休みの日
まったく先の見えない労働のわずかばかりの対価のために疲弊する私の精神をいたわる余裕すらもなく、でも、仕事が終わればやはり、そこにはわずかばかりの心地よい何かがあった。
それはただの辛い労働からの解放という錯覚なのかもしれない。でも、それでも、ただ生きているだけのこの人生のこの瞬間の中で、それは、心地よかった。
久しぶりの休みの日。今日はなぜか朝早くに目覚めた私は、何となしに窓辺を見る。明るい日差しが、ガラス窓一面から差し込み眩しいくらいだった。
朝に起きられないのは夜更かしばかりのせいじゃない気がした。やっぱり、生きるストレスが、私を堕落させている。そう感じた。
「あっ」
ふと窓辺のカーテンレールにぶら下がる植木鉢に目が行く。そこから伸びる、枯れたはずの蔓の先から、また新しい小さな緑色の芽が出ている。名も知らない蔓性の観葉植物。お店で見かけて、安かったので、ただ何となしに衝動的に買ってしまったそれを、私は窓辺に吊るしていた。水はちゃんとやっていたはずなのに、なぜか枯れていくそれを私はただ見てるしかなかった。
私は近くまで行って、それを覗き見る。やっぱり、新しい、芽が出ていた。その先のわずかばかり命の息吹きに、私はなぜか大きな喜びを感じた。
あの日、部屋全体がこんにゃくみたいに揺れた。その中でゴロゴロと部屋の中を転がる、何もできない私はただの一物質にしか過ぎなかった。何もできないまったくの無力の中で、そのことを意識する意識だけがあった。
結局、人間など自分で生きてるようでいて、自然のなんだかよく分からない慈悲のような、絶妙なバランスの中でただ偶然生かされているだけの、些末な儚く弱い存在でしかなかった。
そのことを、私たちは強制的に気づかされてしまう。
なんだかよく分からない者の手の平の上で、ただ踊らされているだけの、滑稽な存在。どんなに死にたくても生きてしまう時は生きてしまうし、どんなに生きたくても死ぬ時は死ぬ。それだけの存在だった。人間は――。
弱く儚い存在。何者でもない存在。あらためて、私とは何ぞやと、どうせ考えたって分かりもしないそんな高尚なことを、ふと考えてしまっている自分がいた。
ただ、でも、人間は哀れだと思った――。
それが私の答え。
心は弱い。私は憎しみに囚われる。どうしても許せなくて、私は悶えるように憎しみに苛まれる。
どれだけ強くなったら、私はあの人たちを許せるのだろう。
「・・・」
私は満たされたのだろうか。私は自問する。
あの日、私は満たされたのだろうか――。
私の望んでいたはずの光景が目の前にあって、私を傷つけたすべてが流れ、流されて行った。
誰も知らないはずの私の思い。
あの日、私は満たされたのだろうか――。
ただ明日があればよかった。当たり前の明日――。
ただ私は逃げることしかできなくて、あの日、私は私の町を捨てた。
結局、何も分かってはくれなかった。世間一般的に言えば、非常に物分かりのいい両親だった。でも、結局、私の年代の私の立場の苦しみなど、戦中や戦後に産まれた二人に分かるわけもなかった。
対立しなくてもいい、むしろ大切な人と対立せざる負えないその日々の葛藤の中で、お互いが疲弊していかざる負えない悲しい状況を、でもどうすることもできず、そのことに私はさらに疲弊していく。
あの日、私はやはり、逃げるしかなかった。この町から、私の家族から、私のすべてから――。
私は誰も傷つきけたくなかった。両親も私自身も――。