に入った。


 私たちは静かに玄関を閉めた。音を立てないように注意深く。

 二人分の呼吸が、何もない玄関に満ちていく。

 いや、本当に何もないのだろうか?

 家の中は、昨日出ていった時と変わらない。見た目は同じでも、その空間が異質なのは確かだった。


「アイリ、お家に誰かいるの?」


 ユイが小さな声で尋ねた。

 私は、一瞭のためにスニーカーを脱ぐ。小さな音が、玄関の床を伝う。


「…分からないわ。」


 ユイも同じように靴を脱いだ。


 廊下を伸ばすと、リビングのドアが見える。そこにかすかに差し込んでいる陽光は、朝陽のはずなのに、夕陽のように錆びた感覚を生んでいた。

 そして、その先にあるリビングへと向かう。その一歩は、私の意識を強く引き付けていた。


「アイリ、えっと…。」


 ユイが、私の腕を掴んだ。


「一緒に行くわ。」


 私が言うと、ユイは小さく頷いた。


 私たちは、リビングに向かって歩みを進めた。

 一歩、一歩と。

 見慣れたはずの廊下の距離が、どこまでも伸びていくような錯覚を覚える。


 私たちは、リビングのドア前に立ち止まった。息を殺すように静かに、その瞬間を待っている。

 まるで、その先に予想もしなかったことがある予感に満ちていた。


「ドアを開けるね。」


 私は、ドアのノブに手をかけた。


 リビングのドアを開ける。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 その向こう側へと。


 たちまち、私の脳裏が真っ白になった。


 ユイが、息を飲んだ。

 その理由は分かった。


 リビングでは、父と母が普段通りの生活を送っていた。

 父はソファからテレビを見て、母が皿を洗っている。まさしく、日常の一場面だった。


「お父さん…お母さん…。」


 思わず、声が出ていた。

 あの失踪から戻ってきてくれたのだ。まさか本当にいるなんて。

 全てが普段通りの光景で、急速に心が温かくなっていく。


「ただいま…。」


 私は思わず一歩を踏み出した。  

 リビングでは、父がテレビを見て、母が皿を洗っている。懐かしい生活音が、私を包み込んでいく。

 もう一歩、踏み出した。


 まるでいつもの帰り道のように、自然な流れで私の体が動いていく。


「お父さん、お母さん…ごめんなさい、心配かけて…。」


 私の足は、ゆっくりとソファへと向かっていた。


 父の隣の定位置。いつもの私の場所へと。


 何も考えられなくなっていく。ただ、この日常の安らぎに入っていきたいだけ。


 リビングの空気が、私を誘うように柔らかく働きかけていく。

 まるで、ここに居れば全てが元通りになるような気がして。

 世界の終わりの予感も、消えていく人々のことも、全てが遠ざかっていく。


 ただただ、このリビングでの時間が、永遠に続くかのように思えた。

 周囲の色彩が鮮やかになっていく。

 私の意識は、夢の中に入っていくかのようだった。

 眠る直前のまどろみのように、全ての感覚を優しく感じた。


「アイリ!アイリ!アイリ!」


 ユイの叫び声が、私の意識を現実へと引き戻す。


 その時、目の前の光景が一変した。


 飛び飛びの映像を永久にリピートしているかのように、父と母は、同じ瞬間を繰り返している。

 父はテレビを見続け、その手はリモコンを握ったまま。

 母は流しに向かって同じ皿を洗い続けている。


 いや、違う。

 二人は、数秒おきに同じ瞬間を繰り返していた。

 二人とも、その姿はまるで色褪せた世界に閉じ込められたかのようだった。


 ある一瞬を永遠に繰り返す存在。自分の意思とは関係なく、同じ行動を続けなければならない魂。

 それは生きているのではなく、ただその瞬間に縛り付けられているだけ。


 このリビングにいるのは、もはや、父でも母でもない。

 ある一瞬の時間の中で、永遠に同じことを繰り返している、そんな何かになり果ててしまったのだ。


 それは煉獄に囚われた魂。

 これは、ある瞬間に閉じ込められた者たち。


 ずっと、ずっと…。永久に繰り返すことを強いられている。

 そして、父と母も、その仲間入りをしてしまったのだ。


 そんな父と母を見て、私は理解してしまった。

 あの図書室で見たセーラー服の女子生徒たち。

 図書室で見た十数人の姿。階段で見た女子生徒。クラスメイトの失踪。そして今、目の前にいる父と母。


 これらは全て同じものだと。


 私の周囲の世界が、急速に色を失っていく。

 リビングの空間そのものが、朽ちていくような感覚。


 さっきまでの温かな生活音は完全に消えると、強烈な孤独感が支配しはじめる。

 その不気味な現実が露出してきた。

 それらは全てが朽ち果ててしまい、終焉した世界。

 世界が、襲い始めていた。


 私も、このまま世界に閉じ込められてしまう。


「アイリ!アイリ、早く、早く!ここから逃げようよ!」


 泣きじゃくりながら、ユイは私の腕を引っ張っている。

 

 そのユイに縋ることで、私は、ようやく体を動かすことができた。

 ユイに引っ張られるように、がむしゃらに玄関へと走る。


 もう振り返ることはできなかった。

 振り返ると、あのリビングに陥ってしまう。


「アイリ!」


 私たちは必死で玄関へと向かった。

 自分の家から必死で逃げ出す。


 ユイを支えにすることで、ようやく私とユイは、外へと飛び出す。


 私の家が、私たちの背後で徐々に色を失っていくのが分かった。

 まるで写真から色が抜けていくように、あの異界の空間に飲み込まれていくかのように。


 私たちは走った。息が切れても走り続けた。


 どこへ向かえばいいのか分からないまま、ただ必死に前へと進んでいく。

 立ち止まれば、私たちも永遠に繰り返される瞬間の中に閉じ込められてしまう気がした。


 そんな恐怖に追い立てられるように、私たちは走り続けるほかになかった。 


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