第三話:侵食
いつも通りの朝。
学校の校舎に入った私は、昇降口にいた。
出入口の広いドア。
そこにあるガラス窓からは、生徒たちが次々と学校に到着している様子が見えている。
そして、私の周囲には、賑やかな声と足音に満ちていた。
私は、靴箱の前で通学用のローファを脱いだ。
校内用の上履きへと履き替えるのだ。
ああ、それにしても…。
今日は快晴で良かった、と思った。
靴箱に置いていた上履きを取り出し、代わりにローファを入れながら、そんなことを考えていた。
これで雨や曇り空だと私はとても憂鬱だったことだろう。天気のせいで、さらに不安な気持ちになってしまうに違いなかったから。
頭の中は、まだ昨日見た出来事でいっぱいだった。それは消し去りたい記憶なのに、一人になると強制的に思い出されてしまう。
昨夜は眠れなかった。何度も目が覚めた。一人で布団の中にいると、あの女子生徒の姿が、まるで走馬灯のように思い出されて、私の意識の中をぐるぐると回り続けていた。
ユイは、昨夜はよく眠れたのだろうか?
もしかしたら、私と同じように、昨日のことを考えて眠れなかったかもしれない。
いや、意外とユイは気にしない性格なのか? いつもなら、こういった不思議なことには興味津々なはずなのに。
でも、今回ばかりは様子が違った。
ただ、あの超常現象のようなものは初めてだった。私もユイも、こんな経験は初めてで、どう受け止めていいのか分からない。
私は上履きを履き終えると、ローファを靴箱にしまった。
一人でいると、どうしても昨日のことを考えてしまう。早く誰かと話をしたかった。
朝の雰囲気の中で、私は教室へ向かっていた。
一階の廊下では、たくさんの生徒たちが、あちこちで笑い声を上げていた。
男子たちのふざけ合う大きな声。女子たちの甲高い笑い声。朝の学校には、生徒たちの活気があふれていた。
いつもなら気にならない他人の会話が、今日は妙に心強く感じられた。
「おはよう、アイリさん。」
知っている女子が声をかけてきた。
「おはよう。」
私は返事をする。
人と話すことで、昨日のことが少しずつ遠のいていく気がした。
教室にいくため、廊下を一人で歩くのは、いつものことなのだけれど。周囲の賑やかな様子に何となく、心が落ち着く気がした。
一人になると、ふとしたときに、昨日のことを思い出してしまうのだ。
あの不気味な光景が、まるで私の心の中に住み着いてしまったかのように。
そんなことを考えていると、教室の前に着いていた。
私は教室のドアを開けた。
中に入る。だけど、私は違和感を覚えた。いつもよりも談笑している生徒たちの声が小さい気がした。大きな声で冗談を言い合う声がないのだ。その代わりにヒソヒソと小さな私語が教室に満ちている。
まるで、何か大っぴらにできないことがあるような…。そんな空気だった。
けれど、なぜこんな雰囲気なのか、私にはわからなかった。この違和感は、昨日の出来事と関係があるのだろうか?
それとも、私の気のせいなのだろうか。
分からない。
鞄を机の横にかけ、私は席に着く。
周囲の様子が気になって、つい教室を見渡してしまう。他の生徒たちも、何かを感じているのだろうか。
みんな、明らかに、いつもより小さな声で話し合っている。
そうしているうちに、ユイが教室に入ってきた。
昨日の出来事を共有している唯一の存在。
私は少し安心した気持ちになった。少なくとも、この不可解な体験を一人で抱え込まなくて済む。
そう思うと、心の中の重たい気持ちが、少しだけ軽くなった気がした。
「おはよう、アイリ。」
いつもの元気な声とは違って、少し沈んだ様子のユイ。やっぱり、昨夜は私と同じように眠れなかったのだろうか。
「おはよう。」
私も小さな声で応える。二人とも、昨日の出来事を思い出していることが分かった。
「ねえ、アイリ。昨日のこと、気になって…。」
ユイは私の机の横に立ったまま、声を潜めて話しかけてきた。まるで、誰かに聞かれることを恐れているかのように。
「私も、よく眠れなかったの。」
ユイはやっぱり、元気が少なめだ。いつもの彼女なら、こんな様子は見せない。それだけ、昨日の出来事は私たちにとって衝撃的だったのだ。
「そうだよね。私も全然。」
ユイは自分の席に着きながら、続けた。
「あの動画のこと、考えちゃって。それに、あの階段で見た…。」
私は強い口調で遮った。
「ユイ、それは気のせいだって言ったでしょう。」
その話題は口に出すべきではないと思った。特に学校で、このことを話すのは危険な気がした。
それはなぜだろう?
本能的な危機感だった。でも、その感情や理性などとは別に、私の深いところでは、つい考えてしまう。
あの女子生徒の姿を、私とユイは同時に目撃した。
幻覚なら、二人が同じものを見るはずがない。そう思うと、昨日見たものは確かに存在したのだと思えてくる。
でも、それが事実だとすれば。現実には存在しないはずのものを、私たちは確かに見てしまったということになる。その答えを知るのが怖かった。
「うん、そうだよね。気のせい、だよね…。」
ユイはそこまで言うと、周囲を見た。教室の異様な雰囲気が、彼女の不安をさらに大きくしているようだった。私もユイも、本当は分かっているのだ。昨日のあれは、決して気のせいではなかったと。けれど、その事実を認めることは、私たちの知っている世界が、もう安全ではないということを意味している。
「そういえば…。今日、なんだか静かじゃない?いつもならもっと騒がしいと思うのに。」
「そうね。私も気になってたのよ。」
教室の空気が、昨日までとは明らかに違っていた。
まるで、私たち以外の誰かも、何かを感じ取っているかのように思えてしまうくらいに。
小さな私語がコソコソと交わされるだけで、いつもの賑やかさがない。独特の雰囲気。
「なんでだろう…。」
ユイが首を傾げる。
「何かあったのかしら。」
私もその理由が分からなかった。
「ねえ、アイリ。」
そこまで言って、ユイは少し考えるような仕草をしてから話し始めた。
その様子は、何か言いたいことがあるのに、躊躇っているようだった。
「もしかして、昨日の女子生徒、私たち以外にも、誰かが見たのかな…?」
「まさか。」
即座に否定したけれど、私の声には確信がなかった。
二人で見た以上、あの存在は間違いなく実在した。だとすれば、他の誰かも目撃している可能性は十分にある。
脳裏には、昨日の帰り際に見えた、女子生徒の姿が浮かぶ。誰かがあの姿を見て、この異様な雰囲気を作り出しているのかもしれない。
私はそれを打ち消すように、ユイに何かを話しかけようとしたとき、予鈴が鳴った。
「あ。」
ユイが小さく声を上げる。朝のホームルームの時間が近づいていた。
生徒たちは自分の席に着き始める。私語は徐々に小さくなっていくけれど、完全には消えない。
この時間でも、担任の先生がいないことは珍しいことだった。
このクラスになってからの担任の先生は几帳面な性格で、朝のホームルームでは、必ずチャイムと同時に教室に入ってくるはずなのに。
そんなことを考えながら、私はじっと自席に着いていた。
予鈴の音が消えた後も、先生は来なかった。
チャイムが鳴る。
そのチャイムとほぼ同じくらいに、教室のドアが開いた。先生だ。
今日の先生は、いつもと様子が違っているように見えた、どこか表情が硬い気がした。
いや、私が昨日からの流れで疲れているのだろうか?
そうかもしれない。けれど、今日は確実に、何かがおかしいような気もする。
「おはようございます。」
担任の先生は教壇に立つと、教室を見渡した。
先生が、いつもより深刻な表情をしていた。それは私たちにも分かった。何か重大なことが起きているのだと。
「今朝、皆さんにお伝えすることがあります。」
担任の先生の声が、静かになった教室に響く。いつもの穏やかな話し方とは違う、重々しい口調だった。
先生は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
とても、尋常ではない語り口。
これから、一体何を話すのだろう?
「……さんが、今朝から行方不明になっているそうです。皆さんは……。」
先生の言葉が、静まり返った教室に響く。
私は思わず、教室の前方を見た。
その生徒の席。確かに、空席となっている。昨日までは、その姿を見ていたはずなのに。
あまり仲が良かったとはいいがたいけれど。流石にいなくなった、となれば別だ。
昨日まで確かにそこにいた生徒なのだ。
「現在、警察にも連絡をして、捜索を始めています。昨日の…。」
先生の言葉は、まるで水の中から聞こえてくるように不鮮明だった。
もはや、私の意識は、行方不明になった女子生徒のことで満ちていた。
いつも授業中、北校舎の方を見つめていたように見えた。
昨日も、ずっとあちらを見ていたはず。北校舎のある方向へと、視線を送り続けていた。その姿が、今になって妙に生々しく思い出される。
一体、彼女は何を見たのだろうか?
…いや、駄目だ。そんなことを考えては…。
その意思に反して、私の脳裏には昨日見た、セーラー服を着た…。
「…皆さんも心当たりがあれば、教えてください。」
先生の声が現実へと引き戻してくれた。誰かがため息をつく音が聞こえた。
この話題を昨日の事と結び付けて考えることを、私はやめた。
朝のホームルームが終わると、教室は一気に緊迫した空気に包まれた。
生徒たちは小さな声で、互いに話し始めていた。
「アイリ…。」
ユイが、私の席まで来ていた。
「集団失踪事件と、関係あるのかな…。」
ユイは、恐る恐るという感じだった。
外から聞こえる鳥の声が、突如として遠ざかっていくような錯覚に襲われた。
「そんなはずないわ。」
即座に否定したものの、自分に言い聞かせているような口調になってしまった。
私たちの周囲では生徒たちが、失踪した級友のことを囁き合っている。その声が、妙に耳に着いた。
「アイリ、私ね…。」
ユイは机の上で手を組み、言葉を選ぶように間を置いた。
「昨日、部室から帰るときに。あの階段で見た、あの女子生徒って…。」
「ダメよ、そんなこと考えちゃ。」
私は慌てて遮った。
けれど、その瞬間、昨日目にした光景が鮮明に蘇る。セーラー服姿の女子生徒。そして、その存在が消え去った瞬間。
「でも、アイリ。私たちが見たのは本当のことで…。」
ユイの言葉を、チャイムが遮った。
「授業が始まるわ。」
私は強引に話題を変えた。
教科書を開き、授業の準備を始める。
私の様子に、ユイも自分の席へと戻っていく。
やがて先生が入ってきて、黒板に数式を書き始めた。チョークの音だけが教室に満ちていく。
昨日、私たちが見たものは、本当に気のせいだったのだろうか。
◇
放課後の北校舎。
教室から部室へ向かう途中、私とユイは昨日の階段の前を通らなければならなかった。
私とユイは、無言のまま足早に階段の横を通り過ぎていった。私は、階段を見ることもできず、ただひたすらに前を向いて歩いた。
特に打ち合わせたことではなかった。単純にもう変なものを見たくなかったのだ。
階段を超えると、いつもの静かな廊下を抜けて、部室へと到着した。
私とユイは部室へと入った。
窓の外から聞こえる部活動の声も、ここにはほとんど届かない。
私たちは、いつものように鞄を机の上に置いて、座る。
「アイリ。」
ユイが話しかけてきた。幾分、元気がないのは多少はしょうがない。
「昨日の動画、うちのクラスの子が消えたのと、何か関係があるのかな…。」
ユイは机を抱えるようにして、おぼつかない声で言った。
「分からないわ。」
私は、手にしたスマホを手にしながら、考え込んだ。
なんとか、論理的に整理しようと試みる。
今朝のホームルームでの先生の話。教室の重苦しい空気。そして、失踪した生徒の空っぽの席。
冷静に考えれば、偶然だと思えるけれど、私たちが調べていた、例の集団失踪事件との関連を考えずにはいられなかった。
「あ!」
突然、ユイが声を上げた。
目線は私の持っているスマホを見ている。
「私、スマホを教室に置いてきちゃった。取りに行ってくるね。」
慌てた様子で立ち上がる。
そのまま、ユイは一人で行こうとする。
「ユイ!一人で行くの?」
「うん。すぐ戻ってくる!」
私は、あの階段を横切ることになるけれど、と言いたかったけれど。
それを口にすると、何もかもがおかしくなってしまう気がして、口に出せなかった。
そのまま、ユイは慌ただしい足取りで部室を出て行った。
建付けの悪いドアが、音を立てて閉まった。
机の上には、私たちの置いた鞄と、昨日、棚の上から出した、段ボールがあった。
手持ち無沙汰になった私は、何となく、段ボールを開けた。
段ボールの一番上には、例の取材ノートがあった。
私は、ノートを見つめていた。手に取るべきか迷う。
これまでの私なら、非科学的なことは全て否定してきたはずだ。
でも今は、失踪した子のことを考えると、どんな可能性も排除できない。昨日から次々と起きる不可解な出来事が、私の中の常識を少しずつ崩していた。
普通に考えれば、こんな古いノートに、今起きている失踪事件の手がかりがあるはずがない。
そう思いながらも、私の手は否応なくノートへと伸びていった。昨日見た、あの異様な光景。消えゆく女子生徒の姿。そして今朝の失踪事件。これらは偶然なのか、それとも何か関係があるのか。
紙の質感からして、古くから保管されていたことが分かる。まるで図書館で閲覧する貴重な資料のような趣があった。
これを読むことで、何か分かるかもしれない。その期待は非合理的だと分かっていながら、私の理性は完全には否定できずにいた。あの瞬間に感じた強烈な孤独感と、色を失っていく世界の記憶が、私の中でまだ生々しく残っている。
昨日読んだページを探す。
ペラペラと、注意深くページを捲っていく。手が小刻みに震えているのを感じた。
昨日、このノートを読んだときの激しい頭痛と、あの幻覚めいた光景が、また起こるのではないかという恐れが心の中で膨らんでいく。
そして、あの記事を見つけた。失踪事件について書かれた部分だ。
文字を追おうとする度に、昨日の恐怖が背中を這い上がってくる。それでも、私は目を逸らすことができなかった。
私は思わず立ち上がった。部室の窓から廊下を見る。
長い黒髪を背中まで伸ばした女子生徒が、ゆっくりと進んでいく。昨日、階段で見た姿と同じ。あの時感じた異様な雰囲気が、再び私を包み込んでいった。
ふと、何気なく窓の外を見た。
その瞬間、私の呼吸が止まった。
部室の窓から見える廊下には人影があった。
この部室の窓は、すべて曇りガラスだった。
そんな、曇りガラス越しの廊下が、どこか赤褐色のような感じで色褪せて見えた。そんな風景の中を、一つのシルエットがゆっくりと進んでいく。
すりガラスを通して見える姿は輪郭がぼやけているものの、セーラー服のラインははっきりと分かった。背中まで伸びた長い黒髪。
その姿が、どこか色褪せた風景を歩いている。まるで終わりを迎えた世界の中を歩いているかのようにも見えた。
この世の終わり。
私は思わず、立ち上がっていた。
「ユイ…?」
でも、違う。これはユイではない。ユイが着ているのは、私と同じブレザーだ。
昨日の記憶が急速に蘇る。あの階段で見た光景。
セーラー服姿のシルエットは、私の声など聞こえていないかのように歩き続ける。
その姿が、窓の端から消えようとしていた。
真相を確かめてみる。
恐怖の元は、種明かしをすると大したものではない。
例えば、風に揺れるススキの穂の感触を人の手だと思い込むような。そう、きっと単純な勘違いなのだ。
私は急いでドアに手をかけた。ドアを開け、廊下に飛び出す。
そこには、誰もいなかった。
空っぽの廊下。突き当たりにある階段が、今までと違って見える。どこまでも上へと続いているような錯覚に陥った。
「アイリ!」
ユイの声が背後から聞こえた。振り返ると、スマホを手にしたユイが立っていた。
「何してるの?」
その瞬間、私の呼吸が止まった。
「何してるの?」
「あなた、今、この廊下を通ったわよね?」
「え?えっと。まあ、今帰ってきたばかりだけれど。」
ユイの言葉に、私の背筋が凍る。
「さっき、誰かが廊下を歩いていくのを見たの。セーラー服を着た女子生徒が…。」
私の言葉にユイの表情が強張った。
「アイリ、それって…。」
二人で窓の外を見る。廊下は色あせたように感じた。
簡単に言えば、赤褐色のフィルターが世界にかかったような。セピアな色。
まるで世界が終わった後かのような風景が見えているような気がする。
これは気のせいだろうか?
分からない。
「部室に戻りましょう。」
私は冷静を装って言った。
でも、自分の声も震えていた。こんな状況で冷静でいられるはずがない。
私たちは部室に戻り、がっちりとドアを閉めた。
いつもの空間なのに、妙に居心地が悪い。机の上の取材ノートが、私たちを見つめているかのようだった。
「あのセーラー服の子って、なんなの?」
ユイが机に置かれた取材ノートを見ながら言った。
「やめましょう、そういう話は。」
私は制止したけれど、もう遅かった。
ユイの口から、恐ろしい推測が語られる。
「1999年の失踪事件。その生徒の一人じゃないかな?」
その言葉が部室に満ちた。
「帰りましょう。もう、ここにいない方がいいわ。」
私は立ち上がりながら言った。
ユイも頷く。でも二人とも、この後どうすればいいのか分からなかった。
私たちの目の前で、現実が少しずつ崩れていくような感覚。
色素が完全に抜けていた。どこか、退廃的な…。世界が終わっていく感覚。
それは昨日から始まっていて、今も確実に進行しているのだと、この時初めて気がついた。




