現実
匂い――。遠い記憶の向こうにある懐かしいあの人工的で科学的に合成されたフルーティーな匂い。
小学校のすぐ近くの井上文房具店の文具コーナーに行くと、いつも必ず鼻をついたあの匂い。私はその人工的な匂いに本能的な拒否感を感じながら、しかし、私のもう一つの本能はどうしてもいい匂いとして反応してしまう。その匂いを、私はふいに、今鼻先で嗅いだように思い出す。
あれはなんだったんだっけ。匂い玉?確かそんな名前だった気がする。筆箱に入れておけば、ただいい匂いがするというだけの、ただそれだけのアイテム。
今までまったく忘れていた、今の今までまったく欠片も思い出したこともない、そんなどうでもいいあの頃の日常の些細なこと。それをなぜか今ふと思い出す。
緊張はまだ続いていた。何時間経っても、どれほど時間を経ても、慣れることのない、消えることのない私の中の恐怖。動悸、吐きそうになるほどの心臓の鼓動が私の胸を打つ。
いるはずのない同級生たちに会うような気がして、私の中に湧き上がる堪らない不安と恐怖。多分もうダメだろうと思っている、でも、どこかで望んでいる生きていて欲しい人たち。その現実を見てしまうことの恐ろしさ。
刻み込まれた恐怖。私は怯えていた。私は故郷に怯えていた。
「川・・」
川が流れていた。あの川だった。変わり果てた町の中で、そこは何も変わっていなかった。あの川はあの時のあの川のまま流れていた。いや、むしろ以前のあの川よりも美しくさえ見えた。
「・・・」
町にこの川がなかったら、多分、私はどうにかなっていたと思う。
とてもとても生きているってことが辛い時、学校にも家にもいたくない時、名前も知らないこの小さな川の土手に来て、制服のスカートが汚れるのもかまわず草の上に座り、私はただこの川の流れを見つめていた。
いつもどんな時もゆったりと流れるこの川の流れが、壊れてしまいそうに激しく渦巻く私の心の波をやさしく平らに撫でてくれた。
ここでのこの時間は気持ちのよい孤独を私に与えてくれた。ここではいつも安心して一人になることができた。
私はあの時と同じように、河原に座った。あの時の空気も匂いもそよぐ風も何も変わっていなかった。ここだけは、この町の自然だけは何も変わってはいなかった。
足がガクガクと震えていた。ガクガクガクガクと立っていられないほどに震えていた。
足ってこんなに震えるものなのか・・。まるで自分の足じゃないみたいに激しく震える自分の足を、でもどうしようもなく私はそのまま歩き続ける。
この先に・・、
この先に私の家がある・・、はず・・の場所がある・・。
見てしまうのが怖かった。現実を、真実を見てしまうのが怖かった。
ずっとずっと目を反らし続けて来た現実。見ないようにして来た現実。
激しい鼓動が、私の胸の中で不安と共に打ち鳴らされる。ドクドクドクドクとそのまま爆発してしまいそうに激しく鼓動している。
なるべく遠回りして、遠回りして、でも、やっぱり来なければならなかった場所――。
私の足は増々震えていた。ガクガクガクガクとどうしようもなく震えていた。
多分、ダメだろう・・。
そう思っていた。
多分ダメだろう・・。多分、きっと・・、きっとダメだろう・・。
絶対にダメだろう・・。
そう思っていた。でも・・、でも・・
「・・・」
私の家はなくなっていた。その周辺の地域ごとなくなっていた。
「やっぱり・・」
失望と共に、でも、どこか安堵感があった。
「やっぱり・・、やっぱり・・」
はっきりとした現実。靄が晴れたような気持ち。でも、これは何かの錯覚で、何の救いでもないことを私は知っていた。でも、今はこの錯覚の中にいたかった。
私はやっぱり現実から逃げている。
「・・・」
すべてを失ってしまったことの現実を見ているはずなのに、私にはそのことに対する実感は欠片もなかった。何もかもを失ったという事実だけが、頭とは別のところでふわふわと漂っていた。




